第2章
レイジ1 痛みと手がかり
ボリスを発見したのは地下に住み着くホームレスの男だった。
場所は地下空間のなかでも一般人があまり通らない辺鄙なところで、近くに居を構えるホームレスが見つけた時にはすでにボリスは息をしていなかった。
通常であれば、ホームレスはトラブルに巻き込まれるのを避けるため通報するのを避けるものだが、男はボリスと面識があった。ボリスは地下空間では顔が広く、男とも懇意にしていたため、そのまま捨て置くのが忍びなく、通報したということであった。
その際、男がボリスの名を伝えたため、クレマンを通じて連絡が入り、レイジは現場へと急行した。
遺体を見たとき、レイジは驚くほど自分の感情に動きがないことに驚いた。
現場に着くまでは、ボリスの死を自分の目で確かめるまで信じられないという気持ちはあった。だが、実際にボリスが死んでいるのを見ても現実感が湧かない。むしろ、電話で聞かされた時の方が動揺していただろう。
あまりに突然のことで、心の機能が働いていないのかもしれない。あるいは、刑事という職業柄、人の死に慣れてしまったのか。
ボリスの死体は水色のビニールシートの上に無造作に置かれていた。
その腹部には禍々しい血の跡が広がり、シャツがどす黒く染まっている。
「ひでえもんだよ。腹と背中を貫通してやがる。刺されてから暴れたのか、中身もぐちゃぐちゃだ」
ハワードはいつものように不機嫌そうな表情で吐き捨てた。
「凶器は何だ?」
事務的な口調でレイジは訊く。
「そうだな……傷口に昨日の事件の遺体と一致したところがある。おそらく同じものだろう。もちろん確認はいるが。遺体の刺創から察するに、凶器は棒状でそれなりの太さがあるものだ」
「身体を貫いたということは、凶器は長さがあるものということだな?」
「ああ。どんなに短くても三十センチ以下ということはないはずだ」
「ふむ……」
はたして、そのような凶器を持つ相手に、ボリスが不用意に近づくだろうか。凶器自体は隠していたとしても、深夜の地下空間をうろついている人間など、トラブルの種以外の何物でもない。
ホームレスとして生きるため、ボリスには人並み以上の警戒心があった。まして、ボリスは左足に古傷があり、歩行に若干難があるため、トラブルには遭わないようにかなり神経を使っていたはずだ。
まして、地下空間はボリスの庭のようなもの。そんな場所でボリスがむざむざ殺されたということが、レイジにはどうにも信じられなかった。
(ボリス、お前に一体なにがあったんだ)
レイジはボリスの遺体の横で屈みこんだ。ボリスの死に顔はけして安らかなものとは言えなかった。苦痛に悶えていたためか、目はきつく閉じ、表情は歪んでいる。思わずレイジの眉間にしわが寄った。
腹部にはハワードの言うように穴が開いているのだろうが、レイジにはそこがただ赤黒く見えているだけだ。服装は昨日レイジが彼の住まいを訪れたときのものと一緒だった。おそらく、あのあと事件について他のホームレスと情報交換しにでも行っていたのだろう。その帰りに襲われたということは、つけられていたのか、待ち伏せされていたのか、あるいは偶然鉢合わせたのか。いずれにせよ、モンテロを殺した者がボリスをやったのは間違いない。
(……ん?)
ボリスの右手を見てレイジは違和感を覚えた。まだ手足の硬直は始まっていないが、生きているうちに強く握りしめていたためが、右手はこぶしを作っている。だが、その大きさがおかしい。まるで何かを握っているような大きさだ。
もしや、犯人の手がかりを奪い取ったのか、と思い、レイジは手を伸ばした。
レイジが触れると、こぶしは容易く解かれた。
そして、ボリスの手の中にあったのは……。
(ッ! これは!?)
それは、間違いなくレイジにも見覚えのあるものだった。
それどころか、その持ち主についてもレイジは明確に知っていた。
なぜこれをボリスが持っているのか。
なぜボリスが死に際にこれを握り締めていたのか。
レイジはパニックに陥りそうになりながらも、あたりを見回した。
ハワードは次の作業のためか、道具の準備をしていた。他の捜査官もレイジに注意を向けているものはいない様子だった。
レイジは、ボリスの手から取り出したものを上着の内ポケットへと入れた。
「どういうことか説明してもらいましょうか、レイジ・キドー!」
オリバー・カスティはレイジの胸倉を掴んで詰め寄った。
「おいおい、いきなりケンカ腰だな。いったい何がそんなに気にくわないんだ?」
「はぐらかそうったってそうはいきません! そこで転がっているホームレスのことですよ!
昨日、キミはそのホームレスと会っていたそうですね。そして、そのホームレスが計画未定区域、しかも廃工場にまで不法侵入していたことを知りながら、何もせず黙認していた」
「ボリスは廃工場のなかには入っていない」
「そんな戯言を誰が信じますか! 計画未定区域にいたという時点で、この男は重要な容疑者に違いありません」
「だが、ボリスは殺された。それに、ボリスがモンテロを殺す理由はなんだ?」
「ふん、ホームレスが人を殺す理由なんてわかりきったことでしょう。物盗りですよ。事実、計画未定区域に入ったのも金目当てだったようですし。この男が死んだのも、モンテロの仲間に復讐された、あるいはこの男に仲間がいて、取り分のことで揉めて殺された、といったところでしょう」
「ボリスは強盗まがいのことをするほど困窮してはいなかった。それに、あいつは左足に古傷があって、歩行に問題がある。仮に仲間がいたとしても、モンテロのようなガタイのいい男をボリスが襲ったとは考えられない」
「いい加減にしなさい!」
カスティはより強い力でレイジを締め上げた。
「キミが見逃したせいで、このホームレスは死に、我々は貴重な手がかりを失ったんです! まったく、こんなクズをかばって事件の捜査を遅らせるなんて……キミがこんなに愚かな男だとは思いませんでしたよ」
瞬間、レイジは頭が急激に熱くなるのを感じた。
目がギロリと動き、カスティの眉間を射抜く。
「なんですかその目は。死んだ男がクズならば、キミも同じ穴のムジナというわけですね。まったく……」
レイジのこぶしに力が入り、振りかぶろうとした瞬間だった。
「いい加減にしてください!」
ミカの怒鳴り声が響き、レイジは我に返った。
声の方を見ると、ミカが肩を震わせながらカスティを睨みつけていた。
「レイジさんは彼のことを実の弟のように思っていたんですよ! そんなレイジさんにひどいことばっかり言って……最低ですッ!」
「言わせておけば、このガキ!」
オリバーはレイジを放し、ミカへと近づいた。
ミカも身じろぐわけでもなく、オリバーを睨みつけながら動こうとしない。
「はい、ストップストップ。二人とも落ち着けよ」
マークが二人のあいだに割って入った。
その後ろではクレマンが苦々しい顔をして立っていた。
「まあ、被害者を侮辱するのは捜査員としていただけないな」
「ッ! で、ですがバルトー警部、レイジ・キドーが被害者を拘留しなかったことで重要な手がかりを失ったことは事実です。僕は殺人課の刑事として、彼を尋問する義務があります」
「ふむ。そう言われるとな――ならばこうしよう。このあと、俺がレイジから被害者とどういうやり取りがあったのか聞き取りをしよう。そのうえで、レイジには厳重注意をしておく」
「そんな曖昧な処分で納得できるわけがないでしょう!」
掴みかからんばかりのカスティの態度に、クレマンの表情が変わった。
「部下にどのような処分を下すかはこっちの
クレマンに睨まれ、カスティの表情に狼狽が表れた。直前までの勢いは消え、反論することもできずに目が泳いでいる。
「……わかりました。ひとまずそれで納得しましょう。手に入った情報は、なんであれすぐに共有するようお願いしますよ」
吐き捨てるように言って、カスティはその場を離れた。
「……すまない、ボス」
「気にするな。それより、署に戻って話を聞かせてもらうぞ」
レイジは早足で階段を下りていた。
次にやることはすでに決めている。
「レイジさん!」
階段をおりた先を見ると、ミカが不安げな顔をして待っていた。
「おう、ミカか。さっきはどうもな。お前のおかげで、カスティのクソったれの顔面をぶん殴らなくて済んだ」
「いえ、そんなことより、ボリスさんのこと……なんて言えばいいのか」
ミカは目を伏せて泣きそうな顔をしていた。
「お前が気に病むようなことじゃない。俺は大丈夫だ」
「そう、ですか」
「あと、これからのことなんだが、お前にはマークがクレマンについてもらいたいんだ」
「えっ、それってどういう」
「悪いが、今回の事件は一人で動きたいんだ。お前はクレマンから指示を受けてくれ。まだ上にいると思うから、よろしく頼んだ」
そう言って、レイジは足早にその場を去った。
そこはめったに利用されることのない場所だった。
警察署の地下、窓もなく、ほこりと湿気が空気を汚染し、入った人間の体調をたちまち狂わす魔境の地――地下資料室にレイジは来ていた。
来て早々、レイジは換気扇のスイッチを押した。これから何時間も作業する予定なのだ。空気を清浄化しなければやっていられない。
資料室のなかには、膨大な書類と書籍、その他資料が所せましと並べられている。
だが、一般的な事件の資料がこの部屋に回ってくることはない。現在ではほとんどの記録や書類は電子化され、紙媒体では保存されていないからだ。
では、なぜ地下資料室のようなものがあるのかといえば、それは“元の媒体のままでなければ資料としての価値が損なわれるもの”がここに集められているからである。
レイジはポケットからTMを取り出した。
「起動しろTM、資料室の資料索引だ」
『了解しました。キーワードをどうぞ』
「そうだな……『煙』『角』『魔法円』『生贄』『召喚』で検索しろ」
『了解しました――当該キーワードでのヒット件数529件です。類似ワードを含めた検索結果は2,749件です。また、検索ワード『魔法円』に関しては、画像データがあれば図形の一致検索が利用可能です。利用されますか?』
「ああ、写真フォルダを開け」
TMが写真フォルダを表示し、レイジは指をスライドさせて犯行現場の写真をタップした。
『こちらの画像データで検索します――該当ヒット数は0です』
「オーケー。なら、さっき検索したキーワードでの資料の場所をマップで教えろ。類似ワードはいらない」
『了解しました』
画面に資料室の平面図が映ると、そこに赤い点が無数にあらわれた。赤い点が平面図に満遍なく散らばると、レイジはげんなりした様子で息をはいた。
「あー、検索ワード『煙』『角』を上位に設定。色を変えてマップに図示しろ」
『了解しました』
今度は青い点がマップ上にぽつぽつと出現する。
「オーケー。このまま棚に行くから、該当資料に近づいたらタイトルを教えろ」
『了解しました』
レイジは棚から資料を集め、資料室内のデスクの上に置いていった。
たちまちデスクの上には書籍と資料の段ボールの山で埋め尽くされていく。
「ひとまずはこれでいいか」
デスクがいっぱいになったところを見計らい、レイジは腰を下ろした。
「TM、これから資料のチェックに入る。十分に一度俺に声を掛けろ。それで応答しなければ、クレマンかマークに連絡しろ。俺の言動に異常が見られても同じだ。いいな?」
『了解しました』
「よし……それじゃあ、やるか」
深く息を吐き出し、レイジは資料に手を伸ばそうとした。
「あのー、レイジさん、いますかー?」
声が廊下から聞こえてきたかと思うと、資料室のドアが開き、ミカがなかに入ってきた。
「あ、ここにいたんですね」
「ああ。それよりどうしたんだ? クレマンのところにいったんじゃないのか?」
レイジが訊くと、ミカは表情を曇らせた。
「実は、その前にレイジさんに訊かないといけないことがあって――レイジさん、現場でボリスさんの遺体から何か持ち出しましたよね」
「……見られてたのか」
周囲には十分注意を払っていたと思っていたが、まさかミカに見られていたとは不覚だった。
「いったい何を持っていったんですか。いや、それよりどうして現場から遺留品を持ち出したりしたんですか!?」
語気を荒げてミカが机を叩く。その声はわずかに震えていた。
「……あれは事件とは関係ないものだ。犯人の手がかりになるようなものじゃない」
「なら、なんで無断で持ち出したりしたんですか!?」
「それは……」
うまい言い訳が思いつかず、言葉に詰まる。
「……いったい、レイジさんは何を隠しているんですか。何を知っているんですか」
自分の目をじっと見るミカの瞳から目をそらし、レイジは数秒逡巡したが、やがて諦めたように深くため息をついた。
「こうなったら、仕方がないか。わかった。お前にだけは話しておこう」
そう言うと、レイジは上着の内ポケットに手を入れ、取り出したものをミカに渡した。
「これは……ロザリオ?」
それは全長五センチほどの銀色の十字架だった。所々についた傷が、それなりに年季の入ったものだということをうかがわせる。それでも持ち主が丁寧に扱っていたためか、汚れはほとんどなく光沢が残っていた。
本来はネックレスのように首から掛けておくものなのだろう。十字架の上部には鎖を通すための金具がついていたが、肝心の鎖は切れてしまったのか、ついていなかった。
裏面を見ると『ルナ・ツクヨ』と名前が彫り込んであった。
「それは俺とボリスの幼なじみにあたる女に、むかし俺が贈ったものだ」
「え!?」
レイジの突然の告白に、ミカは驚きを隠さずにいられなかった。
ロザリオは、昔こそアクセサリーとして無宗教の人々にも愛用されていたが、現在は着用を禁止こそされていないものの、下手に着けていれば危険思想保持者と思われ白い目で見られるため、ほとんど目にすることのなくなったものだ。
それをレイジが贈ったというのは何を意味するのか。
それに、二人の幼なじみということは……。
「同じ孤児院出身の女の子、ということですか?」
「ああ」
「でも、なんでそれをボリスさんが持っていたんですか? 二人が会ったときに貸したか、渡したかしたということなんでしょうか」
レイジは大きくかぶりを振った。
「いや、それは有り得ない。なぜなら、ルナは七年前、俺の目の前で失踪したからだ」
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