第5話 8月上旬の1日
その日は一本の電話が鳴った。私は既に彼との新居にいる。今まで同様に古くてあちこち錆びているような場所だが、手を伸ばしたら彼がいる。それならそれでいいと私は思うのだ。でも彼が職場に行っている夜にかかってくる電話はなんだか不穏だ。少し身構える。
「はい、もしもし」
「おい!…あれ?」
「あー、嫁です」
「おま!まさか」
「びっくりしたか?びっくりしただろ?彼の嫁になったんだなあ」
うへへへと気持ち悪く笑ってみせるが、電話をかけてきた相手は私と彼の同期の一人だ。
それこそ私がそいつにゲロを吐き掛けたこともある中だ、もちろん彼の前で。そのあと昏倒した私を救急搬送してくれた恩人だが、それ以上にやつには迷惑をかけられてる。同期なんてそんなもんだ。今更キモイとかなんとかを気にするようなそういう間柄じゃない。
ちなみに私の救急搬送のとき、彼は役に立たなかったらしい。なんせ非力だ。見た目通り。それで防人でいいのか疑わしいが、良いのだろう。適材適所で組織はまわる。
彼は無線で報告を入れて、報告書とか事務的なことは全て始末してくれたらしいと聞く、やはり彼はそっちが向いてる。
「で?なんの用?」
「まあ、お前にも関係ないわけじゃないからなあ」
「なにかあったか?
「そうじゃない。なんだと?お前、辞めたのか。まあいい。あいつに直接聞かせるよりまだいい。お前に重荷を背負わせてやる」
「なんだ、誰か病んだか?死んだか?」
こういう言い回しをしてくるときは本当に録な連絡が無い。前にもこういった形でこいつが電話してきたことがあった。電話といってもそのときは職場の内線で、要件があって私から電話した返しだった。
「あいつの親友の、同期が死んだ。朝、出勤して来なくてな。だから家に行ったんだ、そしたら首をつってた」
聞いた名前は私も知らないやつじゃない。むしろ仲のいい同期だった。そうか、彼の親友は死んだのか。「首をつるのは苦しいと聞くから俺は絶対嫌なんだ」とあいつは言っていたはずなのに、そんな言葉も忘れてしまったのだろう。
疲労と、あいつをそこまで追い詰めたなにかが私は憎らしい。そして私はそういう資格を取ったのになにも役に立てなかったのだ、仲のいい仲間だと自称していたのに、なにもしなかった。自分の忙しさと彼との毎日を楽しむ余りに半年以上連絡すらしてなかった。
その対価は重い、ただみんな言うだろう「責任を感じるのは傲慢だ」と。その通りだ。私は傲慢で
そしたらあいつは「そんなことできるわけないだろ、飛んでくるとかお前は
「…そうか」
「ああ、そうだ」
消化不良でおなざりな返事だが、同期の中で最も頭が良いこの同期は同じ言葉を繰り返してくれた。そうすれば人が落ち着いて話しやすいとこいつは理屈から知ってる、かなりめんどくさいやつだ。
私と同類の
ああ、そうだ。私と同類だからこいつは話も合うし、罵倒し合うのだ。お互いの汚い場所を知り尽くす相手だがら罵倒する。なぜなら相手の汚いところは自分も同じ、殆どを掌握している。罵倒する
「やつはなんだって?」
「疲れたってさ」
「減俸ぐらい食らって仕事サボれば良かったのに。本当にあいつは馬鹿だったもんね」
「ああ、そうだな」
「葬儀は?」
「知らん、今朝なんだ。俺たちも書類と現場対応に追われてな」
「そうか、まだ職場か。お疲れ様」
そういえば彼の親友からはまだボールペンを借りていたはずだ。会議のときに忘れて「やば!?」と慌てていたらそっと私のポケットに差し込んでくれた。そういう優しいやつだったんだ、死んだ同期は。そのボールペンの脇にメモ紙を挟んで「使え」と書いたメモ紙と白紙のメモ紙までくれるぐらい気の利くいいやつだった。
会議終わりに返そうとしたら「今度会うとき、飲み会とかでいいよ」とあいつは言った。そうか、飲み会か。そう思って、何度か聞いたが返事がなく半年ほどせっついてなかった。このボールペンはどうやって返したらいいんだ。人の物を棄てられるほど私は悪いやつじゃないぞ。
嗚呼、このボールペンはあいつからの
そうだ、あいつは馬鹿だった。知ってた。あいつは凄い馬鹿だったわ。喉奥が熱くなるが、こいつの前で電話越しだかそういうことは聡いやつに気付かれてたまるか、泣いてたまるか。
「全くお前は気楽になっちまって。俺もお前側に行きたいよ」
「来いよ、気楽でいいぞ」
「そういう悪い部分を堂々と言ってのけるから偶にお前と話したくなるんだ」
「お前に悪いとか言われたくない」
「どっちもどっちだろ」
「違いない」
いつも通り少しばかり言い合いをしてから沈黙した。言いたいことはわかってる。私とお前はとてもよく似てる、言う前から言いたいことなんてお見通しだ。
「お前、気をつけてやれよ」
「わかってる」
「俺たちみたいな悪いやつは、そこまで追い詰められない。ぎりぎりまで言ったら、上司を罵倒してけちょんけちょんにやっつけて、懲戒を食らうぐらいのことは平気でやる悪いやつらだからな。俺たちは。だが、彼は」
「優しくて真面目だからね」
「その通りだ。まあわかってないわけないな」
そんなことを言って。こいつだって懲戒物は二回程度しかやらかしてないはずだ。まだ実際には一回だけだったと思う。私が辞めたあとのことは知らない。
私も懲戒になりかけたことがある。ぎりぎり懲戒にならなかった。上司のダメな所を暴露しようと私が溜めていた書類が、私の懲戒とともに流出するよう仕向けていたから懲戒はなかった。なんせ私は悪いやつだから色々と用意周到に準備している。
第一、その程度の誤差、よくあることだろう。上司に口を滑らせて「とんまで間抜け、なんもできないくせに。偶には仕事をやってみろ」と言ってしまった。つい、うっかり口が滑ったのだ。
本当に私は悪いやつだ。上司だってとんまで間抜けそして旧時代に生きる差別主義者なだけで、全てが全て悪いやつじゃないのだ。生きてる時代を間違えた時代錯誤な間抜けなだけなのだ。
「お前も気をつけろよ。なんかあったら電話してこい、カウセリングしてやるよ」
「誰がお前のカウセリングなんか受けるか。美人で可愛い、ほんわかしたお姉さんに大丈夫でちゅか?と聞いてもらうんだ」
「あ、そう。それならこっちのカウセリングは手荒くグリグリ痛いところをさらけ出してやるよ」
「それ、カウセリングじゃねえよ」
どうでもいい罵倒を、お互いがいつも通りであることを確認するように罵倒して「またな、もう電話してくんなよ」とお互いに言って電話を切った。この前もその前も、同期として一緒に走ってたときからこうだ。今さら「またね」と言いながら「もう電話すんな」という矛盾にはとっくに気がついていて、無視しているんだ。
死んだ同期は二人目だ。
さて、彼にどうやって伝えたらいいのだろうか。本当にあいつは悪いやつだ。私がこうやって悩むことすら織り込み済みで頼んできたに違いないのだから、本当に最低だ。誰もいない彼と住む部屋であいつを罵倒して、少しだけ目を閉じて、暗闇を見つめた。
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