第5話一歩を踏み出したら。『ライフ・イズ・ビューティフル(映画)』
寝られない原因は色々あって、それは人それぞれだと思う。
なぜそんな事を考えているのかというと、今日はいつもと環境が違うのだ。
それは眩しい明かりがあるとか、熱帯夜だというのに毛布が厚くて寝られないという環境ではない。
そもそもの場所が違うのだ。
金曜日、高校にいつも通り、いやいくらか気持ち軽やかに登校するとすぐに寄ってくる女子がいた。
まるで占領軍の配るチョコに群がる子どものように無邪気に駆け寄る彼女のプリーツスカートがひらひらして危なっかしい、いつも通りの桜ヶ丘夏海だ。
夏海の方が家は遠いのにいつも私より先に来ている元気な子だ。高校三年間で遅刻したことがないらしい。
「ねぇねぇ、明日は休みだし私の家に泊まりに来ない?」
「そんなの毎週のことなのに突然どうしたの?」
そうだ、毎週金曜日があって公立高校だから翌日土曜日は休みだ。なのに、どうして別に夏休みみたいな長期休暇前という訳でもない梅雨真っ盛りの今、そういうことを言い出すのか不思議だった。
「忘れたの、来週から期末試験だよ」
私は完全に忘れていた、6月の最終週からテストが始まるのだ。私は日頃の授業を真面目に受けるだけで事足りるので直前になって焦って勉強をしないから気にしていなかった。つまり。
「え、私に勉強見て欲しいってこと?」
「うん、今日は深夜までずっと勉強だよ!ノート持って来てね!」
こうして私に有無を言わせない無理矢理な方法で勉強会というより私による家庭教師が決まった瞬間だった。
恥ずかしいことに私はこれまで友達の家に泊まった事がなかった。しかし、今月私は誕生日を迎え18歳になった。
18歳になった今ならさすがに公務員をしている堅物のお父さんでも了解が貰えるような気がした。
今日は、お父さんに頼み込んでみよう。
いつかは私だって赤玉ポートワインをちびちびやるようになるかも知れない。麦酒をぐびぐびするかもしれない。そして、鯉のようなタバコの煙を空に飛ばすかもしれない。お酒を飲みながらチェスを指すような大人でも良いかもしれない。でも、大人でも子どもでもない今、勇気を出してコーティーや夕士くんのように自由になるのも良いかもしれない。
そう思うと何だかやる気や勇気が湧いてくるような気がした。
結果から言うとあっけなく許可が出た。
私がお父さんに対して少しびびっていたのか、お父さんが昔より丸くなったのかは分からない。
しかし、これが私の一歩だったら嬉しいなと、思う。もしかしたら数年後にはどうでも良いことになっているかもしれない。
それでもこの一歩によって違う人生の一歩が踏み出せたのかもしれないと考えると忘れたくない出来事だ。
夏海の家は高校の最寄り駅を超えて三つ下った駅だ。温泉街があるため駅名にはしっかり温泉の名が入っている。
しかし、駅前は箱根湯本のように観光客が溢れている訳はなく、それどころか地元民すらまばらな街だ。
(たしか、この街には写真部の他の面子も住んでるんだっけ?)
駅前で待ち合わせしていた夏海に付いていくと住宅街に入って行った。初めてのお泊まりが、初めて訪問する家でもあるのだ。
しかし、予想していた通り夏海が勉強に集中し続ける訳がなかった。
「ねぇねぇ、もう勉強やめて映画でも観ない?Amuzoプライム入ってるから映画見放題だよ?」
思っていたより魅惑的な誘いをしてきた夏海の手は、すでにシャープペンシルと消しゴムを筆箱にしまい始めていた。
商業高校では普通科目より商業科目を頑張れば気を利かせて留年することはない、という暗黙の了解が生徒、教師共々に流れていた。
既に財務会計と原価計算、情報処理の商業科目は叩き込んだからこっちでは悪い点は取らないだろう。ならば、もう勉強はしなくてもいいのかもしれない。
「うん、観ようかな」
そう返事をするまでにそれほど躊躇することはなかった。さっきまで一言二言、話して勉強をしていたからか、この部屋にはゆっくりした時間が流れている気がした。
夏海が「何観ようかな~」と語尾に音符でも飛んでいそうな独り言を言いながら部屋にあるTVをつけた。接続されたゲーム機でインターネットを繋げることが出来るらしい。私はゲームやネットを利用することが少ないから詳しくは分からない。
時刻は夜11時。まだ深い時間ではないが、この時間から映画を見始めることが滅多にないので、何かイケないことをしているかのような高揚感があった。
「愛生ちゃんはどんな映画が観たい?」
「えーとりあえず洋画がいいな」
完全に偏見だと思うけど、邦画は陰湿だったり、ヒューマンドラマが主題になっていたりする作品が多い。この時間に観たら途中で寝てしまうような気がしたのだ。
「私は泣ける映画が良い!」
映画を見終え、夏海のお母さんが用意してくれた布団で薄手のブランケットを肩まで被った。慣れない枕に、見慣れぬ天井、そして隣に夏海がいる状況が不思議だった。
私は初めてみた古い映画で号泣した。久々に泣いたかもしれない。明日、目が腫れていないといいなと、思う。
観た映画の題名は『ライフ・イズ・ビューティフル』という90年代にイタリアで作られた映画だった。アカデミー賞を受賞したらしいから有名な映画だと思う。
舞台は第二次世界大戦のイタリアで、主人公はとても陽気で一目惚れした女性と駆け落ちみたいな結婚をして息子を一人授かるのだ。
しかし、ナチス・ドイツによるホロコーストで一家全員が強制収容所に電車に乗せられて送られる。
けれど、お母さんと離ればなれになってしまった息子を不安がらせないよう「これはゲームだ。ポイントが1000点たまったら勝ち。勝ったら戦車で家に帰れる」という主人公のお父さんによって強制収容所の生活をゲームのような楽しい生活に変えてしまうのだ。
このあとのラストがとても泣けた。子どもを愛するが故に、最期まで陽気な父を演じ続けたお父さんの姿がとても格好良かった。今、思い出しても目に涙が溜まっている程だ。
そして最期の台詞「これが私の物語である」と締めくくられる。
私の父とは正反対のような父だった。しかし、実は今日、駅までお父さんが車で送ってくれたのだ。そして私を送った後、ずっと心配しているようだ。さっきお母さんからLANEが来ていた。
『お父さん、明日も迎えに行くから帰る時間教えて欲しいみたいよ』
私には見せないだけで実際は映画のお父さんのように自分の子を大切に思うあまり、厳しく育てられていたんだな、と知ることが出来た。初めてのお泊まりで随分と成長できた気がする。
そうだ、明後日は父の日だ。
(明日、夏海と何か買いに行こう)
眠ろうと寝返りを打った。すると目の前になったベッドから声がした。まだ夏海が起きていたのだ。
「愛生ちゃん、今日は勉強見てくれてありがとね。」
夏海が良い点とれたらきっと私のおかげだ。
「ううん、良い点取ってね?」
しかし、もうベッドから声は返ってこなかった。私はまた、寝返りを打った。そこには本棚がない。
目を閉じて眠るしかないのだ。
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