ランス2 黒山羊の悪魔

 ランスは指定された時刻に『黒山羊協会』のアジトへと赴いた。


 中にはレヴィのほかに四人の男たちがいた。

 全員が柄の悪い男だった。死んだモンテロの同類だろう。

 

 ランスが入った途端、一斉に視線が彼へと突き刺さった。

 どうみても歓迎されているという雰囲気ではない。


「来たな。こいつらは今日の仕事を一緒にする仲間だ。まあ、仲良くする必要は無いが、余計な揉め事は起こさないでくれ」

「僕にはそんなつもりもないし、そんな暇もない」

「まあ、それなら結構だが」


 男の一人がソファーから立ち上がり、ランスの目の前まできた。

 口のなかでガムをくちゃくちゃと噛みながら、ランスの全身を這うように目を動かしている。


「もう一人来るって聞いていたからどんな奴かと思えば、ただの坊ちゃんじゃねえか。だいたい、その背中に付けたおもちゃはなんだ?」

 ランスが背中に挿している剣を指し、男は訊いた。

「普段使っている模造剣だ。銃火器の扱いより、剣術こちらの方が得意でね」

 男は目を見開くと、次の瞬間にはけたたましく笑い声を上げた。

「まさか、本当に偽物おもちゃとはな! 化け物とチャンバラごっこでもするつもりか?」

「当たれば頭蓋骨ぐらいはすぐ粉々にできるぞ。試してやろうか?」

「ああんッ!?」

 男が目を血走らせて凄んでくるも、ランスはただ一瞥するだけだった。

「こらこら。言ったそばからなんだ!」

 レヴィが引き留めると、男はしぶしぶ離れていった。


「それで、いつになったら出発するんだ?」

「まあ待て。部下に確認する」

 そう言うと、レヴィはどこかに電話をかけ始めた。


 一分もしないうちに通話を終えると、レヴィは一同を見渡した。

「黒山羊の居場所がわかった。すぐに出発するぞ」

 男たちは一斉に銃を背負った。




 地下空間内を六人は歩いていた。

 レヴィが先導し、そのあとをランス、他の四人が後方に続いた。


 アジトの時のような軽口は誰も口にしない。

 これから立ち向かう相手が、すでに二人もの人間を惨殺した悪魔だということを意識しているのだろう。


 周囲の闇がより薄気味悪さを醸し出していた。闇のなかに何かが潜んでいるような気がして、必要以上に意識が持っていかれる。


 恐怖心を紛らわせるついでに気になっていたことを尋ねるため、ランスはレヴィに近づいた。


「どうやって悪魔の場所を特定したんだ? 先ほどの電話では部下が見つけたような口ぶりだったが」

 レヴィはランスにチラリとだけ目を向けた。

「なに、大したことではない。黒山羊の現れそうな位置に目星をつけて探させたまでだ」

「その『現れそうな位置』というのは、どうやって判断したんだ?」

 矢継ぎ早に質問を浴びせられ、レヴィの眉間に皺が寄った。

「……二日前と昨日で奴が移動した距離をもとに、今日奴がいる位置を予測したまでだ。まあ、そういう意味ではこちらの予測した範囲のなかに奴がいたのは幸運だったかもしれないな」

「そうか」


 レヴィの言葉にはどこか信用ならないところがあった。

 今の話が本当なら、黒山羊が今日見つからない可能性も十分にあったわけだ。むしろ、黒山羊が現れたのは二日前。凶行が起きた現場は二つのみで、黒山羊の移動距離を推定するデータが一つしかないことを考えると、見つけられない可能性の方が高いだろう。


 だが、レヴィは最初から間違いなく黒山羊のもとへたどり着けるような口ぶりだった。ルナの身を案じるランスを宥めるための方便とも捉えられるが、ランスにはレヴィが何らかの確信を持っているように感じられた。


(もしかしたら、『黒山羊協会』は昨日の時点で悪魔の位置を補足していたのかもしれない)

 モンテロを追跡したレヴィの部下が黒山羊を見失ったという話が嘘か、あるいはその後の捜索で黒山羊を見つけたというのであれば、出現する位置を把握していてもおかしくはない。


(だとすれば、ホームレスが殺されているところも、黙って見ていたのか……ッ!)

 黒山羊に偶然遭ってしまっただけで、ホームレスには何の罪もなかったはずなのに。

 ランスは、胸の内で名も知らぬホームレスの死を悼んだ。


「さあ、もう少しで奴のもとにつくぞ。全員、気を引き締めろ」

 レヴィが後ろの四人にかけた言葉で、ランスは現実に引き戻された。


「対象は前方三百メートルの位置で移動を停止、その後の動きはありません。また、周囲には対象が生み出した黒煙が所どころ発生しております」

「ふむ。双眼鏡を貸してくれ」

「はい!」


 部下に渡された双眼鏡をレヴィは覗きこんだ。

 前方は暗い闇に覆われていて裸眼だと何も見えないが、おそらく暗視用のスコープかなにかがついているのだろう。すぐにレヴィの顔に驚嘆の色が浮かんだ。


「ほぉ。たしかに、話に聞いていた通りの怪物じゃないか」

「ルナは……ルナはいるのか!?」

「まあ待て。自分の目で確かめるといい」


 レヴィの差し出す双眼鏡をひったくると、ランスは急いでそれを目に押し当てた。

 その姿を見た瞬間、ランスは絶句した。

 寓話のなかの存在であるはずの怪物――悪魔が目の前に、いる。



 聞いていた通りの黒い山羊の姿。だが、大きさは通常の山羊の比ではない。四足で立っているにも関わらず、人間をはるか頭上から見下ろすほどの大きさだ。

 頭についた角は、獲物を突き刺すためか鋭利に尖っている。背中についた真っ黒の翼も、自身の禍々しさを表しているかのようだった。


(ル、ルナは――いた!)

 黒山羊の背中、翼の生え際にルナは横たわっていた。

 目を閉じており、身動き一つしない。おそらく、悪魔の持つ何らかの力によって意識を奪われているのだろう。死んでいるわけではないが、あの状態が続けばどうなるかはわからない。


 ランスが双眼鏡から目を離すと、四人のうちの一人がそれを奪い取り、代わるがわる覗きこんだ。

「オウ……マジかよ。ガチの化け物じゃねえか」

「ハッ、聞いていた通りじゃないか。何をビビる必要がある」

「でもよ、あんな化け物に銃が効くのか?」

「ただのデッカイ山羊だろ。頭をぶち抜けば終わりさ」


 四人は黒山羊を見た感想を各々述べている。明らかに弱気になる者、口では強がっているが声が震えている者、せわしなく身体を揺すっている者、汗を噴き出している者、反応はそれぞれだが全員に動揺が広がっているのは明らかだった。


「なに、手筈通りやれば問題は無い。まず、デビットが奴の頭を撃ち抜く。続いて残りの三人が足を潰す。あとは死ぬまで撃ち続ける。簡単だろう?」

「アンタは口で言うだけだから簡単だろうよ。このお坊ちゃんは何をするんだ? 作戦が成功するよう、神様にお祈りでもしてくれんのか?」

「彼には女を回収してもらう。もともとそれが目的で来たのだからな。女が奴の背に乗っているのは見たな? くれぐれも背中に弾を当てるなよ」

「へいへい。注文が多いね」


 レヴィは作戦の指示を終えると、ランスの方を向いた。

「作戦は打ち合わせの通りだ。アンタは最初の銃弾のあと、様子を見て女を回収してくれればいい。生きて帰りたいなら、四人の射線上を避けていくんだな」


 ランスは四人の方ををチラリと見ると、「それなんだが……」と声を潜めてレヴィに訊いた。

「あの四人の射撃の腕は信用できるのか?」

「というと?」

「万が一、ルナに銃弾が当たる可能性があるなら、発砲される前にルナを助け出したい」

「なるほど。だが、それは無理な話だ。今は奴がこちらに気づいていないから奇襲を仕掛けられるが、先に女を助けるならそうはいかない。奴に襲われるリスクが増えるだけだ。そうなれば、我々も女も死にかねない」

「それはそうだが……」

「四人もプロだ。実戦経験も豊富だし、技術も高い。これは確率の問題だよ。女を助けて怪物と正面から対決するか、怪物に奇襲をかけてから女を助けるか、どちらが成功し、どちらが生き残る可能性が高いかというな」

「……わかった。そちらの案に従おう」

「オーケー。わかってくれて何よりだ――よし、全員位置につけ。移動するときは絶対に煙には触れるなよ。何が起こるかわからん」


 号令に従い、ランスと四人は行動を開始した。


 ランスの任務はルナの救出。となれば必然的に黒山羊から最も近い位置で待機していなくてはならない。


 柱の陰に隠れながら、闇のなかを慎重に移動していく。

 照明の灯りがわずかに射してくるので、完全な闇ではない。だが、自身の進む先に黒煙がないか確認するためには目を凝らして進む必要があった。黒山羊の動きに注意することも忘れてはならない。


 黒山羊から数メートル離れた柱のかげで、ランスは身を伏せた。

 あとは他のメンバーが定位置につき次第、無線で連絡を取って作戦が開始となる。


 休んでいるのか、依然として黒山羊が動き出す気配はない。足を崩し、宝石のような赤い瞳は何もない虚空を見つめている。

 その姿が言いようもなく作り物めいていて、ランスには気味が悪かった。


『全員、位置についたか?』

 無線機からレヴィの声が聞こえた。

「こちらは問題ない」

 ランスが答えると、他の四人からも同様の返事が来た。

『よし。奴はこちらに気づいてはいない。デビットの一発を皮切りに作戦を開始しろ』

了解ラジャー』と四人が声をそろえて応えた。


(いよいよだ……)

 ランスは息を飲んで黒山羊を見つめた。

 背には未だルナが横たわっている。血色はさほど悪くはないものの、目は閉じられ、やはり意識は完全に失われているように思える。

(ルナ……くれぐれも無事であってくれ)


 レヴィは問題ないとは言っていたものの、今回の作戦がルナにとって危険だということにかわりはない。銃弾に当たらなくても、襲撃に抵抗して暴れる黒山羊に殺される可能性は十分にある。


(黒山羊が倒されるのを悠長に待っている余裕はない。最初の一発が撃たれたらすぐに飛び出そう――最悪、僕が犠牲になってもルナだけは逃がさなくては……!)


 ドゥウン!

 静寂を破るように、最初の一発が放たれた。

 強烈な爆裂音が地下空間内に響き渡る。


「ゲェアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」

 銃声にわずかに遅れて轟く、甲高い絶叫の声。


(当たった!)


 銃弾は間違いなく黒山羊の側頭部に命中していた。

 だが、生物であれば本来飛び散らせる血と脳漿が、黒山羊からは出なかった。

 代わりに、傷口と思しき場所から黒い煙が上がっている。


(そうだ。あれは悪魔。本来、この世に肉体を持たない怪物……ッ!)

 黒山羊の正体を再認識して、ランスの身体は一時的に硬直した。

 追加の銃弾が発射されないあたり、他の四人も同じなのだろう。


『弾は当たった! 急げ! 奴を仕留めろ!』

 レヴィの声が無線機から響く。


(マズイ! ルナが危ない!)

 ランスは飛び起きると、黒山羊のもとへと駆け出した。


『化け物め! くたばりやがれえええええええええええ!』

 直後、三人が遅れて銃撃を開始した。

 閃光が暗闇を裂き、次いで鼓膜を破るほどの爆音が連続して耳を襲う。


「キイイイイイイイイイイィエエエエエエエエエエエエエエエ!」

 黒山羊は再度けたたましい叫び声を上げながら、大きく後ろへと仰け反った。


 その拍子に、背中に乗っていたルナが空中へと放り出される。


「ルナああああああああああッ!」

 ランスの目の前で、ルナの身体が宙を舞う。

 ルナはそのまま地面へと落下するも、投げ出された際についた勢いが死なず、黒山羊の後方の暗闇へと転がっていった。


「クッソ!」

 ランスはルナが転がっていた方向へ向かおうと地面を蹴った。


 瞬間。


「ごっ……がぁッ!」

 凄まじい衝撃が、ランスの身体を襲う。

 地面から足が離れ、身体が宙を浮いた。


 何が起きたのか、理解が追いつかない。

 次の瞬間、ランスはコンクリートの上を転がっていた。

 硬い地面に打ち付けられ、全身に痛みが走る。それでようやく、自分が黒山羊の攻撃を受けたのだと気づいた。


 十メートルほど後ろに飛ばされたあと、ようやくランスは立ち上がった。

 身体中に痛みはあるが、幸い骨は折れていない。

(なにをされたのか、まったく見えなかった――そうだ、黒山羊は!?)


 四人による銃撃は続いていた。

 銃弾は命中し、黒山羊の身体からは黒い煙が上がっている。


(効いている、のか?)

 普通の生物であれば、頭を撃ち抜いた最初の一発が致命傷になっているはずだが、黒山羊は叫び声を上げただけで、依然として倒れる様子はない。

 銃弾は黒山羊の足に向かって連射されているが、なおも黒山羊は立ち続けていた。銃弾の当たったところからは黒い煙が上がっているが、それ以外の反応はない。もはや、絶叫すら上げず、じっと虚空を見つめていた。


(……マズイ!)

「奴が狙っている! 全員その場を離れろ!」

 無線機に向かってランスは怒鳴った。


 なにか明確な理由があったわけではない。ただ、本能的に黒山羊が銃弾の発射地点を探しているように感じた。

 四人はバラバラの地点から、柱のかげに隠れて黒山羊を撃っている。その居場所を見つけるのはかなり困難なはずだった。

 かえって、その場を動く方が危険に身を晒すことになると、普通なら考えるだろう。


『ハッ! 何をバカなことを……』

 言葉はそこで途絶えた。


 黒山羊が動き出したのだ。

 蹄が地面を蹴り、漆黒の巨体が揺れ動く。

 四人も黒山羊を止めんと、動く標的に向けて銃撃を続けた。

 銃弾の雨のなか、黒山羊は猛然と暗闇のなかへと突撃する。

 その先にいるのは……。


『うわああああああああああああああああああああああ!』

 無線機越しに断末魔の叫びが聞こえた。

『おい、どうした! なにがあった!?』

 その問いかけに意味は無かった。何が起きたかなど明確だったし、声の主は答えられるような状況にないのだから。


『クソッ! やっぱりあんな怪物を相手にするのなんて無理だったんだ……イヤだ。俺は死にたくない……イヤだああああああああああああああああああ!』

『おい、落ち着け!』


 暗闇のなかから男の一人が飛び出してきた。

 男の表情には激しい恐怖が浮かんでいた。つい数秒前まで生きていた仲間が異形の怪物に殺され、次は自分の番かもしれないと考えれば、それも仕方なかったかもしれない。


 だが、男の背中はあまりに無防備だった。

 ぐちゃり。

 そんな音が聞こえてくるはずがないのに、ランスは目の前の光景からそう聞こえたように錯覚してしまった。


 男の胸を黒山羊の角が貫いている。男は最初、自身に何が起きたのかわからないように、胸から生えてきた角を見て困惑していたが、事態を理解すると恐怖に顔を引きつらせ、叫び声をあげるまでもなく気を失った。


 黒山羊は角にささった男の身体を、さも邪魔そうに頭を振って放り投げた。

 男の身体が飛ぶとともに、胸部から鮮血が飛び散り、灰色のコンクリートの床を赤黒く染めた。


 目の前で人が死んだ……殺された。

 ひどい吐き気がランスを襲う。


『クソがあああああああああああああああああああ!』

 雄叫びを上げながら、暗闇から別の男――アジトでランスに絡んできた男――が銃を手に飛び出してきた。


「やめろ! あいつには効いていない!」

『ぶちのめしてやらああああああああああああああ!』


(ダメだ! 聞こえていない!)

 ランスは背中の模造剣に手を伸ばし、男のもとへ急いだ。

 男は黒山羊に近づくと、手に持ったショットガンの引き金を引いた。


 ズドォオン!

 ひときわ大きな爆裂音があたりに響き渡る。

 ほぼ真正面から、黒山羊は頭部に銃弾を受けた。

 頭がはじけ飛んでいてもおかしくはない。


 だが、黒山羊は平然と立っていた。

 被弾した頭部は一瞬黒い煙に覆われたものの、すぐに何事もなかったかのように戻っていた。


(再生するのか!?)

『う、うおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!?』

 男は闇雲に銃弾を放つ。

 一発、二発、三発。


 どれほど銃弾が当たろうとも、煙が出るだけで黒山羊は平然としている。

 やがて弾が尽きたのか、男はショットガンを投げ捨て、アサルトライフルへと持ち替えた。


「無理だ! 逃げるぞ!」

 男の背後からランスが叫ぶ。

「チクショウ……くそったれ!」

 男はアサルトライフルの引き金を引きながら、黒山羊から離れるように駆け出した。


 同時に、黒山羊もまた、銃弾を受けながら男へと向かっていく。

 黒山羊が男に追いつき、前足の蹄が襲い掛かる。


「うおおおお!」

 男は横に飛び、地面を転がって黒山羊の一撃を避けた。


 蹄はそのまま床を叩き、コンクリートの地面にひびが入った。

 黒山羊はすぐさま横へ転がった男に向き直る。


「うるあああああああああああああああああああ!」

 男は寝ころんだ体勢のまま、ライフルで黒山羊を攻撃する。

 だが、黒山羊は銃弾をものともしない。


 やがて、ライフルの銃弾が尽きた。

 男はライフルも投げ捨て、黒山羊から逃れようと後ずさりする。

 黒山羊が禍々しい角を男に向けた。


「くっそ、来るな! 来るんじゃねえええええええええ!」

 男の絶叫が周囲に響く。


 蹄が再び地面を蹴った。

 黒い巨体が猛然と進み、大地と空気が揺れる。

 多くの人間の命を奪った角が、再び別の者の血を浴びようとしていた。

 眼前に怪物が迫り、男はたまらず目を閉じた――。


 ガキィイン!

 激しい金属音が間近で聞こえ、男は思わず目を開いた。

 黒山羊の角が男の目の前で止まっている。


 しかし、ただ止まっているのではない。

角は今にも男の身体を貫かんと前に進もうとしている。

 それを一本の剣が阻んでいた。

 男の傍らにはランスが立ち、模造刀を握り締めて黒山羊を食い止めていた。


「お、お前……」

「早く行け!」


 ランスが怒鳴ると、男は慌てて立ち上がって逃げていった。

 男が行ったのを確認し、ランスは後ろへ飛んだ。


 もはや腕が限界だった。黒山羊の動きを止められたのはほんの一瞬だったが、すでにしびれが尋常ではない。

 次に角を突き立てられれば、はじき返すことはできないだろう。


 ランスも逃げなくてはならなかったが、脳裏には黒山羊の遥か後方にいるであろうルナの存在がちらついていた。

 ここで逃げてしまえば、再びルナに危険が及ぶ。それは避けなくてはならない。

 ランスは黒山羊を睨みつけ、いつでも動きに対応できるよう剣を構えた。


 黒山羊は赤い無感情な瞳でランスの方を見ていた。ランスを見ていたのか、どこか別のところを見ていたのか、あるいは何も見ていなかったのかはわからない。


 にらみ合いは数秒、あるいは数分続いたかのように思われた。

 突然、黒山羊はくるりと反転すると、そのまま何事もなかったかのようにつかつかと歩いていった。


 ランスはただその姿を見つめていたが、やがて黒山羊が見えなくなると、糸の切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。


(助かった……のか?)


 黒山羊が引き返してくる様子はなく、ランスはほっと息を吐いた。

 安堵した途端、ランスは自分が震えていることに気づいた。

 頭では忘れていた恐怖が、身体の反応として表れていたらしい。

 周囲は先ほどの喧騒が嘘だったように静まりかえっている。

 残されたのは男たちの死体と銃弾の痕だけだった。


(……そうだ、ルナは!?)

 ランスは飛び跳ねるように立ち上がると、ルナが転がっていった方角に向かって駆け出した。


「ルナー! いるなら返事をしてくれー!」

 暗闇のなかに大声で叫ぶも、空しく自分の声が響くだけで、返事はない。

 周囲をいくら探しても、それらしき姿はどこにもなかった。


(また黒山羊に連れていかれたのか……ッ!)

「クッソ!」

 憤りに任せ、握り締めた拳で柱を殴りつける。

 ガッ、と鈍い音を立て、拳から血が流れた。

 痛みは無かった。




 地下空間を出て、レイジたちは近場の公園に来ていた。


 何度も後ろを確認したが、尾行されている様子はない。

 あれだけの銃声だ。こちらの足音が聞こえるはずもない。姿さえ見られなければ、逃げ出すのは容易だった。武装した連中とあの怪物は、レイジたちがいたことに気づいてもいないだろう。逆に、レイジたちも怪物の姿を写真に収める余裕はなかったが。


 公園には幸いながら誰もいなかった。カップルや不良などは警察手帳を使えば追い払うことは容易だろうが、できれば目撃者を作りたくはなかった。


 レイジの目の前のベンチで、女が一人寝かされていた。


 幸いなことに目立った外傷はない。先程のゴタゴタで頭部や骨にダメージを負ったかとも思ったが、見たところその様子もなかった。


(あとは目を覚ましてくれれば……)


「おい、ルナ。目を覚ませ。ルナ!」

 肩を揺すり、ルナの名前を呼び続ける。

「あの、レイジさん。あまり頭を揺らさない方が……」

「わかってる。加減はしているさ――目を覚ませ。ルナ!」


 それから数分、レイジが声を掛けていた時だった。

 ぴくり、とルナの瞼が動いた。


「ルナ!?」

 少しずつ目が開かれていく。

 瞼が完全に上がっても、しばらくは目の焦点が合わなかった。

 やがて、目がある一点――レイジの顔を捉えた時、ようやく表情が生まれた。


「レイ……君……?」

「ああ。俺だ。レイジだ!」


 レイジは大きな声で自分の名を告げた。

 ルナはそんなレイジを見て、にこりと微笑んだ。

 レイジは笑わず、静かにルナの無事を安堵した。


 幼なじみの二人は七年越しに再会した。

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