朝霧の町
aninoi
生きる
わたしがふとあることを不思議に思ったのは、家族一緒に晩ごはんを食べる、いつもの時間です。
「ねー、お父さん、お母さん」
「んー? なんだい?」
「あら、嫌いなものでもあった?」
わたしが話しかけたら、両親はすぐにわたしの名前を呼んでにっこりと笑ってくれます。嬉しいです。
あ、でも、わたしはおりこうさんなので、嫌いなトマトもちゃんと食べるのですよ。残したりはしないのです。
「ううん、そうじゃなくてね、訊きたいことがあるの」
「あら、そうなの? 珍しいわね。何を訊きたいの?」
「えっとねー、わたしたちって、ブタさんやウシさんを食べて生きているでしょ?」
「ええ、そうよ」
「うん、だからブタさんやウシさんに『ありがとう』って言って食べるんだよ?」
「うん、わかってるよ」
ブタさんやウシさんだけじゃなくて、苦いピーマンも嫌いなトマトも生きています。そしてわたしたちは、それらを食べて生きています。
でもそれは、ブタさんやウシさんにとって、とっても辛いことだと思うのです。わたしだったら、まだまだ沢山おいしいものを食べたいし、沢山勉強したいです。ブタさんたちも、そうじゃないかと思うのです。
そんなブタさんたちを食べて生きていくのって、とっても悲しいと思います。でも、食べないとお腹がすいてとっても辛いから、わたしはブタさんたちを食べないと生きれないんです。
「わたしたちがブタさんやウシさんを食べて生きてるのって、ブタさんたちにとって、きっと、とっても辛いことなんだと思うの。じゃあ、どうしてわたしたちは生きているの?」
ブタさんたちに辛い思いをさせてまで、どうして生きているのでしょう。
そう訊くと、二人とも変な顔をして静かになってしまいました。
「……なぁ、僕たちの娘は天才なのかもしれないな」
「……ええ、まだ幼いのに、こんな事を考えるなんて、空恐ろしい子だわ……」
なんだか、二人が楽しそうにお話をしています。そして、わたしの頭を撫でながら答えてくれました。
「いいかい、生きていく意味なんてね、実は僕にも分からないんだ。だから、『生きる意味を探す』ことが生きる意味だって、僕は思うな」
「わたしにだってね、その答えは分からないのよ。だからか貴女は、いつかその答えを見つけて、わたしたちに教えてね?」
「んー……、うん、分かった!」
結局、よく分からなかったです……。でも、二人が嬉しそうなので、なんでもいい気がしてきました。
早くごはんを食べて、お風呂に入って今日はもう寝ましょう。
わたしは、おやすみ、と言ってお母さんのお腹に抱き着きました。
……あ、歯みがきを忘れるところでした。あぶない、あぶない。
それでは、また明日。
次の日、わたしは今までにないくらい早く起きました。まだ家族はみんな寝ている時間です。
こんなに早く起きるのは大変でした。でも、今日はどうしても起きなければいけなかったのです。
なぜなら、わたしは『生きる意味』を探しに行かないといけないからです。昨日、両親は『生きる意味を探すため』と言いましたが、それではなんだかもやもやします。だからわたしは、『生きる意味』を探しに行くことにしたのです。
早速、家を出ようと思います。見つかったら怒られてしまうので、見つからないようにそっと玄関のカギを開けてドアを開きました。外に出て、ゆっくりとドアを閉めます。
「……ふぅ」
どうやら、成功のようです。
なんだか、これだけで疲れてしまいました。ですがわたしは、『生きる意味』を探しに行くのです。
そしてその日、わたしは朝の霧の中に足を踏み出したのでした。
ぶぅん、と、車の音が聞こえる朝でした。
[][][][][][][][][][]
ほのかに霧に包まれた薄暗い町には、人影はほとんど見えません。
寂しい道です。
だれもいない道を歩いていると、世界にわたし一人しかいないようにも思えてきます。
『生きる意味』はなかなか見つかりません。
両親もよく分からないことらしいので、やっぱりわたしにも分からないのでしょうか。
少し、落ち込んでしまいます。
「おいおい、こんな時間に一人で何やってんだ、お嬢ちゃん」
うつむいて歩いていると、声がかけられました。
わたしは嬉しくなって顔を上げました。
大きなヘルメットを抱えた、髪が金色の怖い顔をしたお兄ちゃんがいました。
わたしはまたうつむいてしまいます。
「おい、嬢ちゃん。確かに厳つい見た目してるけどよ、いくらなんでもその反応はあんまりじゃねえか。お兄ちゃん、悲しいぜ」
「あやしい人です! こんなに朝早く、一人で一体何をしているんですか⁉」
「まぁ待てよ。どっちかってーとその疑問は俺のモンだし、そもそも俺は怪しい人間じゃないぜ。これでもお仕事中なんだ」
怖いお兄ちゃんは、そう言ってニヤッと笑いました。
そして、後ろにある赤いバイクから紙束を取り出し、なんと人の家のポストに入れちゃったのです。
「あー! 人の家にゴミ捨ててます! そんなのお仕事じゃないですよ!」
人の家にゴミを捨てることは駄目なことです。お兄ちゃんは怖いけど、駄目なことなのでわたしはお兄ちゃんに向かって声をあげました。
するとお兄ちゃんは苦笑いをしてわたしの頭を少し乱暴に撫でました。
「はは、これをゴミ扱いたぁ、やるな、嬢ちゃん。まぁ確かに、半分以上は誰かの手で、誰かのいいように歪められて、編集されて書かれたものなんだ。そう思えば、ゴミみてぇなもんだろうよ。情報は、自分で仕入れて自分で判断したものが一番正しいからな」
「えー、じゃあやっぱりゴミですよ」
「いやいや、こんなものでも、誰かが必要にしてるし、なんだかんだ言ってもやっぱり立派な情報源なのさ。間違った事は書かれてないしな。ほら、お嬢ちゃんも、新聞ぐれぇ知ってるよな? コレのことだよ。で、これを皆に配るのが俺の仕事だよ」
新聞ですか。もちろん知ってます。朝ご飯の時間、ただでさえお仕事で忙しいお父さんをわたしから奪う忌々しい存在です。
「そんな紙くず、配らなくてもいいのです」
「ククク、そうかもな。でもまあ、欲しいと思うやつもいるんだよ」
そうなんですか……。わたしは欲しくないのですけど。でも、そういうのは人によって違うってお母さんが言ってたので、そうなのでしょう。
「で、お嬢ちゃんはなにやってるんだい?」
「わたし、『生きる意味』を探しているのです」
「……ほう、こりゃまた面白い」
わたしのお話を聞いたお兄ちゃんは、またニヤッと笑いました。怖いけど、悪い人ではなさそうです。
「ねえ、お兄ちゃん。『生きる意味』って何ですか? お父さんにもお母さんにも訊いたけど、分かんなかったです」
「へぇ……。『生きる意味』ねぇ……。ご両親は、なんて言ってた?」
「えーっと、『生きる意味を探すこと』って言ってました」
「ははははは! ありきたりなことを言ったもんだ。そりゃあ分かんねぇわな。俺もよく分かんねぇからな、そんな謎かけみたいなの」
お兄ちゃんはカラカラと笑います。
顔が怖いお兄ちゃんでも、やっぱりお父さんが言ってた事の意味、分からないんですか。
難しいです。
「俺ぁな、『生きる意味』なんて、ないと思ってるよ」
「……ないんですか?」
「ああ、そうさ。俺が、ここにいる。おふくろの腹から産まれて、ここで生きている。それだけで充分じゃないか?」
ここに、産まれてきて。
ここで、生きている。
「……産まれたから、生きる」
「そうさ。だから意味じゃなくて理由だな」
「それって何が違うんですか?」
「あー、これは俺の勝手な解釈なんだけどよォ……。理由は、『結果は関係なく、物事の根拠とか、起こった現象や行動のわけ』で、意味は、『それをすることで得られる結果』が元にされるものなんだよ」
な、なにやら難しい事を言いますね……。
でも、何となくわかる気がします。
例えばトマトが嫌いな人にむかって『それを嫌いな理由は何?』とは言いますが、『それを嫌いな意味は?』とは言いません。『どうして?』と『それでどうなるの?』の違いでしょうか。
「ま、分からなくてもいいけど。『生きて何になるか』はわかんねぇけど、『どんな事があって生きているか』なら、多分あってるな」
更に分かりづらくなりました。
この人、チャラチャラしたヤンキーみたいな見かけによらず、結構物事をしっかり考えている人ですね……。
「今、とても失礼なことを考えなかったか?」
「いえいえそんなまさか」
しかも、勘もなかなか鋭いようです。
「そもそも、俺ら生きてる人間、いや、生命ってぇのは、産まれてくることそのものを選べないし、俺らのオヤジやおふくろも、俺が産まれてくるまでは、自分の息子が俺だって事を知らなかったんだぜ。誰も俺が産まれることは望んじゃいなかった」
「……?」
よく、分からないです……。お兄ちゃんの言う事は難しいです。
「あー……、分かんねぇかなぁ……。つまりだな、俺やお嬢ちゃんが産まれてきた事ってのは、偶然起こったんだって事なんだよ」
「だから、誰も望んだわけじゃない、と」
「そうさ。だって、俺がまだ産まれてなくてこの世界に俺っていう人格もないのに、俺っていう人格を望むって、不可能な事だろ?」
誰も望んでいない……それは、とても悲しい事ではないでしょうか。そんな、勝手に産まれてきた、だなんて言い方は。
「でも、お父さんもお母さんも、『わたしを産んでよかった』『貴女が欲しかった』って言いましたよ?」
「う〜ん……、子供いないから、その辺はまだ俺には分からないところだよな。でも、親は『自分の子ができる』ってことは分かっても、子を見るまではどんな性格の子供か分かんないのも本当だろ?」
「そんなの、後付けの教育で歪められるのです」
「なんてことを言うんだ。ンなのは教育じゃなくて調教だぜ」
「でもそうですよ。子供は、大人がカッコイイと言った物をカッコイイと思いますし、大人がキレイだと言った物をキレイだと思うようになります。そういうものです」
「お嬢ちゃん、言ってる事と外見年齢が釣り合ってないぜ」
しかし、“育てる”と“
歪めて──形を変えて、調える。
なら、純真無垢な小さな子供に何かを教える事は、果たして“育てる”と言えるのでしょうか。それは、ある意味で“調えている”ともとらえられるのではないでしょうか。
だとしたら、なんて虚しいことなんでしょう。
だって、その考えは、今の自分が親という違う生命体によって創られた、オリジナリティの欠片もない、自分という存在の紛い物ってことです。
でも、見方によってはそんな事すらも、おそらく事実。
「つーかよォ、お嬢ちゃんの言った通りなら、お嬢ちゃんのご両親は『貴女が、私たちの思い描いた人間に作ることができてよかった』って言ったことになるんだぜ。どこのサイコパスだ、そりゃあ」
「お父さんもお母さんもそんなことは言わないのです!」
「だろ?」
確かに、子供の性格が親の手で歪められるとして、その親が『貴女が欲しかった』と言ったら、そういう捉え方もあります。
「だから、俺が言いたいのはそうじゃなくてよォ。例えば、もしかしたら自分の子供は目が見えないかもしれない。もしかしたら耳が聞こえないかもしれない。そういうのは産まれてくるまで分からないんだ。男か女かも、できてからじゃねぇと分かんねぇ。それに性格や頭の良さだって、今までに産まれてきた人類全員の脳みその形が寸分の狂いもなく全部一致している、ってわけじゃないんだから、やっぱり産まれついての性格ってあると思うぜ。そりゃ、性格をかたどる部分の殆どに、親や周囲の人間が関わってるのは認めるけどよ」
俺は専門家じゃないからよく分かんないんだけどな、と、お兄ちゃんは続けました。
そしてここで息を一度吐いて、もう一度吸います。
「遺伝子の組み合わせだって、俺らにゃ想像もつかないくらい沢山あるんだぜ。その中から狙った形の遺伝子の組み合わせを出すなんて、普通は不可能だろ」
「なら……、狙った遺伝子が作れないなら、狙った知性や性格の子供もできない……」
「そうそう! よくわかったな。で、元の話に……なんだっけ。あ、生き物は全てが偶然産まれる存在だから、産まれたんなら生きる、って話だったな。これで説明できたんじゃないか?」
なるほど。確かに、生き物は全て偶然によって産まれるのでしょう。
そして、産まれたのなら、生きる。
「俺は、そう思うよ。どうだい、参考になったかな?」
なんだかとっても単純な気がします。
でも、単純だから、わかりやすい。
「でもお兄ちゃん」
「あん?」
「やっぱりわたしは“理由”じゃなくて“意味”を知りたいです」
お兄ちゃんは『意味なんてない』と言ったけれど。
生命は、生きた先で『何をなすのか』が知りたい。『何をするために産まれたのか』が知りたい。
「そうか……。でもよォ、さっきも言ったけど、偶然産まれたのに『何のために産まれたのか』を考えるなんて、無意味なことだと──」
「いいえ、お兄ちゃん。無意味なんかではありませんよ」
わたしはお兄ちゃんの言葉を遮りました。
確かに、偶然産まれたなら『産まれた意味』なんかあるわけもなく、だとしたら『生きる意味』なんかもあるはずはありません。
しかし、例えそんなものが無いとしても、考え続ける事に意味が無いなんてことはありません。
「それを考え続けることは、結果的に人生に真剣に向き合うことに繋がるんです」
「……ふぅん、なるほどねぇ。確かにそりゃ、一理あるかもしれねぇな。でもその考え方だと、嬢ちゃんの親御さんが言った事と内容が被るんじゃねぇか?」
「あ……」
た、確かに……!
これでは、どうしてわたしがこんな時間に外にいるのか分からなくなってしまうのです……!
「ち、違うんですよ、そうじゃなくて……」
わたしがそうして
「はっはっは! 冗談さ、冗談。言いたいことは分かってるよ。『生きる意味』を考えることには、『生きる意味』そのものとは関係なく別の効果がある、って言いたいんだろ?」
「む、うぅぅぅうう! イジワルです! 分かってるんじゃないですか!」
「あっはっはっはっは! いや、悪かったよ。……おっと、もうこんな時間か」
お兄ちゃんはまた大笑いした後に、急に冷静になって腕時計を確認しました。
「すまんな。俺、さすがにお仕事に戻んないといけねぇわ」
「そうですか。ありがとうございました、お兄ちゃん」
「おう。まだ、探すのかい?」
「はい」
「ククク、そうかい。じゃ、本物の不審者に見つからないようにな。いざとなったら、お巡りさんのところに行けよ」
「わかってるのです」
「ならよかった。……なあ、お嬢ちゃん」
「はい?」
「もし、俺の勘違いなら、それでいいからよォ……」
「…………」
「…………車には、気をつけてな」
お兄ちゃんは、今度はそっと優しく、壊れたものに触るようにわたしの頭を撫でました。
「……はい、わかってるのです」
「……じゃあな、お嬢ちゃん」
「バイバイ、お兄ちゃん」
わたしが手を振ると、お兄ちゃんは赤いバイクに乗ってどこかに行ってしまいました。
郵便配達のお兄ちゃんが言ったことは、実はとても簡単な事なんだと思います。
生き物は全て、偶然産まれる。『産まれるか否か』という選択肢すら与えられえず、否が応でも産まれてくる。なら、『産まれてきた』というそれだけを理由に生きていけるのだと。
だって、『生きる』ということは、生物として本能に刻まれているのだから。
面白いお話でした。
「……次は」
お兄ちゃんと別れたわたしは、フラフラと足を進めます。
幾分か歩いて、大きな橋を通っているときです。
橋にある柵の向こう側にスーツを着た女の人が立っています。お姉ちゃんっていうより、お姉さんって感じの人です。
「お姉さん、何をしているんですか?」
わたしが声をかけると、お姉さんは肩をビクリと振るわせて、目を剝きながらわたしの方に振り向きました。
「わ、びっくりした……。ど、どうしたの、何か用? お母さんとはぐれちゃった?」
スーツを着たお姉ちゃんの反応はいちいちオーバーで、こちらが驚いてしまいます。
「いえ、一人なのです。お姉さん、何をしているのですか? そこは危ないです。川に落ちちゃいますよ」
「い、いや、何も……」
「そうですか。では、もう一つ質問してもいいですか?」
「え、ええ、いいわよ」
「お姉さん、『生きる意味』って、何でしょうか?」
わたしは言いました。
「……『生きる意味』、かぁ」
するとお姉さんは顔をくしゃりと歪ませて、うつむきます。
「なんだろうね、『生きる意味』って」
お姉さんの顔は、苦しそう。
「お姉さん。わたし、ついさっき、『産まれたから生きる』って聞きました。……って言っても、残念ながらこちらは意味ではなく理由なんですけど。どう思いますか?」
「意味じゃなくて、理由? ……あー、そういうことね」
お姉さんは一度逡巡してから答えにたどり着いたらしく、可愛らしく胸の前で手を打ちます。そして感心したように、
「難しいコト、考えるのねぇ……」
と、しみじみと言いました。
「いえ、これはさっき会った人が言ってた事です。それで、『産まれたから生きる』って、どう思いますか?」
う~ん、とお姉さんはうなり声をあげて、悩み始めました。
「そもそも、『産まれたから生きる』って、その人はどういう根拠があってそう言ったあけ?」
ひとしきり悩んだ後、お姉さんはわたしにそう質問してきます。
わたしは、お兄ちゃんが言っていた事をほとんどそのままお姉さんに伝えました。
生き物は全て偶然産まれるものだということ。
そこに『産まれるか否か』の選択の余地は無いのだということ。
そして、偶然産まれたのだから、当然『生きる意味』なんてものはないのだということ。
「なるほど。『生きる意味』はない、かぁ……。なかなか厳しい事を言うね、その人」
お兄ちゃんの考えを聞いたお姉さんは、そうコメントをこぼします。
「貴女はどう思うの?」
「わたしは、『生きていく理由』だというのなら、全面的に正しいと思います」
むしろ、わたしだけの話ならそれしかないとすら思っています。
これは、わたしが人の言葉を丸まんま飲み込んでいるわけではなく、自分の中の常識と価値観に照らし合わせた判断です。
「そう。なら、それでいいんじゃないの? 貴女の中でそうなっているのなら、他人がそれに口を挟むものではないでしょう」
「はい、そうかもしれません。ですがわたしは、お姉さんの意見も聞きたいです」
他の意見を聞くことは、悪い事ではない筈です。
そもそも、知りたいことは『生きる意味』ですし。
「っていうか、この考え方だと『生きる意味』なんて存在しないことになっちゃいます。それだと、この考え方に賛同しているわたしが『生きる意味』を探してる、っていう矛盾した状況になっちゃうので、どうにかしてそこの
「めちゃくちゃ無茶ぶり言うじゃない、貴女……」
ですから、お姉さんには頑張ってほしいところですね。
「そう、ねぇ……。よく、分からないわ、私には……」
「ないんですか? そういう事を、考えたことが」
「いえ、そうではないわ。考えた。人間誰しも、人生で一回くらいはこういう事を考えるものよ。何回も、何回も考えたの。でも、結局何も思い浮かばないまま、ここまできちゃった……」
そうやってため息をつくお姉さんは、やはり重たい雰囲気を纏っています。
「……結局、『生きる意味』なんて、人それぞれなのよ。あると思うのか、ないと思うのかすらもね」
『人それぞれ』ですか……。よく聞く言葉です。あまり、得意じゃない言葉。
「そもそも『生きる意味』って、『何のために生きているのか』ってことでしょ? そんなもの、なくて当然だと思っているわ」
「お姉さんも、ないと思うのですか?」
「ええ。産まれついてのものは、ね」
「産まれついて……?」
どういう意味でしょうか。
『生きる意味』って、生命がその生において何をなすべきか、というものです。
産まれついてのものしかないというより、そういう問題ではないのでは……?
「あ、確認なんだけど、貴女が聞きたいのって、『自分、ひいては人間という種が、生きる上で何をするべきか』っていうのでいいの?」
「はい」
「まずはそこよ、私と考え方が違うのは」
「……?」
何が、言いたいのでしょうか。
「そのね、『人間という種が』ってトコが違うの」
「……あっ」
「分かった?」
つまり、お姉さんが言いたいのは……。
「考えている、単位が違うんですね」
「そうね、短く言えば」
少し分かりにくいケド、と、お姉さんは苦笑交じりに続けました。
「生命を宿しているかどうかという観点において、この私と──そうね、トカゲにしましょうか。その観点において、私とトカゲには共通の『命がある』という結論で締めくくることができるの」
わたしは、視線でその次の言葉を促しました。
「逆に、何が違うというの? 『種が違う』とか、『形が違う』とか、そんな話じゃないわよ」
「……知性の有無とかは?」
「知性? 一体何を基準にして知性を判断しているの?」
「それは……」
知性。
言語能力があったら? いや、言語能力というのは、人類が生存するために身につけた、ただの技術です。これは鳥が空を飛ぶ能力を身につけたのと同じこと。
では、脳の大きさ? なるほど、単純ながらも案外的を射た答えかもしれませんが、残念ながら違うでしょう。脳の大きさで決まるのは知識の量です。これは、ここでいう知性とは少し違うものになると思います。
「……感情の有無は」
「人間以外の動物に感情がないとでも言うつもり?」
ですよね。分かり切ったことです。動物愛護団体に締め上げられちゃいます。
……いえ、そもそも人間以外の動物に知性がないことを前提に話を進めるのが間違っていますよね。
「あ、それなら、植物は? 植物は脳なんか持ってないでしょう」
つまり、知性の有無は脳の有無だ、ということになります。
脳があるということは、考える力があるということ。ないなら、考える力もまたないということです。
「んー、なるほど、植物かぁ……。確かにあいつらは怪しいかもね……。まぁ、私が言いたかったのは知性の基準じゃなくて、『生命であるといいう点で、全ての生命は等しい存在である』ってことだから、そこはどうでもいいんだけどサ」
そ、そうでした……。話が脱線してしまいました。
「で、だから、生き物は皆、同じように偶然産まれたものだから、人間がどーとか他の生き物と違うのがどーとか、って話は関係なく、『生きる意味』ってのはないのよ」
ここまでは、前座です。今までの話の整理。
とはいえ、殆どはお兄ちゃんが言った事と同じですけど。
そこに、お兄ちゃんが言及しなかった『種族は関係なく』という言葉が明確に記されただけです。
そして当然、この話はこんなところで終わらないはず。
「じゃぁ、お姉さんは、『人間が』じゃなくて、『生命がなぜ生きるのか』を、思いついたんですね?」
『生命であるといいう点で、全ての生命は等しい存在である』と言ったということは、そういうことなのでは、と。わたしは問いました。
しかしお姉さんは微妙そうな顔をして首を横に振ります。
「いや、まぁそうなんだけど、そうじゃないというか……。いい? もう一度言うけど、『生き物は全て、同じ生命である』っていうのを頭に入れて、これからの話を聞いてね」
「はい」
「お嬢ちゃん。貴女と私は、全く違う存在よ」
「……えっと、まぁ、そうですよね」
さっきと言っていたことは真逆ではあるけれど、普通に考えたらそうです。むしろ今までの考え方が『生命であるか否か』とかいう冷静に考えたら頭おかしいんじゃないのっていうぐらい突拍子もない基準でしたから。
わたしとお姉さんの感性が全く同じだなんて狂気じみた話、あり得ません。
お兄ちゃんが言っていました。『今までに産まれてきた人類全員の脳みその形が寸分の狂いもなく全部一致している、ってわけじゃないんだから、やっぱり産まれついての性格ってあると思う』と。
「勿論、トカゲと私も違う存在よ」
種が違う。形が違う。
つまりは、そういう話です。
「皆、違う存在なの。だから、『生きる意味』は人それぞれ違うのよ」
「…………」
また、『人それぞれ』って。
とりあえずそれを言っておけばよく分からない事でもいい具合に誤魔化せるからって、よく使われる言葉です。
だから、わたしはその言葉が嫌い。
でも、お姉さんなら、他の人よりももっとしっかりとした根拠を示してから言ってくれるかもしれません。
「でも、お姉さん。『生きる意味なんて無い』って、言いませんでした?」
「ええ、言ったわ。でも、『産まれついてのものは』とも言ったはずよ」
なるほど。ようやく話の筋が見えてきた気がしますね。
「つまり、『生きる意味』は、『生きていたらいつか見つかるもの』ってことですか?」
「
産まれた瞬間は、あのお兄ちゃんが言った理論通り、『生きる意味』なんてないんです。でも、生きて時間が経つにつれて、いずれ見つかるものなのだと。
「本来は──『本来』っていうのがどんな状況かって話は置いといて、本来は、やっぱり『生きる意味』なんてないんだと思うわ」
生き物は、偶然産まれたものだから。
「でも、人間はそれに耐えきる事が出来なかったのよ」
それは、きっと考える力が大きすぎたからでしょう。
だからこそ人間は、宗教とか神様とかっていう存在を創り上げた。
他の生物がどう考えているかは、人間には分からない事ですけど。
いえ、他の生物には、そんなことを考える余裕は無いのかもしれません。人間だけです、宇宙に行くほど暇な生き物は。
「耐えきれなかったから──だから、無意識のうちにでも『生きる意味』を探すのよ」
耐えきれなかった。
それはきっと、考えることができる事の弱さなのでしょう。
だから、創った。神を。宗教を。
『生きる意味』という、本来ならば存在しない概念を──創ったのでしょう。
「無意識のうちに、ですか?」
「例えば、『日々の楽しみ』とかも『生きる意味』に充分なり得るでしょう」
「おお、なるほど……」
確かに。『コレのために/コレがあるから生きているんだ!』という意味では、『日々の楽しみ』も『生きる意味』になりますね。
「だから、貴女に『生きる意味なんてどこにもない』って言った人も、無意識のうちにそれを探しているんじゃないかしら」
お姉さんはそう言いました。
しかし、あのお兄ちゃんに限っては、それは違うと思います。あの人は、あれで完結している人です。きっと全部、『産まれてきたから』と言って片付けるでしょう。
あるいは、そうすることで考えないようにしているのかもしれません。
人はそれに、耐えきれないから。
「…………」
「どうかした?」
「いえ、なんでも」
まぁそれはともかく、『生きる意味』が『日々を豊かに過ごす』という事に直結するなら、話は早いですね。
「じゃあ、『生きる意味』なんて自分で決めるものなんですね……」
「ま、そうなるわね。……貴女の『生きる意味』は、何?」
「…………」
わたしの、
「……………………」
意味は、
「……周りの人が楽しそうに笑ってたら、それでいいです」
その答えに、お姉さんは微笑んで、
「そう。なら、それが今、貴女のするべきことよ。人生の全てを投げうってでもそれをしなければならないの」
そう、言います。
「なんか、曖昧ですね」
「そりゃそうよ。だって、本来なら存在しないものなのよ? それを私達が勝手に決めにかかってるんだから、支離滅裂で曖昧なものになるのが普通なのよ」
コレが私の生きる意味だ、って豪語する人はそうはいないでしょう、と、お姉さんは言いました。
「ま、もし迷いなく『これが生きる意味だ』って言える人がいたら、その人はきっと幸せな人なんじゃないかしら」
「宗教家とかは、いい例かもしれませんね」
「あ、確かにそうよね。宗教なんてその為にあるわけだし。あの人達はそれだけで生きていて、もはや『これが幸せだ! 使命だ!』って勝手に定義しちゃってるからね。ま、私は無神論者なんだけどサ」
「奇遇ですね。わたしも神様なんて胡散臭いモノは信じちゃいません」
もちろん運命も信じてはいません。無神論者ゆえに。
ともかく、これで説明は終わったかしら、と言うお姉さん。
これでようやくわたしが求めたものが手に入った気がします。
『生きる意味』は、本来は存在しないもの。でもそれでは耐えれないから、人間が勝手に『生きる意味』を創るんです。
「……んー、なんか、結構ありきたりな感じじゃないですか?」
『生きる意味は人それぞれ』とか、『自分で決めるものだ』とか。
冷静に考えれば、そこら中にあるような話では……?
「あら、当たり前でしょう。私達が考えつくようなこと、今までに何人もの天才が先に頭の中に思い描いたでしょうよ」
確かに、そうですよね。
「ソクラなんとかって人とか、ロジャーなんとかって人もいることですし」
「ソクラテスは『無知の知』を言った人で、ロジャー・ベーコンは哲学者でもあるけど一応司祭だから、こんな神に逆らうようなことは考えなかったんじゃないかな」
「そんなことはどうでもいいのです」
「そ、そう……?」
そうなんです。
「ねぇ、お姉さん。お姉さんの『生きる意味』は、何ですか?」
「あ、え、と……、わ、私?」
「はい。わたしだけ言うのは、お姉さん、ずるいですよ」
「わ、たし、は……」
「……? どうか、しましたか?」
お姉さんは、急に黙り込んでしまいました。
今までの饒舌さはどこへやら、柵の向こうのお姉さんの顔は、一番最初に見た、くしゃっと歪んだものです。
そして、震えた声が。
「……例えば、の話よ、これは。例えば、その『生きる意味』が、見つからない人がいたら……、どうなのかしら……?」
「……『生きる意味』が、見つからない?」
それは……。
あのお兄ちゃんのように割り切ることもできずに、延々とない筈のものを探しているということ。
「何をしても、誰と話しても、何も感じないのよ……」
お姉さんは最初、『生きる意味ってなんだろうね』と言いました。
「いい? これは例え話……。例え話だから……」
そこで、一呼吸。
「その人は、『もう生きていたくない』と、思うのではないかしら……?」
それは、重い言葉。
『もう生きていたくない』は、重い。『死にたい』よりも、わたしは重いと感じる言葉です。
死にたくは、ないのだから。
わたしは……、どうすればいいのでしょう。
向こう側の彼女に、何と声をかければいいのでしょう。
『生きていたくない』と、悲鳴をあげる彼女に。
「ごめんね? こんなこと言って。忘れていいわよ。そもそも、今まで喋ってたことも、冷静になれば貴女のような幼い娘に聞かす話じゃ──」
「そ、れは……、それは、嘘です。『生きていたくない』と思う人は……、いません」
それ以上を、言わせてはいけない。
わたしが、何かを、言わなければ。
わたしは、必死。
「……そう。いえ、貴女にもいずれ分かるわ」
「いえ、そうでは、なく。いるのは、『ここで生きていたくない』と思う人……です」
わたしは、怖いお兄ちゃんの話を聞いて、柵の向こうのお姉さんを見て、思いました。
「……ここで、って?」
「はい。その人はきっと……、いい人に囲まれていないだけなのです」
人ではなく、環境ともいえるかもしれません。
無いはずの頭を必死に巡らせて、言葉を紡ぎます。
柵の向こうの──向こう側の彼女にわたしができるのは、これくらいだから。
「だっ、だからっ、その人が、いい人がいる所に行けば……、きっとその人も生きていたいと思うはずです」
人は、生きていくうえで人との関わりを避けては通れません。
だから、それが変わるだけでも、きっと大きすぎるほどの変化です。
そんな大きな変化なら、『生きる意味』くらい……、『生きるうえで何をしたいか』くらい、でえきるはず。
「いい人の所に、行く……」
「はい。頑張って、いい人の所に」
「じゃあ、本当にできるところまでやって、駄目だったら?」
「駄目だったら……」
生きていたくないことから、逃げられなかったら。
「……それは……、分かんないです。で、でも、こうするのが一番だと、わたしは思います」
「……そう。そうするのが、一番なのね……」
「きっと」
日曜日の朝に戦うヒーロー達がよく言うやつです。
「諦めるのは、まだ早いですよ」
諦めてたまるか、って。そういうもんです。
本当に『諦めてもいい時』なんて、ないんだと思います。あるのは、『諦めたくなった時』だけ。仮にそれ以外があるとすれば、『諦めるべき時』でしょう。
そして、『諦めるべき時』がきた時、どうすればいいのか。それは……、考え続けなくちゃいけません。
「やれやれ、勝手なこと言っちゃって……。もしその話の人がギリギリまで頑張った人だったらどうするの?」
「あっ、そうでした……。で、でも……」
「お嬢ちゃん。大丈夫よ」
そう言ってお姉さんはニッコリと笑いました。
「大丈夫よ、私は。まだ、私にはやることがあるわ。それに、貴女が言ったことなら……、不思議と、信じられる」
あれだけ語り合ったからかしらね?と、お姉さんは言いました。
「……そうですか」
お姉さんは、もう大丈夫ですか。
よかった。
「少し……、一人にさせてくれないかしら……」
「……はい」
「気をつけてね。ここら辺、貴女くらいの女の子が二十三年前に交通事故で亡くなってるのよ。ま、それが、私がお腹の中にいる頃の話でね、私のお姉さんなんだけど」
だから昔の話なのに知ってるの、と言います。
それにわたしは何と返していいか分からず、微妙な顔をしてしまいます。
「そ、そうなんですか……」
「そんな気まずそうにしないで。会ったこともない姉だしね」
それからお姉さんは小さな声で、会ってみたかったけど、と、続けました。
「それでは、気をつけます」
「ええ、またね」
はい、さようなら。お元気で。
わたしは、お姉さんにお別れを言いました。
橋を渡りきって後ろを振り向くと、お姉さんの影は柵のこちら側、橋の向こう側にありました。どうやら、本当に大丈夫そうです。
ここまで歩いて、お姉さんはわたしが何もしなくても大丈夫だったのではないかと思いました。
なんたって、『生きる意味』をあそこまで考えた人です。
わたしは、本当はお姉さんはわたしが訊く前から『生きる意味』をすでに考えついていたのではないかと思うのです。
あんなに饒舌に説明してくれましたし。
最初、『分からない』と言ったのは、お姉さんが自分だけの『生きる意味』をまだ見つけてなかったからなのではないかと。
そんなお姉さんです。
大丈夫に決まってます。
歩き続けたわたしは、霧が漂う立派な門に閉ざされた和風の大きな家を見つけました。
その家の縁側に、少しシワが目立ってきた男の人がポツンと座っています。
「おはようございます」
声をかけると、彼は少し驚いた顔でこちらに向いたあと、柔らかく笑いました。
「ん? どうしたんだい? ……こっちへ、おいで」
「いえ、少し訊ねたい事があるだけなので、ここでいいですよ。わたし、今、『生きる意味』を探してるんです」
本当は既に見つけているけれど。
この人の『生きる意味』を聞いたら、帰るとしましょう。
「……そうか。『生きる意味』か」
「どうかしましたか?」
彼は、どこか遠くを見ながらその言葉を呟きました。
「どうしてか……。僕は……」
そこまで言うと、彼は口を閉じてしまいます。
「すまない……。僕にはその質問は難しすぎたよ」
彼は力なく笑いました。
「ないのですか? 『生きる意味』が」
「……そうだねぇ……」
「いいえ、それは違うと思います」
しかしわたしは、強く否定をします。
否定を、しないといけません。
「貴方には、必ずあります。どこかに、確実に。さっきわたしは、『産まれたこと』が『生きる理由』だっていう人を見つけました。その人は『生きる意味はない』って言いながら、その“理由”だけを胸に生きていました」
あの人は、『生きる意味』がどれほど曖昧で、不確かなものかを知っていました。だからこそ、“意味”ではなく、“理由”を選んだのです。
「そのあと、『やることがある』と言って生きようとする人と会いました」
あの人は、賢い人でした。だからこそ、色んなことに気づいてしまって、躓いてしまう。転び続けて、疲れたでしょう。でも、それでも歩みを止めなかった。
「生きていると……、辛いことばかりですよね」
生きていると、誰かとかかわらずにはいられません。誰かが死ぬのは、辛いです。胸が痛くて、空っぽになって、その事しか考えれなくなります。
でも、それではダメなのです。
「辛かったことは、忘れてはなりません。でも、同時に、やらねばならない事も忘れてはなりません」
この世の誰しもが、生きる上で必ずやらねばならぬことがあります。食べること、寝ることは勿論、笑ったり、泣いたりも。それらを中途半端に終わらせるのは、きっといいことではありません。
なら、その為に生きることだって、きっと。
「貴方の『生きる意味』は、何ですか?」
もう一度、よく思い返してほしい。
わたしの言葉に、貴方は。
「……とりあえず、近くに来なよ」
「いえ、わたしは──」
「分かってる! 分かってるから……」
「…………」
「分からないわけ、ないだろう? ……だから、こっちに、おいで」
その懇願に、わたしは大きな門をすり抜け、彼の近くに行きました。
隣に座ったわたしの頭を、彼は優しく撫でました。
「マヤがね、病気で……」
「……そう、ですか」
それには、何も、言わない。何も、言えない。
「……僕には、双子の息子と娘がいるんだ。どっちも働いててね、仕事場までこの家から通ってるんだ。僕の事が心配らしい」
「……」
「息子はね、髪をキンッキンに染め上げてるんだけどね、郵便局で働いてるんだよ。なかなかサバサバした性格でね、友達が多いんだ。楽しそうに暮らしてるよ」
「…………」
「
「………………」
「自慢の子供達さ」
「……………………」
「でもね──」
彼はここで、一度息をしました。
そして、わたしの瞳を見つめて。
「もう一人、僕には可愛くて仕方のない、自慢したくて仕方のない
「──いた、ではなくて?」
「いるんだよ。少なくとも今、この瞬間は──」
……ならば、そうなのでしょう。
「二人の姉さ。とても賢くて、優しい《こ》娘。二人がマヤのお腹の中にいるときは、毎晩寝る前にマヤのお腹に抱き着いて『おやすみ』って言うんだ。それが、可愛くて、可愛くて……」
でも、
「二人が産まれる前に、交通事故で……」
車に
「今日は、その子の……カスミの、命日だ」
死んだ。
「…………」
「…………」
「何も、言わないのですか?」
「うん。もう、仕方のない事だから……」
それは、諦めではない。
そうするより他に無いのだと、ただそれだけの事。
「僕は……、『生きる意味』なんて、分からないよ……。でもね、僕には、家族がいるから……、今、とっても幸せ、なんだよ」
「……そ、うで、すか」
よかった……。
貴方が、幸せなら。それより他に何もない。
でも、幸せなら……、
「幸せだよ……。僕は、今、幸せだから……」
目が、胸が、
「カスミは、マヤは、隣にいないけど……それでも、ここにいるから」
頬に、熱いものが、
「幸せ、ならぁ……」
伝う、伝う。
「泣か、ないでよ……」
伝って、落ちる。
「だって、カスミが……マヤが……」
落ちて、砕けて、
「いないんだよ……。隣に、君達がいないんだ……」
解けて、消えてく。
ここにいるだけじゃ嫌だ、と言いながら。
それを眺めながら、彼は口を開いた。
「きっと君達は、僕が不幸になるのだけは望まないから……」
「うん……」
「カスミは、そのために来たんだろ? だから僕はね、マヤも、ここにいると思うんだ」
彼は、わたしの肩を抱いて、言います。
その声は、まるで『そうであってくれ』と懇願しているようで。
「それは……」
「無くは、ないだろ? だって、カスミがここにいるんだ。それくらい、考えさせてくれよ」
勘違いでも、いいからさ、と、お父さんはそう続けました。
「……これで、最後なんだろ?」
そう。
最初で、最後。
「だから僕は言わなくちゃいけないんだよ」
「わたしも、それが言いたくて来たんだよ」
息を、吸う。
「僕は、自慢の家族に囲まれて──」
「わたしは、自慢の家族に囲まれて──」
「──とっても、幸せだよ」
「とっても、幸せだったよ──」
『とっても、幸せでした──』
気のせい、だろうか。そこには、お母さんの声も聞こえた気がした。
涙は止まらない。
これは、奇跡なのかもしれない。
わたしがここにいるなんて、お母さんがここにいるなんて。
ありえないんだ、本当は。
でも、ありえない事が起こっている、今、ここでなら、あるいは──
もしわたしの涙が、アナタの心を潤していたら、どれだけ嬉しい事だろう。
わたしの涙が、アナタの心に沁み渡ることが、どれだけ誇らしい事だろう。
アナタの心の霧を、わたしの涙として流すことができたなら、どれだけ勇気づけられることだろう。
もしそうなら、わたしはアナタの役に立てたのだと自信を持って、逝くことができる。
「……ゆっくりお休み、カスミ、マヤ──」
アナタは、暖かく、わたしを包み込んだ──
朝霧の町 aninoi @akimasa894
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます