ボリス 地下空間の怪

 夜中の地下空間は昼間より暗い。

 通行利用者の数が減るに伴い、設置された照明の照度が下がるためだ。

 完全な暗闇になることはなかったが、遠くを見渡せるほど明るくもない。

 オカルトを信じているいないに関わらず、暗闇というのは本能的な恐怖を呼び覚ますものである。


 今のボリスもそうだった。

 普段は夜道、まして自分の領域テリトリーである地下空間を恐れることなどなかったが、身近で殺人事件が起きたとなれば話は別だ。一歩間違えば巻き込まれていたのかもしれないと思うと、なおさら背筋が凍る。


(しばらく計画未定区域での仕事は無理だな)

 殺人事件が起きた以上、現場周辺の監視は厳しくなる。今までのように自由に出入りするということは当然できない。少なくとも事件が解決するまでは待つのが賢明だろう。

 貴重な収入源が減ったのは痛手だが、泣き言ばかり言ってはいられない。


 レイジと別れたあと、ボリスは同じように地下空間を根城にするホームレスたちを訪問し、情報収集をしていた。

 話を聞く限りでは、昨夜計画未定区域に行った者は数名いたが、廃工場の付近に来たのはボリスのみ、モンテロについても見たことがある者はいなかった。

 目に見えた収穫は無かったものの、情報が入り次第連絡をくれと頼んである。まだ話を聞けていない者もいるため、希望はあった。


(なんとかしてレイ兄の役に立ちたいな)

 ボリスは地下空間や計画未定区域で起きた事件についての情報提供を行うことで、過去に何度かレイジの捜査に協力している。ボリスの情報が決め手となり解決した事件もあったが、ボリスがホームレスということもあり、公にはなっていない。


 それでもボリスは満足だった。

 ホームレスをやっているうえで培った知識や人脈がレイジの助けになるのが、ボリスには何より嬉しく、誇りだった。


『俺のところで一緒に暮らさないか?』

 レイジがそう言ったとき、ボリスは心から喜んだ。

 昔のようにレイジと暮らすのは、”家”を離れたときからの望みだったのだから。

『……いや、いいや。俺はここでの暮らしが気に入ってるんだ』

 ボリスがぎこちなく笑うと、レイジはそれ以上の追及はしなかった。

 

 レイジのもとに行けば、自分はかつてのように守られるだけの無力な子どもに戻る。

 ボリスにはそれが嫌だった。

 たとえ真っ当な生き方ではなくても、何もできないよりはレイジの力になりたい。


(……それに、レイ兄は今でも捜している……あの人のことを……)


 かつてはレイジを恨むこともあった。

 “家”を失い、新しく入った孤児院では壮絶ないじめを受けた。その時に受けた傷のせいで、ボリスの左足は今でも思うように動かない。


 はじめは『レイ兄たちがいつか来てくれる』と思えば耐えることができた。だが、時が経ち、いじめがエスカレートするにつれ、『レイ兄はどうして来てくれないんだ』という怒りが心を蝕んだ。最後には一人で孤児院を飛び出し、地下空間へ流れついた。レイジが自分や他の仲間たちを捜し続けていたことを知るのは、それからしばらく後のことになる。


(レイ兄が警察になったのも、きっとそれが理由。だから俺は、レイ兄とは違ったところからサポートしなくちゃ。いつかまた、みんなで笑えるように……)


 それはかすかな違和感だった。

 ボリスの立っている地点から数メートル離れた照明の真下、わずかな灯りによりうすぼんやりと照らされた空間がある。

 その空間を“なにか”が通り過ぎたように見えた。


「ん?」

 反射的に近くの柱に身を隠した。

 もう夜も遅い。真っ当な人間であれば地下空間をふらふら歩いたりはしない時間だ。まして、ボリスは人目を避けた道を通っている。今見たものがなんにせよ、会ってうれしい相手ではない。


 ちらりと柱のかげから様子を窺う。

 黒い“なにか”が灯りの下の空中を漂っていた。


(あれは、計画未定区域で見た……!?)

 たしかに昨日見た黒い煙だ。

 だが、なぜあれがここにあるのか。


(まさか、移動してきている!?)

 レイジの言っていた『地下空間で“なにか”が起こるかもしれない』というのはこのことだったのか。

 だとすれば、あの黒い煙は男が殺されたのと何か関係があるのか。


(昨日は煙の発生している場所は一か所だけじゃなかった)

 ボリスは周囲を見回してみたが、地下の暗闇に邪魔され、他の灯りの下は確認できなかった。

(レイ兄は何かあればすぐ連絡しろって言ってた……けど)

 

 ボリスは柱のかげを離れ、黒い煙に近づくように次の柱へと移動した。

 円柱状の柱は五メートル間隔で設置されている。ボリスは照明の下を避け、足音を立てないように動いて次の柱のかげへと隠れた。


 再び柱のかげから煙の方を覗く。思った通り、先ほど見つけた煙から離れた場所に、ぼんやりと黒い影が見えた。距離があるため、黒い影が本当に煙なのかはわからなかったが、ボリスは昨日と同じように煙が点在しているのだと判断した。


(もしかしたら、事件の犯人を見つける手がかりになるかもしれない)

 普段であれば自ら危険に近づくようなマネはしなかったが、レイジが捜査している事件であれば話は別だ。多少の危険を冒しても、より多くの情報を持って帰りたい。


 ボリスは先ほどと同じ要領で柱から柱へと移動し、黒い影が視認できる位置までにじり寄ると、再び柱の後ろに隠れ、問題の影の方をそっと覗いた。


(なっ……!?)

 思わず叫びそうになり、ボリスは思わず手で自分の口を塞いだ。


 煙と見間違えたのは、気体が空間を広がっているかのような、巨大な姿だった。

 体は漆黒の毛で覆われ、背には一対の翼、頭部には禍々しく尖った角がそそり立っている。面長の顔を持ち、目は闇に溶け込むような暗い赤色。


 あまりに異常な姿だった。こんな生き物が現実に存在するはずがない。おとぎ話のなかの空想上の生物……それがボリスの目の前にいた。


 あえて近い生き物あげるとすれば、その怪物は――山羊だった。


(なんだなんだなんだあれは!? ヤバいヤバいヤバい! ヤバすぎる!)

 ボリスはパニックに陥りながらも、かろうじて理性を保っていた。恐怖に駆られてはいたが声は上げず、即座に逃げだしもしなかった。

 肩は震え、噛み締めた奥歯が音をたてるなか、目は怪物の姿を凝視する。


 幸い、怪物はまだボリスの存在を認識してはいないようだった。休んでいるのか、あるいは眠っているのかもしれない。灯りの下で脚をたたんで座っている。


 はたして、あれが人に害をなす存在なのかはわからないが、ボリスの脳裏にはレイジに見せられたモンテロの死体の写真が浮かんでいた。

 もし目の前の怪物がモンテロを殺したのならば、奴は今日も生贄を求めて地下空間を彷徨しているのか。

 いや、あるいは自分を追って地下空間まで来たのではないのか。

 そんな妄想がボリスをいっそう震え上がらせた。


(に、逃げなきゃ。あいつに見つからないように――ん?)

 怪物を注視していたボリスは怪物が何かを背負っていることに気づいた。

 あれは……人?


 人のようなものは、怪物の首と背についた翼のあいだに引っかかるようにして倒れていた。気を失っているのか、あるいは振り落とされないように掴まっているのかは定かでない。


 髪の色は金色。長さからして女だろう。服ははっきりとは見えないが、黒っぽいローブのようなもの――修道服を着ていた。


 そのような恰好をした人物に、ボリスは心当たりがあった。 

(……まさか、そんなはずが……ない)

 ボリスは脳裏によぎった考えを振り払うように頭を振った。


 女の服は彼女が宗教者であることを示している。

 かつてであればそのような恰好をした人物を見かけることもあったが、あらゆる宗教が禁止されたこの時代においてはそうではない。自らが危険思想保持者であると宣伝して回るようなものだからだ。


 だが、目の前にいる人物がボリスの思い描く相手とは限らない。今でも信仰を捨てない人々は秘密裏に活動している。たまたま服装が似ているだけの別人という確率の方が高いだろう。


 それでも、ボリスはその人物から目が離せなかった。

 いくら有り得ないと否定しても、身体はいっこうに逃げるための動作を始めない。


 そのとき、怪物が動きを見せた。

 といっても体の向きを少し変えただけだ。だが、それによって背中に乗った女の顔がボリスの方に向けられた。


「……ッ!?」

 ボリスは思わず奥歯を噛み締めた。体が強張り、全身から汗が噴き出す。

 怪物を見つけた瞬間よりも、目の前の光景がボリスをより激しい恐怖へ駆り立てた。


(あれは……間違いない。ルナ姉だ……!)

 悪い予感は的中してしまった。

 怪物の背で横たわっている人物は、ボリスが長年捜し続け、彼にとって実の家族に等しい人物――ルナ・ツクヨだった。


 もし、見ず知らずの他人であれば見捨てて逃げることもできたろう。

 ボリスは悪人でこそないが、見知らぬ他人のために命を懸けるような善人でもない。

 だが、相手が親しい人間――かつて姉のように慕った人であれば話は別だ。


(怪物がどうしてルナ姉を……いや、そんなことはどうでもいい。早くルナ姉を助けなくちゃ!)


 ボリスは視線を怪物へ向けたまま、今まで以上に慎重に柱から離れた。


 どうやって怪物からルナを取り返すか。

 怪物を撃退する武器になるような武器は持っていないし、腕っぷしもからきしだ。今まで暴力的なトラブルはことごとく避けてきた。揉め事は起こさず、関わらずがボリスの信条だ。あとは愛想良くさえしていれば、地下空間では平穏に暮らすことができる。


 正面から怪物を相手にするのは無謀。ならば隙をついてルナを奪って逃げるしかない。

 単純な直線距離での逃走ならば絶望的だが、地下空間であれば勝機はあった。柱のかげや地上に繋がる階段、他にも隠れられる場所の位置は全て頭に入っている。ルナを取り返してすぐに怪物の視界から逃れられれば、どうにかなるかもしれない。


 まずは、どうにか怪物に飛びかかることのできる位置まで近づかなければならない。

 視線は怪物に固定したまま、怪物の背後へ回り込むように移動する。

 怪物がいつルナを襲うかもわからない。

 

 ボリスは焦りと恐怖に駆られていた。

気づかれてしまえば終わりだ。ルナを救出するどころか、ボリスの命さえ危うい。

 ゆえに、足音には細心の注意を払い、呼吸すら最低限に留めながらも、ボリスは必死に足を動かしていた。思うように動かない左足がもどかしい。このケガを負わせた連中のことを今ほど憎らしいと思ったことはなかった。


 ボリスの注意は怪物と自分の足元に向いていた。

 そのため、自分ではそのつもりがなくとも、他への注意がわずかに散漫になっていたのかもしれない。


 もあっ。

 突然、視界が黒く覆われた。照明が消えたわけではない。怪物の姿は視界の中央に捕らえられている。ただ、視野の大部分が黒い“なにか”で覆われている。


(これは……まさか黒い煙!?)

 ボリスは気づかないうちに、暗闇に隠れていた黒い煙のなかへと入っていた。

 パニックに陥りそうになりながらも、必死でこらえる。

 煙には匂いはなく、触れた感触もない。だが、煙を吸い込んだためか、急激な気だるさと眠気に襲われた。


(マ、マズイ!)

 早く煙から出よう、とボリスが踏み出そうとした瞬間だった。


 怪物がくるりと反転し、ボリスの方を向いた。


(なっ!?)

 偶然振り返ったのではない。

 次の瞬間には怪物はボリスへと向かってきていた。


(……まずい、逃げなきゃ……!)

 怪物が猛然と差し迫り、ボリスの顔から一気に血の気が引く。 

 慌てて怪物へと背を向け、駆け出した。


 全速力で走っても、左足が重石となりもたつく。その分、右足が必死に身体を前に進ませた。

 一刻も早く、怪物の視界から逃れなくてはならない。

 まずは柱のかげへ隠れ、移動しながら安全な場所を探そう。そのあとは怪物がいなくなるのを待って……。


「っ!」

 ピタリと、走り続けていたボリスの足が止まった。

 そして、くるりと反転すると、ボリスは再び怪物を見据えた。


(……逃げちゃダメだ! ここで逃げたら……もうルナ姉を助けられない!)


 黒い野獣は間近に迫っていた。

 赤い瞳は心なしか先ほどよりも血走っているように見える。

 蹄の立てるけたたましい音が、いっそうボリスの恐怖を煽った。


 作戦もなければ勝算もない。

 ルナを奪い返せたところで、気を失ったままの彼女を連れて怪物から逃げ切れる可能性は極めて低いだろう。

 むしろ、失敗してボリスだけが死ぬか、あるいはボリスとルナの両方が死ぬかの方が確率としてははるかに高いはずだ。


(こんなとき、レイ兄ならどうしたのかな?)

 ボリスには思いもつかないような機転を利かせて、この窮地を脱しただろうか。それとも、ボリスと同じように無謀にも怪物と対峙しただろうか。


 怪物の突撃がボリスをとらえようとしていた。


(いや、レイ兄は関係ない……今は俺が、俺がやらなくちゃダメなんだ!)


 ボリスは足に渾身の力を込めて地面を蹴った。

 身体が宙へ飛ぶ。

 目指したのは怪物の上に横たわるルナの元。

 怪物の頭を超え、ルナへと近づく。

 手を伸ばせば届く位置まで、あと少し……。


「ぐっ……ごふぁっ!」

 ボリスの口から大量の血が噴き出した。

 腹部には禍々しい角が深々と突き刺さり、傷口からも大量の血が漏れ出している。

 自身の体内から血液が失われていくことに、ボリスは激しく恐怖した。


「イヤだ……死にたくない……。死にたくない!」

 ボリスが苦悶の表情を浮かべ、絶叫を上げてもがき苦しんでも、怪物は意に介さない。捕らえた獲物が絶命するのを待つように、ただその場に佇んでいる。


 薄れていく意識のなかでボリスは自身の敗北を理解した。

 元々、勝ち目のある戦いではなかったし、こうなることは想定できていたはずだ。

 合理性も妥当性もそこにはない。


 それでも、ボリスは自分の決断が正しいと思っていた。

 命への未練はある。

 もっとうまいやり方があったのかもしれない。

 だが、あの時、あの瞬間においてボリスが選べたのはその選択肢だけだった。ボリスは自分のやらなければならないことをした。それだけの話なのだ。


 もはや、貫かれた腹部の感覚は麻痺しつつあり、目もかすみ始めていた。

(ごめんレイ兄、ルナ姉を助けられなかった……)

 朦朧とする意識のなか、せめて最期に一目見ようとボリスはルナに目を向けた。


 ルナは依然として目を閉じている。

 顔色は悪くないため、死んでいるということはないだろう。

 数年来に見るルナの顔に、ボリスは微笑んだ。

(あいかわらず、キレイな顔してるな――あれは?)


 ボリスはルナの首元に光るものを発見した。

 そして、生命活動を停止しかけている身体に鞭を打って、手を伸ばした。


(何にもならないかもしれないけど、もし、レイ兄が見つけてくれたら……)


「ぐあッ!」

 身体を動かすことにより、消えかけていた激痛が蘇り、うめき声が漏れた。


(だから、どうした……ッ!)


 身体の上げる悲鳴を無視し、ボリスは懸命に手を伸ばし続けた。


 届くまで、あと少し。


(頼むよレイ兄。これが最後に俺ができる、精一杯の恩返しなんだからさ。ちゃんと受け取って……)


 ボリスの指先が“それ”に触れた。

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