僕と彼女と黒帯と

冷門 風之助 

いよいよだ。

(さあ、いよいよだ!)

 僕は柔道着に着替え、ボロボロになった茶帯を締めると、顔をぱんぱんと二回叩いて気合を入れた。

 これが最後のチャンスなのだ。

 僕はある私立高校の柔道部員の三年生。思えばここまで来るのに、随分長い道のりだった。

 高校に入るまで、僕は柔道はおろか、スポーツなんて何一つやったことはなかった。いやむしろ嫌いだったと言ってもいい。

 だから、そんな僕が進学と同時に『柔道部に入る』と言った時、周りにいた誰もが驚き、そして呆れ、中にはせせら笑うものまでいた。

 僕の入った高校は、私立のお世辞にも程度の高くない高校で、入学すると、生徒は何らかの部活に入らねばならない。

 運動は嫌い。勉強もそこそこ、そんな僕だったから、何か文化系の部活にでも入ろうか・・・・と思っていたのが、入学式のすぐあと、一番最初に誘われたのが『柔道部』だったのだ。

 何で入ろうと思ったのか・・・・それは声をかけてきた先輩がそれほど身体も大きくない、至って普通の体型をした人だったから、

(これなら俺でも通用するかな)と思った、それだけのことだったのだ。

 僕は同じ中学から来ていた数人の友達を誘って入部した。

 新入部員は全部で6人だった。

 そのうち、柔道経験者は2人、中学の時他のスポーツをやっていた者2人、全くの素人は、僕ともう一人だけだった。

 しかし、いざ入ってみると、そのきつさは直ぐに分かった。

 どこでもそうなんだろうが、一年はとにかく雑用から何から全てやらされる。それだけでもくたくただというのに、稽古内容は本当に厳しかった。

 僕ともう一人は未経験者だったので、最初は体さばきや受け身しか教えてもらえなかった。

 しかしそれだけでもくたびれてしまって、二時間の稽古が終わるころには、まるでぼろきれになったような気分だった。

 部員は一年生の外、三年生が六人、二年生が三人、そして一年が六人というわけだ。先輩は僕を誘った人と、もう一人を除き、残り三人が黒帯(弐段だそうだ)で、二年生が一人が初段でもう一人が一級だった。

 僕の学校の柔道部は、実力からいえば、まあそれほど強いわけではない。

 一番よかった時で、ベスト16が最高というところだった。

 それでもこんなにきついのだ。

 僕みたいなひょろひょろの素人は、ついてゆくのがやっとだった。

(果たして一か月くらいは持つかなぁ?)

 初日の練習が終わった後、僕は家に帰って寝ころんだ時、そう考えて居た。

 一か月は瞬く間に経ってしまった。

 気が付くと6月になっていた。

 驚くことに、六人いた新入部員は、六月の終わりには僕を入れてたったの半分、つまりは三人になっていたのである。

 先輩たちが驚いたのは、人数が減ったことよりも、僕が残ったことらしかった。

 他の二人は中学時代から柔道をやっていて、まあ残るのは当たり前だと思われていたのだが、まったくの未経験者で、背も低く、お世辞にも上手くなったとは言えないこの僕が何故残ったのか、そりゃ誰が見たって不思議に思うだろう。

自分自身が一番不思議だったのだ。

当然ながら、試合があっても僕みたいなヘボは出場出来ない。

僕だって初めからそんなこと、望んじゃいないのだ。

出られる試合・・・・それは月に一度県の武道場で開かれる『月次試合(つきなみしあい)』つまりは昇段試験のことだ。

ここで、僕がいた頃の柔道の昇段試験について、簡単に説明しておこう。

まず、受付でお金を払い、手続きを終えた後、試合をする。

試合は五人一組、つまりは自分以外四人と対戦をするわけだ。

一人に勝つと1点、引き分けは0.5点。

一試合で四人全員に勝つと『抜群』といって、その日のうちに、また抜群になった者同士でもうひと試合をやる。

ここでも四人全員に勝つと、合計で八点になるわけだから、これで後は形と学科(筆記試験)が通れば、最低でもその日のうちに昇段が出来る。

その次は『準抜』といって、これは三勝一引き分け、これだと十点で合格だから、上手くすれば最低でも二~三か月で黒帯が締められる。

問題はその次だ。

つまりごく普通のパターンで、これだと十三点ためないと初段になれない。

僕は一級は一年に入ってすぐに何とか合格したから、それからは初段戦にいけたのだけれど、これがまた厄介だった。

いい時でも全員に引き分けて二点、悪い時だと四戦全敗で一点も取れないなんて月もあった。

確かに柔道は好きだったが、なかなか勝てないとくさくさしてくる。

そんな時、僕を支えてくれたのは、隣の家に住んでいた、幼馴染の『春日早苗さん』の存在だった。

早苗さんは僕より一つ年上、一人っ子だった僕にとっては、お姉さんみたいな存在だった。

僕が柔道を始めたと聞いて、一番喜んでくれたのは早苗さんだった。

練習でしごかれてくたくたになっていても、二階の自分の部屋から『今日はどうだった?』と励ましてくれ、時間が許す限り、月次試合も見に来てくれていた。

成績が悪くても、決してけなしたりしない。

『くじけないで、また来月があるじゃない!』なんて言葉をかけてくれる。

それだけじゃない。僕よりも成績のいい彼女は、時折僕の勉強の手伝いまでしてくれた。

彼女がいなかったら、とっくに僕は柔道を止めて居たろう。

そのうち、僕は二年生になった。

後輩が出来て、少しは先輩面出来るようになるかと思っても、世の中そう上手くはいかない。

皆僕よりもはるかに身体がでかくて強いのばかりだった。

彼らにとって昇段試験なんてものは、大して重要なものではない。僕の同輩二人は二年に上がるとすぐにもう二段になっていた。

後輩の中にさえ、既に黒帯が何人かいた。

その中で僕はぽつんと一人取り残されたように、茶帯のままだった。

それでも歯を食いしばり、毎月武道館に通い詰めた。

やがて二年の夏も過ぎ、ようやく僕の点数は十一点、つまりあと二点取れば、念願の黒帯になれるのだ。

そして今日がその日になるかもしれない。

僕ははやる気持ちを抑えて道場に行った。

受付を済ませ、礼をして入る。

道場には大勢の柔道着姿の男性がひしめいていた。

昇段試験なのだから、年齢、職業その他は関係ない。下は中学生から、上は大学生や社会人まで様々だ。

僕は畳に座って、自分の名前を呼ばれるのを待った。

ちらり、と座席の方を見る。

そこにはいつものように、早苗さんの姿があった。

シンプルな空色のワンピースに、髪をポニーテールに結っている。

向こうも僕の顔を見つけて、

にこり、と微笑んでくれた。

そこで、僕の名前が呼ばれる。

僕は『はい!』といつもより大きな声を出して返事をした。




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僕と彼女と黒帯と 冷門 風之助  @yamato2673nippon

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