第4話 本気で想っているからこそ

 俺は反射的に怜の姿を探した。

 しかし、視界に入る範囲内に怜の姿はない。

 あるのは、古びた遊具。何も植えられていない花壇。そこかしこで木陰を作っている木。表面がでこぼこになった砂場。そして汚い公衆便所。それだけだ。

 怜は便所に行くと言ったきり戻ってきていない。

 ……ひょっとして……

 何かを感じたような気がした俺は、今も怜がいるであろう公衆便所へと走っていった。

 此処の公衆便所は、入口の前に壁が立てられて中の様子が見えないようになっている。

 汚れて罅が入った壁の裏側に回ると、男子便所の入口を塞ぐようにして、俺と同い年くらいの若い男が腕組みをしながら立っていた。

「何だ、兄ちゃん。悪いが此処は貸切だ。小便してぇなら他に行きな」

「……嫌だっ、離して! 離してよぉ!」

 男子便所の中から怜の声が聞こえてくる。

 何かに酷く怯えているような、泣いているような、そんな悲痛な叫び声だった。

 どすんがたんと何かをひっくり返す音。最後にどかんと壁を蹴るような音がして、物音が止まる。

「……ったく、手こずらせやがって。そっち押さえてろ」

「やめてっ……むぐぅ!?」

「ちっ、顔はいいのに胸がねぇって残念な女だな。おい。……けどまぁ、下まで残念ってことは流石にねぇよな? せいぜい楽しませてくれよ?」

「うーっ!」

 その声で。

 俺は、この中で何が起きようとしているのかを察してしまった。

「……どけ!」

 俺は立ち塞がっている男を突き飛ばした。

「あっ……てめ、何しやがる!」

 男がよろけて尻餅をつく。その隙に、俺は男子便所の中へと踏み込んだ。

 電気が暗いせいで暗い空間。右側に小便器が、左側に個室が並んでいる。

 その個室の前に、男が三人と、怜がいた。

 怜は個室の前の壁に顔を押し付けられ、無理矢理腰を突き出した前傾姿勢を取らされていた。右腕と口を右側の男に、左腕と頭を左側の男に掴まれ身動きを取れない状態にされており、中央の男が怜の両足を割り開いてその間に陣取っている。そして、怜の膝の下辺りに白い何かが引っ掛かっている──奴らに脱がされたのであろう、怜のパンツだった。

 俺の気配に気付いたのかそれとも入口の男を突き飛ばした物音に気付いたのか、三人が一斉に俺の方を向いた。

「何だぁ? おめぇ、今は見ての通り取り込み中だ。消えな」

「……!」

 スカートを捲られて、パンツを脱がされて、尻を丸出しの状態にさせられて。

 そんな恥ずかしい格好にさせられた怜の目が、涙を零しながら俺に訴える。

 助けて、と。

「……この、糞野郎共が!」

 俺は全身の血が一瞬で沸騰したのを感じた。

 俺は叫ぶと同時に、男たちとの距離を一気に詰めていた。

 右腕を振りかぶり、中央の男の顔面を本気で殴りつける!

「ぐほっ!?」

 中央の男が鼻血を噴きながら吹っ飛んで、奥の壁に激突する。外れかかっていたベルトがぶつかった衝撃で完全に外れたらしく、ズボンがずるりと脱げて赤い縞模様のトランクスが丸見えの状態になった。

「こいつっ!」

「ぶちのめしてやる!」

 怜を左右から羽交い絞めにしていた二人が、怜を投げ飛ばすように手離して俺に殴りかかってくる。

 俺は先に来た右の男の拳を、半歩横に体をずらして避けながらその腕を横から掴む。

 そのまま相手の勢いを利用して一気に自分の元へと引っ張り込んで、一本背負いの要領で投げ飛ばした!

「んなぁぁぁぁ!」

 右の男は左の男を巻き込んでもみくちゃになりながら個室の中に飛び込んでいった。着地地点が悪かったのか便器の中に顔を盛大に突っ込んで変な格好になっている。

 柔道は試合では基本的に『投げ技』と『固め技』しか使わない、格闘技の中では比較的地味で大人しい印象を持たれているが、実際は相手の急所を攻撃するための『当身技』も存在する攻撃的な武術なのだ。試合では当身技は禁じ手として扱われており、現在では教えている道場も少ないと言われているが、中には護身術として当身技を教えているところもあるという。使いこなすことができれば、それは対人戦において強力な『武器』となる。

 俺は柔道を暴力の道具にする気は全くないが、怜に手を出したこの最低野郎共は許せない。

 この場で、完膚なきまでにぶちのめしてやる!

 俺は奥の壁に凭れ掛かって目を回している男の襟首を引っ掴み、そのまま担ぎ上げ、出口の壁めがけて投げつけた!

「あべぇ!?」

 出口の前に立っていた男に投げた男が直撃、二人は仲良く外の壁に叩きつけられて転がった。

 壁さえなければ結構な距離を飛んでいったのだろうが、こればかりは仕方がない。

「なっ、何だよこいつ、どんな非常識な力してんだよ……人間があんな風に吹っ飛ぶって、バケモンか……」

「……希望するなら今の連中と同じように外まで投げてやろうか?」

 個室から這い出してきた男を冷たく見下ろす。

 俺の威圧が効いたのか、そいつは悲鳴を上げながらよたよたとその場から逃げ出していった。それを追いかけるように、便器に顔を突っ込んでいた男の方も慌てて便所の外へと飛び出していく。

 外で転がっている二人を強引に叩き起こすと、そのまま奴らは俺の前から完全に姿を消したのだった。

「……てっちゃん……」

 小さい声で俺を呼ぶ怜の方に、振り向く。

 怜は何度もしゃくりながら、唇をはくはくと動かしていた。

「大丈夫か。怪我してないか」

 目の前でしゃがんでそう問いかけると。

「……うぁああああああん」

 大粒の涙をぼろぼろと零して、天井を仰ぎながら怜は大声で泣き始めたのだった。


「……ほら、買ってきたぞ。コーヒー牛乳」

「……ありがと」

 公園の外にある自販機で買ってきた、ペットボトルのコーヒー牛乳を怜に渡してやる。

 怜は蓋を開けると、控え目に口を付けて中身を一口こくんと飲んだ。

「……美味しい」

「そうか。良かったな」

 俺も自分用に買ったペットボトルのスポーツドリンクを飲んだ。

 自販機から買ったばかりというだけあって冷えていて美味い。体を動かした後はスポーツドリンクが一番だな。

「……ごめんね、てっちゃん。ボクがトイレに行きたいなんて言ったから、あんなことになって……」

「お前が謝ることはないだろ。お前は何も悪くないんだから。……それより、お前の方こそ大丈夫なのか。その……何かされたり、とか」

「ううん。パンティ脱がされただけだから、大丈夫……怪我もしてないし、お尻も触られてないから。もう平気」

「そうか」

 ふにゃっとした笑みを見せる怜に、俺は静かに相槌を打つ。

 こういうことは、変に言葉を並べて下手に慰めるよりは黙って傍にいてやる方が良い場合もあるのだ。

 そのまま二人でドリンクを飲みながら、静かな時を過ごす。

 その間、俺の胸中には様々な思いが渦を巻いていた。

 さっき、怜が男たちに乱暴されそうになったのを見て──俺は、決心したのだ。

 やはり、今、俺が思っていることをはっきりと伝えるべきなのだと。

 このままでは、俺のことはともかくとして、怜のためにならない。

 俺は、怜が大事だから。長い間一緒に過ごしてきた幼馴染の怜のことが何よりも大事だから、怜には本当の幸せを掴んでほしいのだ。

 そのためには、俺は……

「……なあ、怜。聞いてくれるか」

 俺は沈黙を破る。意を決して。

「うん。何?」

「俺は、お前のことが大事だ。大事な、幼馴染だ。昔から、そして今も、そう思ってる。俺は、お前にはこの世で一番幸せな奴になってほしいんだよ」

 俺は頭が悪い。だから、知っている言葉の数もそんなに多い方じゃない。俺の言葉で、俺が本気で言いたいと思っていることがはっきりと伝えられるかどうかは分からない。

 でも、言う。伝えたいから。本気の思いで、言う。

「だから……もう、やめてくれ。こんなことをするのは。俺を好きだって言って恋人みたいに扱うのは」

「……てっちゃん? 急に……どうして? ひょっとして、ボクのこと嫌いになっちゃった?」

「違う。嫌いになったわけじゃない。大事だって言っただろ。大事だからこそ、お前にはもうやめてほしいんだよ。他でもない、お前自身のために」

 表情を曇らせる怜に、俺はかぶりを振る。

 怜が縋るように俺の右腕を掴む。

「嫌だ、嫌だよ。ボク、てっちゃんと離れたくない。ずっと一緒にいたい! ねぇ、どうして、ボク何かてっちゃんを怒らせることした? それだったら謝るから! 悪いところも全部直すから! だからボクを捨てないで! ずっと傍にいてよ! お願いだよ!」

「だから、無理なんだよ! 俺とお前は恋人同士にはなれない! 例え俺たちがそれを望んだとしても、周りが絶対に許さない! お前だって本当は分かってるんだろ、こんなことをしたって俺たちは付き合えないんだってことは! だってお前は──」

 怜の手を振りほどいてベンチから立ち上がり。

 俺は、震える声で叫んだ。


「お前は──男なんだから!」

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