第14話

 黒影は、さえずりの雫の社長と対峙していた。

 和室風の部屋だ。夜明け前の黒々とした夜の帳があり、涼しげな風が風鈴を揺らす。

 さえずりの雫代表取締役社長、橋本楓。43歳。

 世間では、青年実業家として持て囃された。事実、他に類を見ない速度で、自分の会社を大きくした。結果は残した――と自伝にはある。


   ☆


 橋本楓。歯に衣着せぬその発言にファンも多い。

 生まれは大阪府のN市。それはもう、貧乏な家庭に生まれついたらしい――自伝曰く。

 物心ついたときには既に父の姿はなく、母と二人で小さな定食屋を切り盛りしていた。小学校低学年の頃には既に包丁を握っていたという。

 母と子。二人で店を切り盛りしていたがいかんせんギャンブル狂だった父の残した借金は大きく、とても真っ当な働き方では返せなかったという。

 しかし幼い少女楓は、それを正攻法で返済しようと試みていた。八桁に届く借金を返さんと、昼時と夕飯時以外は別の仕事をしていたという。新聞配達だとか、内職だとか。真っ当な仕事だ。

 思い返すと――と自伝が述べる。

『天は人の上に人を作らず――とは言えども、人の上に人はいる』ということをこのとき橋本は学んだらしい。

 そこから橋本は最低限生活が出来る程度の仕事だけを残して、あとは学問に――正確には学歴を付ける作業に注力。見事東京大学へと入学を果たした。

 自伝では述べられていないが、大学時代はその美貌を活かして個人として荒稼ぎ。バブル期の絶頂の中、借金を一回生の早々で返済し終えた後は、湯水のように金を使って自身のブランド化に成功。黒い噂も絶えないが、取り巻きも多かった。

 卒業後は大手外食企業に就職。

 黒影の同僚「裏の業務改善委員会」情報部、服部によると、

「当時の社長とずぶずぶ。お互いのケツの皺の数まで知っている」

との調査結果。

 その女社長からの引っ張り上げもあり、二十代後半で役職付きに。

 そこからが怒涛の勢いだった。

 人を人とも思わぬ使い方でのし上る。会社の業績も上がる。

 最初の犠牲者は、東京都某市の店長。月400時間労働の末に、自殺。もちろん職務との因果関係は立証されない。

 次の犠牲者は、埼玉県某市の女子大生アルバイト。これを落とせば留年、という日の期末試験日にも店舗に拘束。苦慮して自殺。これももちろん業務との因果関係は立証されない。

 両手両足の指に余るほどの事件が起きたのち、有志で構成された労働組合が社長室に直訴――したまでは情報に強い企業の、一部の人間なら知っているかもしれない。しかし、その後の彼らの足取りは不明とされている。


「俺はもう東京湾の魚を食べる気はしないね――」というのは、やはり情報部服部の弁。


   ☆


「私の生い立ちは――ご存知でしょうね」

 橋本が黒影に問う。

 闖入者である黒影は遂にこの社長室にまで到達していた。

 部下から連絡はあった。しかし、それ以前に今日ここに黒影が来ることは認識していた。

 怪文書による再三の警告。最後には日時を指定して、ご丁寧に封書を送り付けてきた。目を通し、即座にライターで燃やした。

 裏の業務改善委員会――この界隈でその名を知らない者はない。一国一城の主なら況やだ。

 築き上げた財を極めて暴力的な手段に訴えて破壊してくる。こちらの若干の負い目があるのを利用して、姑息な手段で攻撃を加える。

 紛れもなく「悪」の軍団だった。そう言わざるを得ない。

「無論――知っている」

 10メートルの距離を隔てた黒影が答える。頭巾を被っているので、橋本からは表情が読み取れない。

 私を――いや、我々を憎んでいるのだろうか。

「知っていて、どうと言うのか」と黒影が続けた。

「対話を根幹とした交渉が成立するのかと思いまして」

 椅子に座ったまま橋本が答える。右手は机の裏、いつでも銃を手に取れる姿勢ではある。

 最後に銃を使ったのはいつだっただろうか。脅しの道具としては、時折使うこともある。この社長室が血に染まったのは――おととしの労使交渉が最後だ。


   ☆


 今の黒影がいるあたりに、労働者側の代表が座っていた。

 こちらには、腕っぷしの強い警備員がずらりと並んでいた。対するは、ひ弱な労働者。もちろん扉の向こうに数が揃っていたが、扉は一人ずつ入るものだ。戦国時代の城の構造よろしく、集団対一の構造は絶対に崩さない。橋本が恐れるのは、数の暴力だけだ。

「待遇を――待遇を改善してくれ」

 消え入りそうな声で、小金井西店の店長が訴える。

 小金井西店店長、香西良太――駒宮大学卒。新卒で入社して、今年で三年目。大学では体育会ボート部に所属し、全国ベスト8。入社理由は……と、橋本の頭の中には全従業員の経歴と特徴がインプットされている。

 別段経営者として珍しい素質とは思わない。才能だけでこういうことを為しているわけではなく、一人一人の情報を読み込み、都度報告を受けアップデートした上で記憶しているのだ。中学校の校長先生が生徒一人ひとりの名前を憶えていることの延長に等しい、と橋本は考えている。

 その香西が、

「まずは増員からお願いします。ウチの店舗だけとは言いません。多くの店舗で同じような事象が起きているんです。これはもう業務の改善云々でどうにか出来る段階を越えていて――」

 すう、と息を吸い

「それが、どうした!」と橋本が一喝。「そんなこと、私に関係あるのか!」

 そこから橋本の連撃。

――曰く、お客様の幸せを第一に考えろ。

――曰く、私はそんな働き方は推奨していない。

――曰く、嫌なら辞めればいい。代わりはいる。

 その旨の発言を、繰り返し、繰り返し語った。

「そうは言われても現実問題――、」

「そんなことは問題にしていない! ただお客様の満足だけ考えていればいいのよ! そのためには私の意図するように動ける人材が必要なのよ!」と香西の反論にまた橋本が一喝。「組織の末端までその意図を伝えるのがどれだけ難しいことか、あなたには分かって?」

 橋本が吐き捨てる。

 スーツをぼろぼろにした香西が、拳をわなと震えさせる。

「あんたの――あんたの私腹を肥やすために、俺たちは働いているんじゃない!」

 逆鱗に触れた。

 橋本が左手で香西の胸倉を掴む。こんな細腕で――と香西が思った瞬間、みぞおちに重い一撃。

 呻く香西。床に這いつくばったところを、再び右足で、今度はサッカーボールよろしく側頭部を躊躇なく蹴り飛ばす。

 そこからは地獄絵図。一方的なリンチに近い。

「誰が私腹を肥やしているんだよ――言ってみろよオラァ!」と叫びながら、這いつくばる香西を橋本が殴る。蹴る。踏む。

 白い床に赤いものが混じり、それが少し固まり始めたころ、明らかに戦意を喪失した香西に、

「もう一度訂正のチャンスをあげるわ」と冷ややかに一言。

 涼し気な横顔は、四十を超えてなお美人の部類に入るのではないだろうか。表情を消したその顔が凛としている。見る者に信念を感じさせる、そんな横顔。

「私腹を――肥やしているって?」凄みが出る。続けて、「それは誰の事?」

 呻くだけの香西の顎を蹴る。

「そ、それは――」

「それは?」

 香西が力を絞る。紫に変色した指先がゆっくりと動き、

「それは、はしm――」


 橋本楓が銃を使ったのは、それが最後になる。


   ☆


 橋本が前回銃を使ったそのときと、今回は状況がいくつか違う。

 まず、屈強な警備員が両脇を固めていたが――今回はもういない。

 もう、というのは黒影が一掃したからだ。

 派手にビルを叩き壊しながら上層階へ移動してきた黒影を、社長室で迎え撃とうとしたのは橋本の警備を統括する藤堂だった。

 事前の予告で単独での侵入を明示していた黒影であったが、それを素直に信用する藤堂ではなかった。闇から闇を渡り歩いてきた藤堂。実戦経験は一般企業の従業員にしては異様なものを持っている。抜かりはない――はずだった。

 監視カメラから得られた情報では、単独での侵入であることは間違いなかった。黒影が七階から侵入したのは予想外だったが、そこから情報を収集した結果、やはり単独であると結論できた。

 ならばと階下に控える部下に鎮圧を命じる。

 初めの見込みでは、この21階に奴を迎える前に無力化できるだろうと予想していた。確かに部下にはチンピラ上がりが多かったのも事実だったが、火器を携帯させていた。藤堂のミスがあったとしたら、生け捕りにしろと命じたことだろう。もっとも、生死は問わないと言えば橋本の「待った」がかかっただろうが。

 黒影がビル外部から窓を蹴破って七階に侵入すると、全館に警報が鳴った。7階に控えていた警備員が急行するが、時間を稼ぐこともできず難なく無力化される。

 これは藤堂もある程度予想していた。しかし、15階――階段が一度途切れるフロアだ――では黒影を止められると予想していた。

 黒影が15階の扉を開ける。警備部部長の永池は扉が開いた瞬間にゴム弾を闖入者に叩き込むつもりだった。淡い光が漏れた瞬間に「撃て!」と四人の部下に命じた。

 が、黒影はいない。代わりに投げ込まれたグレネードがフロアの中央で「伏せ、」と永池が言う間もなく爆ぜる。

 一瞬で視界を奪われた永池以下五人はゴム弾を叩き込まれ、あっさりと無力化される。


 結局藤堂自身が社長室で黒影を迎えるしかなかった。

 事前予告の「橋本楓との対話を要求する」を丸のみしたわけではなかったが、ビル全体がグレネードで大きく揺れた際に、

「もういい。奴を呼べ」

と橋本が言ったことを忠実に実行するしかなかった。

 そして社長室に橋本を迎える。

 コンコンとノックが鳴り、

「入れ!」

 藤堂が声を荒げる。

「失礼します」と音もなく黒影が、文字通り影のように部屋に入り込み、左目に藤堂を捉えると間髪空けずにゴム弾を藤堂の脳天にねじ込んだ。

 藤堂が次に聞いた音は、救急隊員の呼びかけ。

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