第2話 7月上旬の1日

7月上旬、先日のバスツアーから幾日か経った。


今日は時間を気にせず過ごそうと提言した私の言葉を採用してくれた彼とぶらぶらと大型食料品店スーパーに向かっていた。

最近の彼は、疲れているのか少し変だ。一方で私も退職に向けて貯めに貯めて、一向に使っていなかった代休(休日出勤の代わりに平日休める制度だ)と有給休暇を使って悠々自適な生活をしているから、私が元気すぎるのかもしれない。


横から彼の顔をじつと見つめる。相変わらず美しい切れ長の瞳に、目に影を落とすほどに豊かな睫毛が私の好みだ。いささか頬が痩けた気がするが、比較しようにも前の顔をはっきりと思い出せない。


これまでは自分の日常が辛くて相手をよく見ていなかった。よく見ていなかったのに、よく結婚の話までこぎつけたと自分でも感心する。

彼の何がいいと聞かれたら、そう、これと言って理由はない。言うとすれば顔が好み、そして私に縋る小さな手を振り払えなかった。

彼は全く覚えていないらしいが、朝起きて手洗い《トイレ》に行こうと立ち上がろうとした私のシャツの裾を掴んでいた彼の手がなにかに縋るような手で、私はその手から逃れられなくなった。愛らしくて振り払えなかったのだ。だから手を繋ぐ度、手を差し出される度、寝ている姿とくに抱き枕を抱きしめている姿はもうダメだ。


これはただ私が惚気けてバカなだけではない。なんと不思議なことに彼は私より手が小さく、なんと指は指輪の大きさで考えると私より3つ分小さい。結婚指輪を購入するときに知った。

もちろん、私が指立て伏せという腕立て伏せの進化した形態の筋肉苛め《トレーニング》をしているからというのもある。それでもまだ私は標準だ。小さいのは彼だ。



「今日の夕飯は魚にしようか?」

「ああ」

「それなら煮物にする?焼く?塩で焼いたら季節物は美味しいよね」

「うん」



品を替えて、あれこれ聞いてみるが私の話を聞いていないどころか、自分の返事も覚えていない有様。もしかして最近、夜に眠れておらずさらにはご飯も少食になってきている影響だろうか。


以前よりも激務になった彼の仕事場は頭がおかしいと評判の高い職場だ。そこを切り抜けると自尊心プライドばかりが高くなり、人間としては使えなくなると評判だが、階級だけは驚く程に上げてもらえる謎の制度がある。

人間として使えない人間を現場に置いておいたら周りが疲弊するというのもあるが、それらが組織の中枢を担っていくということにもっと危機を覚えた方がいいと私は常々思っている。適当な機会に指摘したが五月蝿いと言われてお終いだった。機会が悪かったのか、本当のことを言われたから怒鳴ったのか。たぶん両方だ。私は空気を読むのが下手くそで空気を吸ってるとか表現される。


人事を2年していた私の見解を述べると、自尊心プライドが空より高く自己愛ナルシスト気質の人間でないと正気のまま3年の仕事期間を終えられないだけだと思う。優しい人ほどよく病んで死んでいく、過労と自害と両方だ。

だから、底抜けにのんびり屋な彼がまだそこでやっていけていることに私は感心している。彼はきっと私がいたような事務方が向いている。



「どうしたの?なにがあった?」

「うん…え、あぁ」

「様子が変だよ」

「ちょっと疲れてるんだ」

「夕飯の材料買ったら今日はもう家でゆっくりしよう」

「うん」



結局のところ彼が「うん」「あぁ」「ええ」というあ行しか応えてくれないから、仕方なく時期外れの彼の好物秋刀魚を購入した。時期外れなのはよくわかっている。だが、彼を思ったらこれが最適だったのだ。

肉でも魚でも、鶏肉も鮭も特に反応は変わらないが、秋刀魚だけ「秋刀魚?」と聞き返してくれたのだから秋刀魚でいいだろう。


疲れた顔のお姉さんに魚の値段を教えて貰って、幾つかの硬貨で魚を手に入れた。この硬貨は私の給金から出ている。良いのだ、今の彼にそれを求めるのもおかしい。私と彼はほとんど給料が変わらない。どちらも給金をもらっておいて、使う暇がないのだからそこまでお金の出処を気にする必要は無い。



「あ、えと」

「いいよ」

「ありがとう」



なにかを、たぶんお金について気がついた彼がなにかを言おうとした。先手を打って笑いかけると、ちょっと困ったように彼は微笑む。

手を繋いで、私の心を掴んで離さない可愛い手だ。持ってきた布の袋に入れて、ゆらゆらと秋刀魚を揺らしながら家に帰る。彼とようやく同じ家で過ごすことができる。


2年も付き合って、会えるのは月に一度あればいい方だった。片道二万五千円のお金をかけて、どちらかの家にやってきていた。私たちは貰っているお金のうちの四分の一ぐらいを鉄道会社に明け渡していたのだ。なんともバカバカしい。よく彼も私との関係を続けてくれた。

近場の可愛い子を、そう、私みたいに力強くてなんでもゴリゴリ一人でやってしまうような女ではなく「私を助けて」と言える女を近くに作ってしまっていても不思議はないぐらい私たちには距離があった。いったい何がよくて、この平和ボケして現実を見なくて済む世界に片面浸しながら、敢えて銃を撃てる女をわざわざ選んだのか、奇特な人だ。私が言うのもおかしいが、奇特な人だと思う。



「いつも君に甘えてばかりだよ」

「私も君に甘えてるよ」

「そう?」

「うん、好き勝手させてもらってる」

「ん?いちいちやることに俺が許可を出すのは変だと思うけど」



そうじゃない。普通の人は、それこそ彼の前に私のことを振った男たちはいつも決まってこう言っていた。

「一人でなんでもんでもやっちゃって」「どうして大人しくしていられないんだ」「俺が影みたいだろう」

要は隣にいるのが都合の良い小さな飾り《キーホルダー》を求めていた男にとって私は都合の悪い女だったのだ。まだ今の日本ではそういう小さな飾り《キーホルダー》が人気だ。

このあと日本の傾向が変わっていくかは知らない。私が彼の小さな手を可愛いと思うように、小さな飾り《キーホルダー》が好みの人ももちろんいるだろう。それが減るかどうか考えてもそこからは個人の性癖だから知らない。


彼は違うらしい。ああ、彼と結婚したいと思ったのはきっとそれもある。一緒にいて、私が無理をしてない。彼も無理してない、と思う。彼の心の中なんてわかりやしないのだけど。

優しい言葉を言って貰ってもそれは彼が優しいから私を傷つけないように選んでいるものかもしれない。それが本当かどうかなんて、他人の私には判断つけられない。


古くて鍍金の禿げかかった鍵穴に鍵を入れてくるりと回す。軽快な音を立てて開いた部屋は出ていったときと同じように私たちを迎え入れる。冷房装置クーラーはつけっぱなしだったから部屋は快適な温度に保たれている。



「外歩いたら酷く疲れちゃった、ごめん、ちょっと寝かせて」

「わかった、夕飯の時間に起こすよ」

「ひとななさんまる(17時30分のことだ)に起こしてほしい」

「もう一声」

「お願いします」



そうじゃない、そうじゃないんだ。もう少し長く寝てもいいと思ったからもっと伸ばそうと思ったのに、まあ勝手に起こす時間を遅くしたら良いだけだ。


ちょっと含み笑いをしながら、彼にお茶を手渡す。暑いところを歩いたんだ、飲み物は飲まなくてはいけない。彼が飲みたくなくても飲ませなければ、彼の命に関わる。大袈裟なと思わない方がいい。

運動後に水分を取らずに休憩した私の職場の人は一人、夏の初めに亡くなっている。手洗いトイレにいたために発見が遅れた。

だって普通に考えて欲しい職場で「あいつトイレ長いな」と思っても、鍵がかかって普通には開かない扉をよじ登って本当に手洗いトイレで戦闘中かどうかなんて、中を確認したりはしない。


すぐに寝息を立ててすうすう寝ている彼を見やる。本当に疲れている。平日はほとんど寝れていない。夜中に私が布団を敷き終えて、うとうとしている頃合に帰ってくる。そして朝は日が昇るよりも早く家を出ていくのだ。夏なのに。

今日の買い物に行くときだって「太陽久々に見た」と言っていた。職場が閉塞感のある窓のない部屋だからそこから出ることができない彼は太陽を休みの日にしか見れない。


逆に私は人事仕事をしなければいけないのと同時に、もう一つ仕事があって、天気予報をしなければいけない。だから太陽はよく見る。雲を見るためだ。

でも大抵が観測している間に「あの雲美味しいそうだな」とか思い始めて、予想がどこから遠くに飛んでいってしまうのだ。そして怒られるのだ。


ご飯を炊いて、味噌汁を作り、秋刀魚を焼いた。胡瓜の漬物を作っていたからそれを添える。時計を見れば1800だ。

彼はまだすうすう言っている。私の大好きな小さな手は私が贈りプレゼントとして渡した犬の抱き枕をひしと抱きしめて寝ている。



「ご飯だよ、起こすの遅くなってごめんね」



私はそう言って彼を起こした。

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