レイジ2 幸福の終わり
レイジ・キドーは教会が運営する孤児院で育った。
赤ん坊のうちからそこで暮らしていたから、彼にとってはシスターたちが母親代わり、神父のハロルドが父親代わりだった。
実の両親は、まだレイジが生まれたばかりのときにテロに巻き込まれて亡くなったらしい。そこからどういった経緯で孤児院に引き取られたかを彼は知らなかったし、ハロルド神父の亡くなった今では知る由もない。
レイジ自身は自分を不幸だと思ったことはほとんどなかった。施設の外には、両親が健在で裕福な子どもたちがたくさんいたが、ハロルドやシスターたちはみんな優しく、生活していくうえで不自由を感じることがさほどなかったからだ。
それに、孤児院にはレイジより悲惨な境遇のため引き取られた子どもも多かった。レイジのように戦争やテロで親を亡くした者だけでなく、親が犯罪に手を染めた者、親に捨てられた者、親から虐待を受けていた者、そのような子どもたちがレイジのまわりにはたくさんいた。
ルナもその一人だった。
ルナが孤児院に入ったのはまだ四歳のとき。世界はまだ戦争の真っただ中、ルナは母親とその恋人の男に虐待を受け、死にかけていたところを保護された。
母親は女優崩れの娼婦だった。過去に結婚暦があり、そのときにルナが生まれたが、何らかの理由で別れてしまったらしい。
それから、母親は変わるがわる違う男と付き合い続けた。二人の住むアパートの一室には、昨日と今日で違う男がいるというのが日常だった。
そういった意味では、母親にとってルナは邪魔な存在だったのかもしれない。一人の相手と長続きしなかったのは、母親の自堕落な性格以外にも、子どもの存在が大きかったのだろう。
やがて、母親は恋人の男とルナを虐待するようになった。具体的な内容をレイジは知らなかったが、保護された時点で、ルナはほとんど食事も与えられておらず衰弱しきっており、生きているうちに発見されたのが不幸中の幸いというほどの状態だったらしい。
アパートの住人からの匿名の通報により、母親とその恋人はあっさりと逮捕された。
警察に連れて行かれた時点で、二人は精神に異常をきたしていたらしい。常に錯乱状態にあり、言動は支離滅裂で、なにかに怯えている様子だったということだ。
まもなく二人の奇行の原因が薬物による幻覚にあるということが発覚した。そもそもは男の方から母親に勧めたことがきっかけらしいが、二人はすでに重度の薬物中毒に陥っていた。警察は、薬物による禁断症状が虐待の一因と推定し、二人は虐待と薬物使用の罪で起訴され、未だ刑務所のなかにいる。
こういった事情をハロルドが子どもたちに逐一説明したわけではないが、シスターたちの噂話を小耳に挟むなどして、レイジは孤児院に来る前のルナの家庭環境について知った。
そういった背景もあり、レイジはルナが孤児院での生活に早く馴れるよう、子どもながら気をつかって仲良くしようとした。その試みが功を奏したのか、ルナはすぐに周囲に溶け込んでいった。もともと穏やかな性格でトラブルを起こすこともなく、虐待を受けていたことによる悪影響も――少なくとも表面上は――無かった。
そうして孤児院での生活を続けていくなかで年月は経ち、二人が学校に通い始めるようになってからさらに数年後、戦争は終結した。
成長するにつれ、レイジとルナは孤児院の子どもたちの兄や姉のような存在になっていった。
赤ん坊の時から孤児院で暮らし、遊びとケンカの先頭に立っていたレイジと、温厚で優しく、よく幼い子の世話をしていたルナは、もはや孤児院になくてはならない存在となっていた。
それもあってか、ルナは早くからシスターとなって孤児院に残ることを決めていたようだった。
孤児院は教会の資金により運営はされていたが、子どもたちに信仰を強いてはいなかった。神父のハロルドがそういったやり方を嫌い、子どもたちには自分で信じるものを決めてほしいという考えから、信仰について干渉されるということはなかった。
そのような環境で、ルナは幼いころから信仰に目覚めていた。具体的にいつからかは、レイジにもわからなかったが、もしかしたら孤児院に来た時にはすでにそうだったのかもしれない。出会った時から、ルナの態度には子どもながら超然としたものがあった。
一方、レイジは特に進路を決めていたわけではないが、いずれ孤児院を出て一人で暮らすときの資金を貯めておくため、学業と孤児院での生活のかたわらバイトに明け暮れていた。
思えば、この時が一番幸福な時期だったのかもしれない。
すべてのきっかけは一つの法律の公布だった。
危険思想規制法。
この法律ができたのは、当時各国で頻発していた “戦後テロ”に理由がある。
世界規模で起きていた戦争は、大局的にはTMを支持していた国々が勝利をおさめ、表面上は終結した。
だが、それは反TMを掲げる組織や人々が自らの思想を捨てたことを意味してはいなかったのだ。
戦争のかわりに起きたのは、各地でのテロ行為だった。
戦前や戦時中にもテロはあった。だが、戦後に起きた数と規模はその比ではない。戦争という、ある種の拠り所を失った人々の思いは暴走し、何の罪もないであろう人々の命を次々と奪っていった。
各国の政府はテロリストの殲滅に必死になっていたが、なかなか思うような成果があげられなかった。
その理由の一つが、テロ組織を影で支援している宗教団体の存在である。
当初からテロ組織と宗教団体とのつながりは疑われていた。
多くの宗教団体は『テロを起こしているのは他の宗教、あるいは他宗派の過激派』という主張を展開していた。それは半分は事実であり、半分は嘘だった。
事実、一部のテロ組織はある教団の施設をアジトにして活動していたということが発覚。他にも、ある宗教団体では、テロ組織への資金面の援助、補充用の人員の提供、施設内での銃火器の隠匿などが行われていたとの証言もあり、世間のテロへの怒りと恐怖は、宗教団体への不信へと転じていった。
世間一般の人々――TMの信奉者たち――は、すでに宗教や未だそれを信じる一部の人間に対して、怒りや蔑みの目を向けた。それは大人に限らず、子どももそうだった。
学校に通うようになると、レイジたちは外の子どもたちから、孤児院が教会により運営されていることを理由にいじめを受けた。レイジはケンカっ早い性格だったため、自分や周り、特にルナに何かされるとすぐにやり返していた。
そうして教師に見つかってレイジもいじめをした生徒も怒られるわけだが、教師がレイジに向ける目だけが冷たかったことをレイジは今でも覚えている。問題を起こすたび、ハロルドは教師に呼びつけられていたが、彼がそのことでレイジを叱ったことは一度も無かった。
世間の宗教とそれを信じる人々への風当たりはすでに強かった。
世論と呼応するように制定されたのが“危険思想規制法”である。
通称・オカルト禁止法とも呼ばれるこの法律は、危険思想、つまりは非科学的・神秘的な要素を含む思想を徹底的に弾圧するためのものだった。
具体的な内容は、神秘的な思想・信仰を持つ組織の結社の禁止、同思想・信仰の布教の禁止、同思想・信仰に基づく集会や儀式の禁止を柱としたものになっていたが、実質はあらゆる宗教団体への解体命令に他ならない。
もはやTMの言いなりになっていた議会でこの法案が可決されると、次は政府による国民投票が行われた。国内の宗教団体はこぞってこの法案への抗議デモと思想の自由を訴える演説を続けたが、結果は惨憺たるものだった。
人々の思想は自由であるべきという理想は、多くの人々が危険思想犯罪者により命を奪われているという現実を前に空しく砕け散ってしまったのだ。
危険思想規制法の公布から施行までは半年の期間が空いた。要するに、宗教家たちには信仰を捨てるまでの猶予期間であり、警察にとっては捜査をはじめるための準備期間だった。
この法律の公布後、レイジたちの孤児院にも大きな問題が生じた。
運営資金の問題である。
教会および孤児院を運営する資金は大部分が信者からの献金で賄われていた。
ところが、規制法による処罰を恐れた信者たちは、教会への献金をピタリとやめてしまったのである。
もともと潤沢と呼べるほどの資金のあったわけでない孤児院は危機に瀕していた。
ハロルドはなんとか孤児院を存続させようと各地を奔走したものの、結果は芳しくない。まもなく潰える教会に手を差し伸べてくれる者などなく、巻き込まれては厄介だと、手切れ金代わりのわずかな金を握らされて追い返されるのが、まだマシな方だった。一度などは、教会に脂ぎった中年の男が援助をやってきて援助を申し出たが、実際はシスターやルナの身体を目当てにした下衆だったのでレイジが殴って追い出した。
レイジはバイトで稼いだ貯金を使うようにハロルドへ申し出たが、彼は頑としてそれを受け取らなかった。
心労が祟ったのか、ハロルドは急に倒れ、そのまま回復することなく息を引き取った。彼は最後まで恨み言一つ言わず、ただ孤児院の存続を願い続けていた。
だが、孤児院の解体はもう風前の灯火だった。
表面上はシスターの一人が代表者となって施設自体は存続できたが、危険思想規制法が施行されるのと教会の資金が底をつくのは目前に迫っていた。
孤児院がなくなれば、ここで暮らす子どもたちは別々の施設に引き取られることになる。そうなれば、教会の運営する孤児院にいた者がどういう扱いを受けるかをレイジは身に染みて理解していた。
レイジはハロルドに代わって奮闘した。禁じられていた自身の貯金を運営費に入れ、さらにバイトの数を増やして必死に金を稼いだ。
(俺たちの“家”はなんとしてでも守る……!)
堅い意志を抱き、レイジは身体にひたすら鞭を打ち続けた。
事件が起きたのは、そんな折だった。
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