第3話 7月中旬の1日
「自転車を買いに行こう」
「自転車?」
「うん、君の自転車あった方が便利だと思うよ」
そんな彼の台詞から一日が始まった。7月の休みが重なった日、正しくは彼が休みになった日だ。私はもうずっと休みだ。
あともう一日だけ辞めますと一言宣誓するために出勤する日がある。そのあとは契約社員として普通の企業で働くのだ。
それが楽しみで仕方ない。普通の会社で働く女になれるのだ。ちょっとだけ強い女をだっただけなのに、うっかり道を踏み外してもっと強い女になってしまった。
銃を撃って走ってできるだけでなく、三百以上の野郎どもの前に出て演説して怯まないほどの胆力をつけてしまった。ついでに言うと、これは元からかもしれないが、五つ上の階級の理不尽でとんまな上司と全力で罵倒しあったりするぐらい気性も荒い。どこからどう見ても私は可愛い女の子ではない。間違いないとこだ。
そんな私の脳内でさえ「強い女で何が悪い!」と怒り狂う私と「可愛い女の子でいたいの!」と気持ち悪く尻を振る私がいる。男女平等とは遠い世界だ。
「どこまで行くの?」
「うーん、前に自転車買ったところが良かったんだ」
「遠い?」
「少し」
「飲み物持っていこうか」
「そうだね」
冷蔵庫で冷やした
「お待たせ」
「行こうか」
うぃーうぃーと夏の暑さを表現する蝉の声も気だるそうだ。暑すぎてもう怠けたいよと蝉ですら考えているに違いない。
現に今年は蝉が羽化している途中で熱中症で死んでいるらしい。そんなあんぽんたんみたいな話があってたまるか!と思うが、事実らしい。相応の新聞社の紙面で掲載されていた。
「暑いね、溶けそうだよ」
「人間も溶けそうだね」
「ああ」
今日の彼は饒舌だ。前に感じていた違和感はほとんどない。時折、視線が飛んでいるが恐らく暑さのせいだ。そう思えるほどには大したことがない。良かった、心配していた。
幹部として勤務している途中で、心の病に触れることが多くなり、心について資格を取り、学んだ。こんなんでも私は有名大をでるだけの勉強の仕方を学んできているから、資格はもちろん取れた。だが、心はやはりわからない。
どんなに強そうでも、こんなに優しそうでも、病むときは病む。私だって病みかけた。危なかったのだ。
毎日罵倒されて「女ごときが!」とどうしようもない事で詰られて、仕事がちっともできない上司に怒られて、ケツを拭いてあげていた。貰ってるお金の分は仕事をするというのが私の信念だ。だからどんなに上司がど阿呆でもケツを拭いてあげるのだ。
ただ罵倒され続けるのは割に合わない、と今なら思う。
私が不眠になって、過食になり始めた頃合で、私の部下の一人が上司にすごい剣幕で詰め寄ってくれた。
その部下は前に私ぐらいの娘がいると言っていた。だからいつも私に懇切丁寧に仕事を教えてくれたのだ。
防人の不思議なところで、大概部下の方がベテランだ。私を気に入ってくれた部下は幹部にも一目置かれる部下のまとめ役だった。その部下が「いいえ」と言えば部隊は動かない。上意下達の部隊とはいえ、現場で、本当の意味で現場を動かすその部下を説得しないことには仕事にならない。だからその部下が私を気に入ってくれているのは、上司がどうしようもないポンコツであった中、不幸中の幸いだった。
「やる気と根性がある新米幹部をなんであんたは育てる気がないんだ!潰す上司なら
と私が別の要件で席をはずしている間に言ってくれていた。本当は部下にそんなことを言わせてはいけないのだが、毎日詰られ続けていた私の気持ちはいっぱいいっぱいで部下たちの心遣いに甘えるしかできなかった。
扉の向こうでのやり取りを聞いて泣いてしまった。その場に居合わせたもう一人の
それももうかれこれ一年も前の出来事だということに驚く。時が経つのは早い。
横目で彼を見て、握る手を強めた。彼にはそういう
「暑いのにどうしたの?」
「ううん」
「ううん、じゃわからないよ」
こんなに暑いのにさらに手を握りしめる私の意図が分からず彼はまた曖昧に笑っていた。ここで振りほどいて、叫べないほどに優しい彼はどうしてまだ狂わずにいられるのかわからない。
「自転車乗れないの?」
「乗れるよ!」
「そういえば、前の基地の守衛さんが君が門に自転車で激突して凹ませたって笑ってたよね」
「あれは不可抗力」
「自転車は勝手に進まないよ」
頬に昇った熱から頬が赤いとわかるが、元から今日は暑い。どっちかなんて、きっと彼にはお見通しだ。
どうして私がそのときに言った言い訳まで知ってるのだろう。
「その守衛さん、俺の元同期なんだよね」
「それはずるい」
彼は部下の立場で防人になって、もう一度、防人幹部の試験を受け直して、防人に二度なった人だから知り合いが多い。
「君は強がるからちょっと不安だけど、自転車ないと買い物も不便だからね」
「買い物不便なのは嫌だな」
ふふふと色っぽく笑う彼の頬を汗が滑り落ちていく。今日の彼は普通だけど、頬は前より痩けた気がする。
彼の体重はどのくらいだろう。私よりも軽いのは確実だが、そういうのはどうでもいい。彼は明らかに痩せてきている。
「どうしたの?顔になにかついてる?」
「いや、喉乾いた」
「水分摂ろうか」
元から痩せてることを気にしている彼に私から痩せていることを突きつけるのは酷なことだ。言いきれずに水分を要求した。少しでも彼の荷物を減らしたい。できれば彼の荷物も私が背負って歩きたい。私の方が丈夫で、力もある。実のところ防人の適性も私の方が高かった。
私は防人の中でも珍しく
「あー、生き返るね。はい」
「ありがとう」
飲み差しをあげたのに嬉しそうに彼は水分を摂った。
「あ、やっぱりもう一度」
「仕方ないなあ。お腹壊さないようにね」
「大丈夫だよ」
彼が飲み終えた水筒を受け取り、もう一度私が水筒を口付けた。そして、そのまま水筒を私の鞄に仕舞った。さり気なく、彼の荷物を減らした。
彼は優しくて、余計なものも捨てられないから。私が勝手そっと取って棄てるのだ。
「自転車屋さんあと少しだよ」
「えー、まだ先なの?」
「すぐだよ」
彼に連れられて、美しい藍色の自転車を購入した。名前をウィリアムと名付けたら彼は「君が乗るのに、自転車は男なの?!」ととても不服そうだった。ちょっと可愛い。
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