第4話 7月下旬の1日

今日も今日とて微妙な鳴き声で蝉が鳴いている。蝉だって好き好んでこの季節を選んでいる訳では無いだろう、春だと強豪が多すぎて無理だと判断した結果夏にうぃーうぃーと気だるそうな声を出しているに違いない。



「おめでとうございます!」

「係長!おめでとうございます!」



予定通り、私はみんなにひっそりと祝福されて仕事を辞めた。思っていたよりも呆気ない。私にとっては大きくことが動いた大事件なのに、世の中からしたらホントどうでもいいことなのだ。

それにちょっと安堵する。そうでなければ、いちいち手洗い《トイレ》に行くのにお伺いをたてないといけない。私からしてもとってもどうでもいい。


手元に渡された日用品たち、彼らからの気持ちだ。一つ高価な、そして流行りだと私の可愛い部下の女の子が言っていた石鹸がある。きっとあの子からの贈りプレゼントに違いない。

あの子は新兵、入りたての18のころから立ち方や歩き方、走り方、それこそ床の磨き方まで私が育てたから一段と泣きそうな顔をしていた。


悪い例を見せてしまった。私たちの最高指揮官は「女性が輝く…」とうたっているのに、私は速攻辞めた。最高指揮官の命令でも、それは従えない。防人の仕事では、私の人生を捧げるほどにはお金を貰えてないと私は思ったからだ。

私は貰ったお金の分は仕事をするが信念モットーであるが、裏を返せば割に合わない仕事はしない。これも信念モットーだ。


なにより遠くにいて、彼とともに暮らせないのは困る。最近の彼は情緒不安定だ。早く傍に行ってやりたい。強くそう思う。

深夜や早朝にも電話をかけてきて、それに2音も待たせず出れてしまう私の反射神経もどうかしているが、それ以上に彼は今不味い状態だ。電話をしてきて「辛い」「なんでこんなことばかり…」と泣くのだ。

交代制シフトだから時間が適当なのは仕方ないが、あの意地っ張りで常に穏やかそうにしている彼が私に泣いて電話をしてくるのだ。これを異常事態を言わずになんというのか。昨年の春には1ヶ月丸々連絡してこずに、一言「ごめーん」としか言わなかったあの彼が毎日昼夜問わずに私を探している。

真昼間に電話するのが「君に迷惑かも」とか殊勝なことを言っていた彼と同一人物か疑わしい。


カラッポになった私の仮住まいを見やる。防人としては少ししか勤務していなかったのにこの住まいはなんと8ヶ所目の住まいだった。それでも彼と過ごした日々があるからか、それとも壁に向かって「今畜生!あの腐れ!」と叫んだからか、とても思い入れがあった。



「ありがとうございました」



先ほどのひそやかなお別れの祝福の喧騒からも遠ざかって、この部屋はただなにもなくだだっ広い二間のただの部屋だ。


さっきまで私のお気に入りのカーペットが引いてあって、敷きっぱなしになっていた布団が鎮座していたはずの場所には伽藍堂の空間が広がっている。そこに手を突っ込んでみても、少し埃っぽいだけでもちろん何も無い。私もなにかあると思って床に触れたわけじゃない。昨日あんなに全力をあげて清掃したのにもう埃っぽい、なんて酷い埃なんだ。文字通り塵ひとつ残さず床を磨き上げたのに、どうして宣誓してくる間ぐらい落ちるのを待ってくれないんだ。



「さて、もう行こうかな」



誰に話しかけたわけでもなく、自分に気合を入れた。たった2年でもここの生活は私に色々な変化をもたらした。最たる例は「可愛い」と思って手放したくない彼だろう。

私は今までこんなにも人に依存したことは無い。大体が自分大好きな自己愛ナルシストな気質があるから、遊ぶ予定デート鍛錬トレーニングが被ったら鍛錬トレーニングを優先してしまうようなどうしようもないやつだったのだ。どうしようもないやつだと、私も周りも思ってた。自己愛が行き過ぎた合理主義者、所謂サイコパスだと言われるぐらいだった。だから「防人の幹部は丁度なんじゃない?」と私の親友はけたけた笑ったのだ。

だから私の両親は「なんでこんなのがいいの?」と彼に真顔で聞いていた。私も聞きたい。彼は「彼女は優しいし、それに安心するんです」と私が真っ赤になるような台詞を平気な顔で、さも当然のように吐いた。

彼の表情と台詞の差に私の両親はぽかんとしていた。無表情でそれをいうのは良くないと私も思うが、私も彼も表情があまり表に出ない質だ。私も人のことを言えた試しがない。

両親が言うには私も赤面していたつもりが、全く当然のような顔をしてドヤ顔をしていたらしい。私の表情筋は正直かもしれない。


それなのに仕事よりも彼がいいと私に言わせた彼は偉大だ。包容力があって、のんびり屋で底抜けに優しいくせに、少しだけ悪い言葉を時々使ってみて恥ずかしそうにするのだ。なんて馬鹿なんだろう。悪ぶっても全然悪になれない小物だと、全部私に知られている《バレている》ことを知らないのだ。

さらに言えば街を歩く胸の大きな女の人に釘付けだったり、大きな女性の広告ポスターを見ていたり、携帯にはそういう画像が保存されていることだって私は知っている。別に見たわけじゃない。彼が少し挙動不審に私のことを見ながら携帯をこっそりと開くのだ。すぐにわかる。きっと女性であれば賛同してくれるに違いない。


別に咎めたりしないのに、多額なお金が請求されないならなにをしたっていいと思う。二人とも働いてお金を稼いでいる。共同生活に必要なお金以外はお互いのお金だ。どう使おうと知ったことではない。



「うむ、飛行機は明朝0654」



それを確認して部屋の電気を消した。そしてこの部屋で最後の台詞を言うのだ。



「いってきます」



きっとこの部屋はこれまで40年以上もの間、こうやって人を送り出し続けてきたのだ。きっと今回は「あー、馬鹿な女がでていくな」とか思っているに違いない。


そうして彼の元に歩きだして数歩、いつものように携帯画面に「電話 彼」と表示が出た。


きっと今日も今日とて、彼はどうしようもない現実に絶望しているか、上司の理不尽に泣いているのだろう。「俺が人を殺してしまうかもしれない、本の僅かな誤差で、人が死ぬかもしれないんだ」「どうしてわかってもらえないんだ。どうして昨日と言うことが違うんだ」そう泣くのだろう。

その背中に手をあてて、よしよしと言ってあげたい。今は私たちの間に数百キロもの距離がある。どんなに手が長くても届かない距離だ。


彼が思うほど現実は彼を責めないし、彼が思うほど上司は彼のことを考えていない。だから彼だってそんなに気にしなくたっていいのに、私はそう彼に囁くが彼には届かないのだ。


私だってそうだった。ここの3つ前の基地で彼が「君は強い、部下は君の味方だ。そんなとんまな上司気にする必要なんかないんだ」と囁いていた。


それでも目の前で部下たちが「俺らに任せてください。そこに座ってドンと構えててください。俺らで上手くしてやります」と言って物理的に椅子に拘束され、全てを丸く収めてくれるまで信じられなかったのだ。「隊長として無線と電話で命令さえしてくれたら俺たちは上手くやります」と部下たちは言って、猛威を振るう台風の中で泥にまみれた。私は作戦開始の号令ととんまな上司を言い負かして、他の部署に頭を下げて、部下たちのお風呂を用意して待つぐらいしかやれることはなかったのに、みんなは盛大に笑って「だから頑張ろうと思うのです」と言ってくれた。

もちろんその件がある前から上司と異なり、部下は素晴らしいと思っていた、でも信じるのとはまた違う。それを物理的にねじ伏せて私を信用させた部下は本当に素晴らしい人間だった。彼や彼女たちみたいな人によってこの国は護られている。


彼にそんな素晴らしい部下はいないのだろうか。きっとああいう素晴らしい人はどこにでもいるわけじゃなくて単に運の巡り合わせでしかない。

私はたまたま大変なときに素晴らしい人たちと一緒だった、反対に上司は大半が、最初と最後の上司以外はどうしようもないやつばかりだったが、それでもなんとかなったのだ。いや、部下たちがなんとかしてきたのだ。時には私の手足に時には盾になって支えてくれた。


私は部下たちのように、彼を支えてやれるだろうか。


彼よりも大きな手で、彼よりも確りとした身体で、無駄によく滑る口先で彼を護れるだろうか。防人でなくなったなら、私は彼の防人になってもいいはずだ。

企業との契約社員なんて契約のうちだけだ。そういう割り切りの元に契約社員は働いているはずなのだから、きっとそれでいいはずだ。「うんうん」と一人で勝手に納得して電話に出た。嗚呼、今日の彼は上司に対する理不尽で泣いているらしい。

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