第8話 8月下旬の1日

彼の職場に私から電話をして、有給休暇を勝ち得た。だから平日の昼間に彼はぼうようとソファで座っている。時折、そのまま眠っている。最近眠れていなかったことを思い返せばいい傾向だ。

ソファで眠りながらどんな夢を見ているのか私にはわからないが、以前のようにはね起きたり叫んだりしないから、きっといい夢を見ているのだろう。夢ぐらい守ってやりたい。



「ねえ」

「ん?」

「イタリアンが食べたい」

「ピザでも作ろうか?」

「いや、外に食べに行こう。外を歩きたい」

「いいよ、それなら着替えよう」



彼に手渡した鞄の手元には身体守という御守りがついている。彼の職場近くにある神社で有難く頂いてきたものだ。

その御守りに恥じないように私は栄養を考えて、彼にご飯を食べさせて、療養させている。御守りは私の意志を貫くための道標になっている。

これを見たらこうしなきゃと思う。暗示だと思う。そしてその意志を貫けたことに対して神様にお礼を言うのだ。


今日も今日とて暑い日だ。カンカンと照りつける日差しを帽子で遮り、気だるげな蝉の声を聞きながら近くの家族向け食事処レストランに向かっている。

腕を滑り落ちていく汗には気がついているが、この往来で今の状態の彼の手を離す方が怖い。暑いからか少し嫌々をした彼の手を逃がさないように捕まえて握った。



「きっとさ」

「ん?」

「急にコンクリートになったら、ここで成長を待ってるセミが出てこれなくなっちゃうね」



駅前の工事で道の一部が土からアスファルトに敷き直されていた。確かに突然自分の頭の上がカチコチのアスファルトになってしまったら蝉は上に出てこれなくなってしまう。

自分のことで想像したらプールで潜水して数分で上がる予定が、上に蓋されたみたいなものだ。最悪だ、普通に死ぬ。



「きっとさ、日本の道路の下にはたくさんの蝉の遺骸が埋まってるよ」

「そうかもしれないね」



先程の嫌な想像を振り払いながらも固められていくアスファルトを止める術はない。ここがアスファルトでなければバスが通らなくて困る人がいるのだ。車椅子で通りたい人がいるのだ。だから蝉の頭上は固めて、アスファルトにならなけらばならない。


誰かの幸福は誰かの犠牲で成り立っている。みんなが幸福である世界であれば一番いいけど、現実そんな世界はありえていない。

現にこんなのほほんと過ごしている、私たちの横を駆け抜けた子どもや長椅子ベンチに座る老人は彼が生命をすり減らして彼らの生活と生命を守っていることを知らない。



「硫黄島なんてさ、俺たちの先輩が滑走路のアスファルトの下に眠ってる。その上を今の俺たちが離着陸している」

「どうしたの急に」

「人間が土台になって支えているものもあるんだから、蝉の犠牲も仕方ないよな」



そう言って彼は乾いた笑いをあげた。心のこもってない、ちょっと悪いことを言ってみちゃったという子どものような顔で私のことを横目で見ている。

悪いことしてみたよ、ねえ、怒らない?と聞かれている気がする。

善良な彼と違って、本当に悪いのは私の方だからそんなので怒ったりなんかしない。なぜならそんなこといって、誰々に失礼を言ってしまったと凹み、虚空やちょっとした御守りに謝っている彼を知っている。


硫黄島、私も仕事で降り立ったことのある島だ。かつての大戦で激戦があった島だ。


今も本土まで帰って来れていない諸先輩方が数多く眠っている。島の海岸には米国アメリカの補給艦が打ち捨てられ、路肩には戦車や戦闘機だった残骸までもそのままになっている。昔の小銃だってそのままその辺に落ちている。靴や水筒なども、そのまま数が多過ぎて未だに回収していない。

物だけではない。硫黄島は激戦過ぎて、遺体を弔うことすら出来なかった。米国アメリカ軍は日本兵の遺骸があるその上にアスファルトを敷いて滑走路にした。それは今も日本が使っている。島の周りの潮の関係で船の接岸ができないからだ、試みた米国アメリカの補給艦は島に乗り上げてそのまま景色となっている。今はその上に草が生えて、草花の楽園になっている。

血や遺体から発せられる死臭に悩んだ米国アメリカ軍が大量の花の種を島中に撒いたのだ。だからより先輩方を見つけるのが難航している。難航しているのかもよくわからない。

見えているものすら回収しきれていない。戦闘機も、管制塔も、戦車、大砲、そしてどこにあるのかすらわからない壕の数々がそのままになっている。


多くの人が降り立つときに不思議な感覚を覚える。私も硫黄島に着陸したときには腹の底から、表現しにくいが、ぞわりとした感覚を覚えた。

飛行要員パイロットたちはあの島にいくと護られてる気がするという。事故になる!と思ったようなときでさえ、風などので事故にならないことが多いらしい。

諸先輩方は可愛い後輩たちを愛してくれている。私もそう思っている。先輩たちを敬愛する気持ちさえ忘れなければ先輩は優しいものなのだ。


でも今の彼が言うのはそういうことじゃないだろう。防人たちの苦痛は、苦労は、同期の死は、本当に。確かに我が国の護りになっていると彼は確かめたいのだ。

でも既に防人であることから離脱して、国のことよりも彼のことが大切な私は彼と同じ目線でそれを語ることはできない。



「ごめん、疲れちゃった。少し休憩していい?」

「いいよ、そこに公園があるから屋根のある長椅子ベンチに座ろう」



日陰にあった木製の長椅子ベンチまでどこか温い。夏の暑さは夕方になっても、日陰でも健在だ。



「ねえ」

「ん?」



最近は私の目をまっすぐ見ることを避けていた彼が私を真っ直ぐに見上げていた。悩みがうつっているようにその力強さのない、ぼんやりとした視線を私はずっと追っていたが視線に力がある。



「俺は君が一番大切なんだ」

「どうしたの急に」

「だから、だからね」

「うん」



彼が私の心を掴んで話さない小さな手を私に差し出した。灯りに向かう蛾のようにあっさりと彼の手に掴まれると私は彼の隣に座ることになった。短い長椅子ベンチに2人で座るとかなり狭い。



「だから、俺は防人を辞めようと思う。俺自身が犠牲を払うのは俺はいいと思ってた。でも、君が犠牲を払うのは俺は嫌だと思う。それは俺が防人でいたい希望よりも、君といる毎日の方が大切だから。俺は転職する」

「そっか」

「うん、嫌?」

「なんで、君が後悔したいと言うのなら。それが悩んで出した君の結論でしょ?」

「うん、君にこれ以上犠牲を払わせ続けるのは嫌。俺の小さな自尊心プライドのために、俺と君の未来、まだ会ってない子どものために、防人は続けられない」



そういうと彼は私の肩口に顔をつけた。泣いている。これまでの彼の努力を打ち捨てなければならないことを自分で決めて、彼は泣いている。彼の憧れで居られないことに、自分の弱さを知って彼は泣くのだ。

先輩たちに導かれて、護られてこれまで歩いてきたと彼は感謝しているから、自分の弱さに泣いている。


暑い夏の日に何をしているんだと冷静に言う私の幻覚を打ち捨てて、彼の背中に手を回した。

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