クレマン2 復讐者

 終戦後、クレマンは知人のつてで国を出て警官の職に就いた。


 父のような駐在とは違い、事件を捜査する刑事ではあったが、亡き父と同じ道を歩むことは嬉しく、どこか誇らしくもあった。


 その選択が自身の運命を再び歪めることになるとは、まだ彼も思っていなかったのである。


 クレマンが任されたのは、当時増えつつあった思想犯罪の捜査だった。

 まだ独立した部署が確立していなかった時代である。クレマンはただ一人、思想犯罪を専門に追う刑事になるよう命じられた。


 なぜクレマンが選ばれたのかといえば、それは彼がかつて信仰を抱いていたからだった。 そういった人間のほうが思想犯罪者の思考を理解できるだろう、というのが上司の言い分だ。


 信仰を持たない人間にとっては、敬虔な信者もテロリストも同じようなものなのだとクレマンは理解した。別に偏見を持たれることが不満だったのではない。どのみち、クレマンはすでに信仰を捨てたのだから。

 むしろ、自分だからこそ、この仕事を十分にこなせるのだと心が沸き立った。


 思想犯罪者たちにかつての自分自身の愚かさを映し見た。

 存在しないものを盲目的に信じ、縋り、最後には全てを失う哀れな存在。

 それを捕らえることが、過去の自分との決別にもなるはずだった。

 

 しかし、現実はまたしてもクレマンを裏切ったのである。


 いくつもの事件を追う内に、クレマンは”本物”と出会うようになった。

 どう解釈しても科学的な説明がつかない現象――あるときは心霊現象と呼ばれ、あるときは奇跡と呼ばれた――に幾度もぶち当たった。

 クレマンがいかに否定しようとも、それは現実に存在している。


 ”本物”と関わった思想犯罪者たちは、クレマンを嘲笑うかのように告げるのだ。


『神は確かにここにいる』と。


 クレマンはその言葉を否定し、間違いだということを証明するために思想犯罪者を追い続けた。犯罪まがいの無茶な捜査も、容疑者への暴力的な取調べも、全ては神の不在を確信するためだった。


 だが、クレマンの意図とは反して、神、あるいはそれに近しいものの存在は、次第に疑いない事実として、クレマンの精神を蝕んでいった。

 

 クレマンは問いかける。


 神が存在しているなら、なぜ、部下があれほど無残な死を迎えねばならなかったのか。

 なぜ、故郷が破壊され、信仰の深かった両親が死なねばならなかったのか。

 なぜ、自分には、救いがもたらされないのか。


 答えなど、返ってくるはずがない。


 それでも、クレマンにはわかっていた。

 自分も部下も両親も、ただ選ばれなかっただけなのだ。

 奇跡を起こす人間も、救いがもたらされる人間も、神は最初から決めていたのだ。

それ以外の人間に起きる悲劇など、神は無関心なのだ。


 そう思わなければ、やっていられない。


 両親は間違いなく善人であり、神への信仰も厚かった。

 部下たちとて、戦争で人を殺しはしたが、あそこまでの責め苦を受けるいわれはない。


 それなのに、神は彼らを見殺しにした。

 人間の性質や行いなど、神は見ていないのだ。

 どれほど善行を積もうとも、祈りを捧げようとも、神はこちらの縋る手を無情に払いのけるのだ。


 ――それは、許しがたい裏切りだった。


 部下を、故郷を、両親を実際に手に掛けたのは敵国の兵士である。

 だが、その蹂躙を許した時点で、神は同罪どころか、それ以上に深い罪を負っていた。


 そして、クレマンは決意する。

 神への復讐を。

 そのために、神が創造したこの世界を、跡形もなく破壊し尽くすことを。


 その日から、クレマンはジェネラルとなった。




「レイジ、山羊頭の悪魔と聞いて、お前は何を連想する?」

 不意にクレマンがそのような問いを投げかけてきたので、レイジは訝しげな顔をしながら答えた。


「……悪魔崇拝者たちの集会に現れるという、黒い翼を持つ山羊頭の悪魔だ」


「その通りだ。よく知っているな。その悪魔について、こんな逸話があるのを知っているか?


 遠い昔、教会はある団体が悪魔を崇拝している疑いがあるとして、これを審問した。といっても、すでに結論ありきの審問だ。取調べは初めから拷問によって言質を取ることを目的としていた。そのときに崇拝されていたとされるのが、山羊頭の悪魔だ。


 審問を受けた人々も、最初は悪魔の崇拝を否定していた。だが、日々繰り返される拷問に耐え切れなかったのか、ポツリポツリと認める者が出始めた。


 審問官は彼らが崇拝しているという悪魔の姿を答えさせた。だが、頭の数が一つだったり三つだったり、足が二本だったり四本だったり、果ては両性具有だったりと、証言はまるでバラバラだった」


「……拷問によって、嘘の証言を強いられたということか」


「そうさ。そしてそれは敵兵から拷問を受けて嘘の証言をした俺の部下とまるで同じだった。拷問による偽りの告白によって生み出された悪魔……俺たちが崇拝するのに、これほど適した相手もいないだろう。

 だから、かつての部下と共に組織を立ち上げたとき、その名を『黒山羊協会』と決めたわけだ」


 ひとしきり語り終え、クレマンはあらためてレイジの様子を伺った。

 呼吸が荒い。身体中から尋常ではない量の汗がダラダラと流れ続けている。銃口も未だクレマンに向けられてはいたが、照準は合っていなかった。


 


「……なあレイジ、お前は復讐しに来たんだろ? 今さら俺を警察に突き出す気なんてないことはわかっている。お前は自分自身の手で俺の息の根を止めるために来たはずだ。

 でもな、だったらお前は話なんて聞かず、さっさと俺を撃ち殺すべきだった。姿なんか見せず、俺が気づかないうちに心臓を撃ち抜くべきだったんだ」


 レイジは答えない。ただクレマンの意図を探るように黙っている。


「それができないのが、お前の甘さだ。お前は俺の告白を聞き、全てを知った上で俺を殺そうと考えたんだろう。自分が重症を負っているにもかかわらず。

 俺がただお前に理解してもらいたいから長々と自分の過去を話していたと思ったのか? そうじゃない。俺は待っていたんだよ。お前の体力が尽きるのを。

 もう自分の力だけじゃ立つこともできないんだろう。俺の顔も見えていないんじゃないか? そんな状態で俺と撃ち合いすることができるのかね」


 クレマンは自身の銃をレイジへと向けた。


 レイジは避けようともせず、まるで意に介していないようだった。


「今日のところは諦めろ。お前は世界を救ったんだ。俺を殺すことなんて、いつでもできるだろう」

 照準はレイジの胴体へと向けられている。激情に任せて襲ってこようものなら、いつでも引き金を引くことができた。


 レイジは顔を伏して動かない。おそらく、クレマンの言葉を検討しているのだろう。もともとレイジは冷静な男だ。一時の感情で暴走することはあっても、合理的な選択肢を与えられれば、そちらを選ぶはずだ。


「さあどうする。このままだと俺が手を下すまでもなく、出血多量で死ぬぞ」

 クレマンは再度レイジを揺さぶる。


(さあ、早く諦めろ!)

 数秒の沈黙の後、レイジはゆっくりと顔を上げた。


「……お前の話は、それで終わりか……?」


 レイジの顔を見て、クレマンは悲鳴を上げそうになった。

 

 すでにそれは常人の面構えではなかった。

 目は血走り、ギョロつき、妖しい光を帯びている。数時間のうちに頬がこけ、急激に年老いたか、別人になったかのようだった。


 その表情には怒りの感情さえない。無表情にして無感情。あるとすればクレマンに対する純粋な殺意と復讐心だけだ。


 もはや合理的な価値基準で物事を判断する次元にはいない。自分の生存も、次のチャンスも、ハナからレイジは放棄している。


 とっくに、レイジは壊れていたのだ。


 よもや、二人に選択肢は残されていなかった。


「……そうか、お前も引き返せないというわけか。

 ――なら、決着をつけよう。今ここで!」 


 互いに照準を合わせるまでの時間は、わずか一瞬。

 引き金を引いたタイミングはほぼ同時だった。


 ズドンッ!

 二発の銃声が、暗闇のなかを響き渡る。


 直後、倒れる男が一人。


「ごふぉっ……!」

 クレマンは血を吐き出した。

 銃弾はクレマンの胸を的確に撃ち抜いている。

 もう一つの銃弾は、レイジの遥か頭上へと放たれ消えていった。


 撃ち合いになった時点で、クレマンにはこの結果が予想できていた。


 彼に自分の部下を撃てるはずがない。


 やろうと思えば、レイジを殺すことなど、いつでもできたのだ。地下空間に来た時点でレイジを殺していれば、計画は無事に成功していたかもしれない。


 それでもクレマンにはできなかった。


 世界が滅びればみんな死ぬことになるにもかかわらず、クレマンはレイジやミカを殺さないように動き続けた。レイジを留置所に閉じ込め、ミカとマークの二人を待機させたのは、部下たちを計画に巻き込まないための配慮でもあったのだ。


 運命が大きく狂い始めたのは、儀式のために用意したシスターが、レイジの探し続けている幼馴染だったことからだろう。クレマンがその事実を知ったのは、ミカから十字架の持ち主についての報告を受けた時である。そのときから計画が失敗に終わるのではないかという漠然とした予感があった。


 計画を中止することもできた。モンテロのような我欲の強い男に悪魔を呼び出す儀式について吹き込み、代わりのシスターを用意して計画を再開させれば、時間は掛かるが安全に儀式を行うことができたはずだ。


 そうしなかったのは、クレマン自身が運命に打ち勝ちたかったからだ。


 レイジとルナが引き合わされたことが、単なる偶然であるはずがない。

 神へ無謀な挑戦をしようとするクレマンに対し、神が用意した最大の障害がレイジだったのだ。

 世界を滅ぼすために、復讐という己の望みを叶えるために、自らの部下と戦えというのが、神がクレマンへと課した試練であり罰だったのだ。


 結果、クレマンはレイジにとってルナの仇となり、その手により彼の命は尽きかけている。

 復讐するために生きてきた男が、復讐されることで命を落とすのである。

 あまりにも滑稽な悲劇だった。


 この結果は、二人の思いの差が招いたものだ。

 クレマンの復讐心は、レイジの復讐心には勝てなかった。

 失ってきたものは、クレマンの方が多いはずなのに。


(愛する者に裏切られた人間より、愛する者を奪われた人間の思いの方が強いのは、当たり前の話だ……)


 結局、クレマンは最後までレイジを完全には敵とみなすことができなかった。

 復讐者であり続けるためには、大切なものを持ちすぎてしまったのかもしれない。


 クレマンは、幸福になりすぎたのだ。


 愛すべき妻がいて、気の置けない部下たちがいた。

 子供のいないクレマンにとって、思想犯罪捜査班の部下たちは……。


(よそう。今さら、そんなことを思うのは)


 復讐しようとしたことに後悔はない。

 だが、もし全てを忘れて普通の上司として生きていれば、きっと残りの人生を楽しく過ごせていただろうと思わずにはいられなかった。


(……そうか。ようやく俺は、自分自身の責任で失うことができたのか……)

 クレマンは独り笑った。

 

 暗闇のなかにはレイジだけが取り残されている。

 彼はクレマンが絶命する様子を黙って見続けていた。


 やがて、クレマンが死んだことを確認すると、その安らかな死に顔に向けてぼそりとつぶやいた。


「……甘いのはどっちだ。バカヤロー」


 レイジは、そのまま地面へと倒れていった。

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