クレマン1 神の不在
クレマン・バルトーは帰路を急いでいた。
アジトの始末を完了し、彼のジェネラルとしての役目は終わった。
もはや『黒山羊協会』は存在しない。生き残った構成員たちは、世界が終わるまでの時間を自由に過ごすため、各々の居場所へと向かっている。
クレマンもまた、最期の瞬間を妻と過ごすつもりでいた。夫婦に子供はなく、親類も全員亡くなった今、妻が唯一残された家族だった。
もう十年以上歩き続けた住宅街の道を、巨体を揺らしながら進み続ける。この道を歩くのも最後になるかと思うと、妙に感傷的な気分になった。
街は静かだった。夜明けまでには時間がある。ほとんどの人々は深い眠りに落ちているのだろう。このまま朝を迎えることもなく、世界が終わるかもしれないとは思いもせずに。
住宅街の外れにある小さな中古住宅まではあと少しだ。広い道を抜け、細い路地に入る。妻は眠っているだろうが、今日ぐらいは起きてもらおう。取っておいたワインを開け、二人で乾杯しよう。妻には意味などわからないだろうが、それで構わない。
街外れの夜道は驚くほど暗く、街灯のぼんやりとした明かりだけが頼りだった。たしかに見通しは良くないが、長年通った道が今さら恐ろしいはずもない。
道を中途まで進み、クレマンは立ち止まった。
クレマンの進む先に、誰かが立っている。
こんな時間でも人が歩いていることはある。夜遊び帰りの若者やコンビニに買い物に行く者はいくらでもいる。だが、その人影はどこかへ向かうでもなく、身動き一つ取らない。その姿は、まるで何かを待っているかのようだった。
心臓が大きく跳ねる。確証は無いが、間違いない。
あれはクレマンを待ち構えているのだ。
そして、この状況においてその人物の心当たりは一人しかいない。
(……どうする? 引き返すか?)
何の動きも見せないあたり、向こうはまだこちらに気づいていないのかもしれない。
このまま引き返せば、気づかれずにこの場を切り抜けられる可能性はある。
だが……
(あいつがここに来ているということは、地下での決着がついたということだ)
おそらくは、何らかの決断がなされ、何らかの犠牲を伴って、相手はここまで来たに違いない。
その相手に背を向けて逃げる自分を、許すことができるのか。
(……残業が増えるのは、いつものことだ)
ホルスターから拳銃を抜き、クレマンは人影のもとへと足を運んだ。
「まさか、こんなところで待ち伏せされているとは思わなかったぞ」
努めて軽快にクレマンは話しかけた。
暗闇のなかから影が姿を現す。
クレマンの予想通り、待ち構えていたのはレイジだった。
レイジはすでに満身創痍だった。全身が傷だらけであり、特に脇腹からは赤黒い血が服に滲むほど流れていた。今は立っているのもやっとなのか、民家の塀に身体を預けている。
(こんな状態で、どうやってここまで来たのやら)
「先に家を覗いたが、帰っていなかったからここまで来た」
目を血走らせながらレイジが答える。
一瞬、家に残した妻の身が不安になったが、レイジはそんなことをする男ではない。
レイジが狙っているのは、あくまでクレマンだけなのだ。
「悪いが、今日はもう仕事を終えたんだ。来るのは明日にしてもらいたい――愛する妻が、俺の帰りを待っているんだ」
「ふざけるな!」レイジが銃口をクレマンに向ける。「お前のせいで、何人の人間が死んだと思っているんだ!」
「なら、せめて一度妻に会わせてくれ。死ぬ前に一目でいいんだ。いいだろ?
――お前は、女の最期に立ち会えたんだから」
ズドンッ!
銃声が静寂を破る。
銃弾はクレマンの足元に吸い込まれていった。
冷や汗がたらりと背中を流れる。
「キレて銃をぶっぱなすなら、そこらへんのチンピラと変わらんぞ」
「黙れ! お前になにがわかる! お前に……」
レイジは今にも泣きださんばかりの表情だった。
同時に、クレマンは自分の計画が失敗したことを理解した。
女――ルナ・ツクヨは死んだのだ。
悪魔の維持にルナの存在が必要なことには気づいていた。
それでも、悪魔は自己の生存のためにルナを守るはずだと判断していたが、計算外の出来事が起きたらしい。
クレマンは計画の崩壊を冷静に受け止めていた。
(まあ、所詮はこんなものだ)
手数をかけ、人事を尽くしても、天命に裏切られることなどいくらでもある。
むしろ、運に見放され続けることこそが、クレマンの人生だった。
「……なあ、レイジ。ここまで来たんだ。お前だって聞きたいんだろう? 俺がどうして『黒山羊協会』なんて組織を作ってまで、世界を滅ぼそうとしたのかを」
レイジは口を開かない。ただ黙ってクレマンを睨み続けることが、その答えだった。
「まあ、上司の昔話を聞くのは、部下の義務だ。だから、最後に聞いておけ。
……レイジ、俺は人が憎かったわけじゃないんだ。国が憎かったわけでも、世界が憎かったわけでもない。ただ、俺は、――神様が憎かったんだ」
クレマン・バルトーは信仰心の厚い両親のもとに生まれた。
父は町の駐在、母はスーパーのパートだった。
二人は善良で、正直者で、神を敬愛していた。
そんな両親を、クレマンは今でも尊敬している。後に警官の仕事を選んだのも、駐在であった父の影響があったからかもしれない。
クレマンが敬虔な信徒になったのも当然だった。幼いころ、毎週両親と共に教会へと通い、目を輝かせながら神父の話を聞き、神に祈りを捧げた。その帰りにレストランに寄って家族で食事をとるのが、何よりの楽しみだった。
また、クレマンは軍人であった。彼は自分の生まれ育った町やそこに住む人々、神が創造したというこの世界を愛していた。それらを守ることが自分の使命だと信じており、その目的を遂げるために軍隊を志願したのだった。
時代の奔流のなか、彼の祖国は神への信仰を選択した。それは、必然的にTMを信奉する国々との戦争を意味していた。
クレマンは戦場を渡り歩いた。戦功を挙げ、部隊を任されるようにもなった。ただ、幾度も繰り返される戦争のなかで、もはや自分が何と戦っているのかも次第にわからなくなっていた。
どこに行っても、どんな時でも、クレマンは祈りを欠かさなかった。祈りの最後、クレマンはいつも同じことを願った。早く戦争が終わることを、故郷の家族の安全を、明日の自分と仲間の無事を。
だが、現実はクレマンの願いとは正反対のことが起こり続けた。戦争は局地的な勝利と敗北を繰り返して泥沼化し、それに伴って多くの仲間が命を失った。軍のなかでは本土が空爆されたという噂が流布し、故郷は無事なのかと不安を抱く者が増え続けた。
このような状況にあっても、クレマンは神を信じ続けた。むしろ、このような苦難こそ神が与えた試練なのだと、自身を叱咤し、部下を励まし続けた。
地獄の始まりは、そんな時に訪れた。
本隊の指示により動いていたクレマンの部隊は、敵の罠に掛かった。
抵抗も空しく仲間の多くが死に、生き残った者も捕虜となった。敵の基地に連れて行かれた彼らに待ち受けていたのは、尋問とは名ばかりの拷問の日々だった。
捕虜への拷問が国際的に禁止されたのは遥か昔のことだったが、そんなことは関係がない。敵兵にとって、クレマンたちはすでに”死人”だった。最終的に処分する存在に、何をしようが関係なかったのである。
あらゆる悪意と暴力がそこにあった。
敵兵は軍の機密を漏らすよう迫ってきたが、クレマンのような小部隊の隊長が持つ情報などたかが知れている。部下にいたってはなおさら知るはずがない。
それでも、敵兵はクレマンたちを痛めつけ、弱らせ、壊し続けた。部下のなかには度重なる苦痛に耐え切れず、偽りの告白をする者も現れた。
多くの部下が拷問の果てに肉体と精神を破壊され、ある者は発狂し、またある者は殺された。
そんななかでクレマンは一人生かされ続けていた。部下と同じように拷問を受けてはいたが、決して死なないように監視されていた。情報を持っているとすれば部隊を率いているクレマンであり、敵にとって利用価値がありそうなのは彼だけだったからだろう。
その代わり、敵は部下が拷問されている様子を無理やりクレマンに見せ続けた。部下の悶え苦しむ姿を見せ、情報を吐かせようというのだ。
目の前で部下の肌が焼かれ、骨が砕かれ、目がえぐられた。筆舌しがたい暴力が、長時間にわたって執拗に繰り返される。クレマンがどれだけ代わらせてくれと懇願しても、敵兵は相手にしない。その代わり、拷問を受ける部下には必ず同じことを囁くのだ。
『お前がこんな目に遭うのはあの男が何も話さないからだ』
怨嗟のこもった目でクレマンを見つめ、呪詛の言葉を吐きながら絶命していく者もいれば、最後までクレマンを責めずに逝く者もいた。どちらの場合も、自分の身を引き裂かれる以上の苦しみだった。
祈る時間は次第に増えていった。拷問を受けているときも、部下の死に様を見せられているときも、クレマンの脳裏には神の存在があった。
(主よ、どうか我々をお救いください。どうか、どうか……)
祈れども祈れども、事態は改善されなかった。
それどころか、日増しに拷問は残虐さを増し、体力が尽きた者から順に命を奪われていった。
なぜ人間に対し、これほど非道なことができるのだろう。クレマンには理解できなかった。よもや、敵兵とてクレマンが何の情報を持ち合わせていないことなど気づいていたはずなのに。どうして他人に対してここまで残虐になれるのか。
戦争という狂乱が、人々を狂わせていた。道徳心が喪失し、他者への共感が麻痺した人間は、法という制約がなければどんなことでもできた。そして、拷問部屋という閉じた空間が、狂気を増幅していた。
まさしく、彼らは悪魔そのものだったのだ。そして、悪魔の前にクレマンはあまりに無力だった。
祈りは届かず、悪逆が罷り通る。
神はいったい、どこにいるというのか。
クレマンの脳裏に、そんな疑念が浮かび始めていた。
忍従の日々が終わったのは、捕縛されてから一ヶ月以上が過ぎた時だった。
味方の部隊がクレマンたちの囚われている拠点を奇襲したのだ。
敵兵はクレマンたちに止めを刺す余裕もなく、基地を脱出していった。
しかし、命は助かったが、失ったものがあまりにも多すぎた。
クレマンをはじめとして、救出された者は衰弱が著しく、とてもではないが戦線への復帰は見込めなかった。彼らは即座に帰国させられ、強制入院となった。
意識を取り戻したクレマンが最初に聞いたのは、故郷が空襲を受けたという報せだった。
制止する医師と看護師の言葉を無視し、クレマンは一人故郷へと戻った。
そこには、何も存在していなかった。
クレマンの実家も、家族で行ったレストランも、教会さえも存在しない。全てが瓦礫と炭と灰へ姿を変えていた。
次に避難所を訪ねて両親の姿を探したが見つけられかった。かわりに両親を最後に見たという生存者から話を聞かされた。
クレマンの父は住民の避難を誘導するため、最後まで町に残っていたということ。
母は父を手伝い、最後までその側にいたということ。
そして、二人も逃げなくては危ないと避難を促す者に、このように答えたこと。
『神様が守ってくれるから、大丈夫だ』
その言葉が強がりだったのか、それとも本心から出たものなのかはわからない。
だが、その結果、二人は故郷に撒かれた炭と灰の一部へと姿を変えたのである。
慰めの言葉を振り切り、クレマンは一人、家のあった場所へと戻った。
すでにそこには何もない。
クレマンが愛し、守りたいと願ったものは、何一つ。
全てが暴力により蹂躙され、破壊された。
クレマンは崩れるように地に伏し、泣き続けた。
どれほどの拷問よりも、この惨状は残酷な仕打ちだった。
慟哭のなかで、クレマンはようやく理解する。
この世には、神など存在しないということを。
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