第7話 8月中旬の夕刻
その日はなんだか急に秋刀魚か買いたくなった。
今日の夕飯も寂しく一人で食べることは昨日よりも前から、
私とて働いている時分には、日勤という8時から17時まで働くという区分であるにも関わらず、いつもいつも夕飯を職場で食べていた。なぜだか会議が夜中の23時に開始したりするのだ、日勤の意味をきっとわかっていない人がいるに違いない。
嗚呼、そうに違いない。防人というのは極端に学がない人が一定数混ざっている、それこそ言語が通じないのもいるぐらいだ。別に海外育ちという訳でもないのに日本語が通じない人がいる。あれ?なぜだか、幹部にもいる気がしてきた。学というのは学んだ年数のことではなく、相手を思いやる共感性のことを指すことにしたらいいに違いない。
そんなことしたら私の学は下がるに違いないけど、きっと彼は評価が上がる。それなら良いような心持ちになる。優しい真面目な人こそ悪い目に合う、この現実というのを吹いて飛ばしてやりたい。
ガチャリ
古びた鍵の開く音がした。ここの家の鍵は私と彼しか持っていないはずだ。なぜその扉が開くのか。不思議に思って玄関をのぞきこめば玄関に座り込む彼の姿があった。とても立派そうに見える制服に身を包んで、早くも白さと薄さが目につく髪を撫でつけた彼は私を見つけてぽろぽろ泣き出した。
「ごめん、ごめんなさい」
突然そんな風に泣きながら謝られても私にはさっぱり状況が掴めない。とりあえず帽子をかけて、彼をずりずりと引き摺って座布団の上に乗せてみた。これは制服に皺が入ってしまうに違いない。またあとで制服を押し潰す《プレス》をしないといけない。
「どうしたの?」
「俺、後先考えなかった」
「うんうん、偶にはいいよ。君がそうするなんて珍しいね」
そうなのだ。後先考えずに上司に啖呵切ったり、殴り返したり、尻を触られた反射で相手の急所を蹴り上げたり、後先を考えない行動は私の十八番だ。その後のどうしようもないような処理はお手の物だ。さあさあ、私に言いなさいな。
「よしよし」と言いながら彼の背中を擦る。死んでしまうこと以外なら大抵のことが取り返しがきくし、なんとかなるのだ。なんともならないものはなんともならなくて、どうにか生きていけるどうでもいいものだと私は思っている。だって、どうにもならないままで良くなかったら修正できるはずなのである。だから修正できないならそのままでいいのだ。そのままでなんとかするしかない。
「今の職、変えてもらえないなら辞めますと言っちゃった」
想像より思い切ってた。やや驚いたものの、まあ私なんて既に辞めてるのだ。通った道、彼と上司のやり取りは想像がつく。
「そっか、うん、で、上司はなんだって?」
「お前は疲れてるから休んでからもう一度考えるといい。
「うんうん、私もそれがいいと思うよ。とりあえず今日は秋刀魚が焼ける。解してあげるから食べよう」
「どうしよう」
「大丈夫。今日はお腹いっぱいにして寝たらいいの。とんでもないことも処理できちゃう有能な私に任せるといい」
「わかった、そうする」
そういうと彼は張りぼての制服を脱いで、席に着いた。私の素晴らしい第六感が、彼の好物を買って帰れと命じていたのだ。「なんて素晴らしい勘だ」と自画自賛する。勘はこれまでの経験と知識の積み重ねで生じる。根拠を論理的に述べられないが、勘が下す命令は大抵が論理的結論だ。だから勘が当たったら私は私を褒める。
「秋刀魚?」
「うん、秋刀魚」
「美味しそう」
「お粥出すよ、秋刀魚食べれそう?」
「秋刀魚、自分で食べる」
震える手で彼は秋刀魚を解した。栄養が足りなさ過ぎて手に力が入らないのか、それとも泣いているからか、どちらもだと思う。
私の倍の時間をかけて解した秋刀魚を彼はぱくりと口に入れた。あんなにもお粥ですら「うっ、ごめん」と言っていた彼がぱくりと食べた。私の中にある内心の喜びを外に出したら彼を余計に泣かしてしまう、素知らぬ振りをして豆腐の味噌汁を彼の前に出した。もしかしたら他のものも食べれるかもしれない。残したら明日、私が食べればいい。それだけだ。
彼が食べるかもしれない、その可能性に比べたら食べ物を捨ててしまう危険性なんてそこらに落ちる埃と同じだ。どうでもいい。あ、いや、埃は目の敵にして掃除する。なにか他のものに例えようとしたが、上手くいかない。
「美味しい」
「うん、今日の秋刀魚は脂が乗ってて美味しいね」
実際に前に見た秋刀魚よりと丸々と肥えている秋刀魚だった、焼いた時も脂が落ちてじゅうじゅうと音を立てていた。
「味噌汁も、お粥も」
「うんうん、今日は気合を入れて出汁から作ったんだ」
嘘だ。私はいつもお味噌汁は出汁を煮立ててきちんと作っている。今日の味噌汁が特段美味しいわけではない。ずりずりと私は味噌汁を啜るが、味はいつも通り、変わりなし。
涙を流しながら彼はご飯を食べる。
それでもいつもの倍は食べている。時間もいつもの倍だが、それでも食べてくれた。
「ごちそうさま」
「お風呂入っておいで、片付けるから」
「お風呂、入れてくる。君と一緒に入る」
「そう?じゃあ、いい石鹸で背中を洗ったあげるよ」
「俺も洗ってあげるよ」
そういうと彼はそそくさとお風呂の準備に行った。そんなに理解のある職場の人がいるのなら、病院行くために有給くださいはきっと叶えてくれる。彼がそれを自分で望めるのかはわからないが、できなければ私が根回ししてやればいいのだ。彼の職場の内線番号なんてとっくの昔に入手している。繋ぎ方だってお手の物、外線から直にかけることができる。私の元職場、勝手は知っている。
どこまでの無理が可能かも知っている。法律なら部隊でせせこましている担当者より、司令部で人事をしていた私の方がうんと詳しいのだ。
「ねえ」
「うん?」
「俺、痩せたね」
「そうだね」
温かいお湯で彼の背中を流す、使う石鹸は少しいい檸檬の香りがする石鹸だ。これをくれた可愛い元部下に感謝する。
「肋がこんなに浮いちゃって」
「そうだね」
「ごめん、心配かけたね」
「…そうだね」
漸く自分の現実に目を向けられた彼は驚いたように自分の肋の浮いた身体、細くなった手足に向かい合っている。反対に私は順調に肥えているから、鏡にはより彼が細く見える。
「ご飯、美味しかった。いつも用意してくれてたのにごめんね」
「謝らなくていいよ、お礼を言って」
「ありがとう」
本当はかわいらしい新妻らしく「支えて当然なのよ」とか殊勝なことを言いたいが、それでは彼が私を心配するに違いない。
たぶん昔話で聞いたような夫婦はここで彼は湯船に浸かるんだろうけど、彼は「君の背中も洗うんだ」と言って私の背中をさすってくれる。もちろん檸檬のいい香りだ。
「本当に俺でいいの?」
「私は健康な防人と結婚したかったわけじゃない。君が良いからここに来てる」
「…そうか」
「健康なだけでいいなら腐るほどいる、マッチョなんて見飽きてる」
「うん、そうだね。マッチョなやつほど小さなシャツでムチムチ見せつけてくる」
「でしょ?」
同じ同期を思い浮かべているのだろう、あの少しばかり悪いやつを思い浮かべて苦笑いをした。大きな身体に不釣り合いな小さなシャツを着て、そのムチムチ加減を見せつけてくる姿を思い出した。
あんな日々からまだ2年しか経っていない。あのときはあのときで辛いと思っていたが、あのときは楽しかったのだ。仲間がいて、罵倒し合って、生死についてこんなにも間近で考えることもなく箱庭ではしゃぎまわっていたのだ。
彼だけは絶対に取りこぼさない。
背後から彼を抱き締めて湯船に入ると彼は「普通の夫婦は位置が逆」と不服そうだった。なんと彼は私たちが普通の夫婦だと思い込んでいたらしい、それは無理だ。大きさも力関係も明らかに普通じゃない。意地の悪い笑みを浮かべて背中を「えいえい」と突っついてやった。賃貸のお風呂はとっても狭かった。
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