第9話
来たな、とガードマンの山森は勘づいた。
ガサガサという音のせいではない。なんとなく、気配でわかるのだ。
この山森重信、そこいらのアルバイト・ガードマンとは一味違うぜ――という自負はあり、またその功績も認められていた。
18で高校を出て以来、ガードマン一筋20年。つぶしが利かなくなると言われつつ、続けに続けたこの稼業。するとどうだろう、なんとまわりに競合はおらず、気づけば地域の総番格にのし上っていた。
地位も人を押し上げる一つの要因になるようで、地域の同業者の間でも一目置かれるようになって以降、山森はより一層職務に邁進するようになった。
今では、一部若い衆の間では煙たがられてはいるものの――一応は、尊敬される存在へと昇華していった。
そうした立場にあっても、山森は現場主義であり、今でもこうして最前線の場に立っていた。
一昔前は日本のガードマンというものは、ただ立っていればいい、とさえ言われたような職場であったが、昨今急に風向きが変わってきた。
言うまでもなく、「忍者」のヤツらのせいである。世直しだか何だか知らないが、ガードマンの面々にとっては絶対的に悪、と言える存在だ。奴らに襲われて病院送りになった仲間も数知れない。
もっとも、この山森には無縁の話かもしれなかった。今年に限っても、忍者風の賊を数回にわたり警察に突き出している。
つまるところ、山森は対忍者先頭のエキスパートと言えた。
その数回の事例で、山森は警備員として引っ張りだこの存在になった。メディア露出こそすることはないが、取材の依頼は山と来ていた。
しかし、山森はその全てを断っていた。
なぜか、と問えば撃退した忍者共に、本質を感じていなかったのである。
山森自身、忍者を撃退する際に違和感は合った。自分が面倒を見ていた若い衆が、こんなに貧弱な奴らにやられたのか、と。
更に、山森が撃退してきた忍者のほとんどは、銀行で警備を行っていた際のものだという点も違和感があった。情報が完全に開示されているわけではないが、忍者が銀行の実に出没するという話は聞かない。むしろ、研究所や大手のチェーン店などに出没事の方が多いとすら聞く。
――もしや、俺が倒していたのは愉快犯なのではないか――
山森はそう感じていた。そう感じていたからこそ、この仕事を引き受けたのだった。
さえずりの雫、七山支店――。そこが今日の決戦の場であった。
さえずりの雫については、山森は特段詳しい訳ではない。ただ、前々から悪い噂があるのは知っていた。
オーナーが奴隷のごとく鞭打って、従業員をコキつかっていると。目もくらむような安さや、煌々と常夜輝き続ける看板は、バイトの血を動力源に動いているのだと。
山森にも正義感はある。それが事実ならば看過できないと思う。もし自分の娘が――と思うと、いてもたってもいられないかもしれない。
ただ、それとこれとは別の話だ。
山森にも家族がいる。愛する家族のため、任務を全うするのが自分の役目だと思っていた。
山森は、いつしか自分を傭兵になぞらえていた。イデオロギー――なんて格好つけた言葉で飾る気はないが、自分は自分の役割を果たすのみである。
それもまた正義なのではないか、と山森は思っていた。
そうした中で、賊の気配を山森は鋭敏に感じ取ったのだ。
果たして、賊は正面からやってきた。水曜の深夜3時。街の中心部から、少し外れた場所に、そんな時間に人が来ることはほぼない。
山森が先制攻撃することはない。なぜなら、彼は一介の警備員に過ぎない。自衛隊さながらの専守防衛が義務づけられている。
つまり、状況としては賊が圧倒的に有利であった。古今東西、ケンカは先制攻撃が出来る方が圧倒に有利だ。
しかし、山森がおびえることは無い。修羅場を幾度となく乗り越えてきた。そしてその全てにおいて、彼は敵に先制を許していた。
だから彼は優秀なガードマンでいられたのであった。
――しかし、今夜は彼が先んじて攻めに回った、最初で最後の日になった。
賊は、やはり堂々と正面から山森に向かってきた。いや、正確には店の正面玄関に堂々と入ろうとしていたのである。
さりとて大きくもない飲み屋の一店舗に、あまりにも不釣り合いなガードマンであったが、それを悠々と無視して突入しようとしたのだ。
「お客さん、ちょっと」山森が、目線のみを動かして言った。「もう閉店なんでね。ちょっとご遠慮していただけませんかね」
賊は一瞬山森に目を向けたが、歩調を緩めることなく扉に向かい、ドアを開けようとした。
当然開かない。
「お客さん」山森は賊に再度呼びかける。「申し訳ない。これ以上ガタガタされると、近所迷惑になるんですよ。どうか、お引き取り願えませんかね」
賊はくるりと振り向き、初めて言葉を発した。
「断る、と言ったら?」
ギンとした殺気が両者の間で迸る。
お互いが一瞬でお互いの力量を察し、どちらともなく、抜かりのない体制に入る。
山森は冷静に相手を見つめていた。
――身長がおよそ190、体重はわからないが、黒装束の上からでも堂々とした体躯であることはよくわかった。分かり易い武器を持ち歩いているわけではないが、全身からのほとばしる殺気に威圧されそうだった。
――これは、相当の手練れだな――
思わず怯むのを、強靭な精神で答えた。
ただ、山森は判断を間違えたのかもしれない。
「お引き取り願えないなら――」
山森が距離を一歩広げる。勢いをつけるためだ。「こうするまでよ!」
山森が「じゃこん」と手元の特殊警棒を伸ばした。
掛け声はかけない。なぜなら山森はガードマンだから。闇夜に現れた珍客を、闇夜に返す。これが山森の仕事だった。
小さなモーションで、忍者の腕を狙う。何故頭を狙わないかと言えば、相手を慮ってという意味が大きい。一般に、身体の一部が潰されると、敵の戦意は失われると山森は経験から理解していた。
猛烈なスイングが賊を捉えた、と思った瞬間に強烈な音が響いた。金属と金属が激しくぶつかるときの、あの音だ。
山森の一撃を左腕で受けた――防具が仕込まれているのだろう――賊が、ニヤリと笑ったような気がした。実際にはそんなことはなかったのだが、余裕を既になくしていた山森の目にはそう映った。
結局山森は威圧されていたのだ。
先制攻撃が失敗したことを自覚した山森が次に打つべき手段は、連撃か、それとも防御か、の二択。
一瞬の判断の後、結果として山森は防御を選ぶより他なかった。忍者の空いた右手が素早く動いたからだ。
来る――と思った瞬間には右肩を斬撃が掠めていた。かろうじてバック・ステップで距離をとる。
山森の呼吸は荒かった。賊の一連の動作に無駄がなかったから、そして実力差にうっすら気づいてしまったから。ガードマンとして、負けを認めるわけにはいかなかったが、動物的本能が、賊の危険さを山森に知らせていた。
気づけば、二人は完全に路上に出ていた。向かい合うその距離、5メートル。
「もし、良ければ入店を許可してはくれないだろうか」
緊迫感の中、賊がそう呼び掛けた。
「断る」
当然、山森はそう返した。
「そう言われるだろうという予測はあったが――一応声はかけた。次は容赦しない」
「馬鹿にするのも大概にしろ!」
煽りにも聞こえる忍者の返答に、山森が叫ぶ。
一方の忍者は――あまりにも冷静だった。淡々と、
「相まみえて、実力差はあなたも認識したことだろう。はっきり言って、あなたは我々の敵ではない。ガードマンの中では腕が立つことは、確かに間違いない。しかし、我々が普段争っているのはそういう次元ではないのである」
「何をがたがたと。そういうことは、勝負にケリがついてから言うものだ!」
そう言ったものの、実力差が明白なことは山森にも分かっていた。しかし、改めて対する敵から言われると、やはりそうか――と思う。
しかし、山森は虚勢を張らなければいけなかった。なぜならば、彼は傭兵であり、そして守るべきものがあるからだ。
あくまで任務に忠実なガードマン。それが彼の世間評価であり、それに忠実であることこそが彼の存在証明であったと言わざるを得ない。
「私は無益な殺生はしない」
「嘘を言うな! 貴様のような黒装束が、ガードマンを卑怯にも叩きのめしたあと、金品を根こそぎ奪う事件などは吐いて捨てるほどあるだろう!」
「――それは私ではない」
「あくまで白を切るつもりか、ならば……」
山森は地面をじりと踏み込む。この一撃にかけるより他ないと感じていた。
勝機は一瞬――いや、その一瞬すら許されないだろう。
あの一瞬の邂逅で、山森はそこまで賊の実力を高く評価していたのかと、自分でも驚いていた。
「一つ聞いていいか」
「なんなりと」
賊は変わらず淡々と答える。腹立たしいが、どうしようもない実力差がある以上、それも仕方のないことともはや思う。
「それほどまでの実力、なぜ悪の為に用いるのだ」
今度は明らかに賊が笑った。
「では逆に問おう――なぜ私が悪だとあなたは断言できるのか」
「夜な夜な銀行やらオフィスやらを破壊し、金品さえ奪う貴様が悪でなくて誰が悪だというのか」
「だから金品を奪うのは私ではないというのに」賊はふうと息をつき、とうとうと説明を始める。
「いいか、何事にも理由があるものだ。例えば、お前が守るその店。いったい何のために守っている」
「それはもちろん――雇い主にそう命じられたからに他ならない」
「そうだ。それが理由だ。ではなぜ雇い主はその店を守ろうとしているのか」
「愚問だな。自分の財産を守ろうとして何が悪い」
「ではその財産を守ることは、果たして正義なのか」
「一体何が言いたい」矢継ぎ早に質問が飛んでくる状況に、山森はいらだっていた。「率直に言えばどうだ」
「では率直に言わせてもらおう。嫌がる従業員に、経営者や雇い主だという立場を利用してコキ使った結果の財産を守ることが正義なのかと問うているのだ。私腹を肥やした結果の財産、守ろうとするのは一体どんな正義なのかと問うている」賊がやにわ凄み、
「お前も知らないわけはないだろう。ここの経営者のやり口を」
山森も当然把握していた。あまり考えないようにしてはいたが、過労死する者がでるのは当たり前。しかもその上、経営者は過労死の実態を決して認めようともしない。労基にも手が回っているのか、裁判を起こしても被害者が勝てたという話は一切聞かない。
賊が言う私腹を肥やした、というのは冗談ではなく本当の話なのである。
――しかし、
「それと貴様がこの店に侵入するということの関係が結び付かない」と反論する。「義賊気取りか」
「答えてやろう。いいか、私がこの店に侵入するのは別段金品が欲しいワケではない。そんなものが欲しいなら、こんな場末の飲み屋ではなく銀行を狙っている」
山森は、自分が叩きのめした賊が銀行に集中していたことを思い出した。
「では、毎度紙面を騒がす銀行強盗はお仲間ではないと」
「あんな思想のない奴らと一緒くたにされるとは、心外だな」
賊の瞳が光ったような気がして、思わず山森は身構える。
「思想が行動を決定するのだ。奴らと我々とは全く行動原理が異なる」
「なるほど――それは済まなかった」山森は、もはや素直に頭を下げてしまった。忍者の言外の説得力がそう強いた。「して、貴様の行動原理は?」
「私の行動原理は――私の思想に他ならない。私の正義に反するものは、徹底排除する。それだけだ」
「ではお前の思想は何が決定する」
「私の思想は、私の正義が決定するのだ。正義が思想を決定し、思想が行動を決定する――一体それ以上の何があるというのか」
「そして貴様の正義に反するこの店を、破壊するという訳だ」
「破壊が目的ではない」
賊が一喝した――ように山森は感じたが、実際には声量は変わらなかった。やはり威圧されている。賊の殺気が山森に大きな錯覚を抱かせる。
「破壊が目的なら、貴様などとうに粉砕している。誰もこんな生ぬるいことはしない。私の目的は、社会への警告と是正、それによる人類全体の幸福である。貴様に伝えることではないかもしれないが、今回の目的は店の機能破壊とビラ撒きが目的だ」 そう言って、賊は殺気を全身に滾らせる。「いささかお喋りが過ぎたようだ。聞きたいことは、それだけか」
山森は戸惑った。自分が何を守っていたか分からなくなったかからだ。
自分が守るものは、賊の話を聞く限りと、自分の知識をかき集める限り、守る価値がないのかもしれない。一方で、自分は仕事を果たすしかない。しかし、仕事を果たしたからと言って、何になるのだろうか。
もし仮に、自分がこの賊を打ち倒したとしよう。そうすると、この店舗の平和は守れる。だが、それが一体何になるのだろうか。
そもそもこの店舗の平和とは何なのだろうか。従業員がコキ使われる環境があり、その状況をのうのうとのさばらせるのは果たして平和なのか。
そんな未来を守るために俺は戦っているのか。
――この時点で、山森は既に負けていたと言っても過言ではない。
その山森の葛藤を知ってか知らずか、賊が緊迫を破る。
「そろそろ良いか。人を巻き込むと、不味いのでな」
「いや、少し、少し待ってくれ」
勇む賊に、自分でも心底情けなく思うが「待った」をかけた。
賊は一瞬戸惑い、
「何に悩む。警備員」と山森に問う。
「戦いの理由を見失ってしまった。その一方で、俺は戦わなくてはいけない。いったいどうすればよいのか」
賊が声を立てて笑った。
「笑止千万。そんな状態で私と戦って何になるというのか」
「俺にとっては大きな問題だ。そんなこと、今まで考えたこともなかったのだから」
「一度もか」
「ああ、一度も。恥ずかしい限りだ」
ふむ、と賊が考え込む。山森も考える。
つかの間の静寂が二人を包む。
――ややあって、賊からこう切り出す。
「お前は正義についての定義があやふやなのだ。しかし、そんなことは関係ない――とお前を切り捨てるのは容易だが、そうすることはまた私の美学に反する。だから、お前にとって正義とはなにか、そしてそれについて考えた上で私を相まみえんことを望む」
「とすると、この勝負はしばし預かり、ということになるか」
「馬鹿も休み休み言え」と賊は一蹴した。「お前の正義を知るために、私の正義のための行動が妨げられることは許されない。そこで、どうだろうか。私が店内で作業を行っている間にお前は答えを探す。その程度の猶予は与えようと思うのだが、いかがだろうか」
そう聞いて、山森は私に船だと思った。本気で一瞬そう思ってしまった。
そしてそう思ったのち――あまりの自分の愚かさを呪った。
「そんなわけにいくか! 貴様、叩きのめしてくれる!」
激昂のまま賊に距離を詰める。もはや負けると分かっていても、戦わなくてはいけない、そういう状況に自分を追い込んでしまった。
右手の警棒で、今度は賊の脳天を狙った。もはや手加減無用。
上段から気合一千振り下ろす。
賊はそれを左手甲につけたクナイで受け止める。山森の体重の乗った渾身の一撃は、僅かに賊の態勢を崩した。
そのまま山森は連続で警棒を振る。その連撃に、賊が圧倒されているように――賊の防戦一方のように山森には映った。
ぐいと一閃、喉元を狙った一撃は命中することはなかったが、賊の態勢を大きく崩した。
そのわずかな隙を山森は見逃さない。懐に飛び込んで、思い切り膝を振り上げればジ・エンドだ。そう思った。
そうだ、死ぬ気でやり切ればできないことはない。そんな満足感の中、膝を振り上げる。これで終わりだ――。
そう思うや否や、山森の全身に電流が走った。
「ス、スタンガン……」
「そうだ。悪いがこうすることしかできなかった。本気で向かわれると、無力化するのは随分難しいものでな――」
遠ざかる意識の中、山森は賊が息を全く切らしていないことに気づいた。
――なんだ、やはり初めから勝負になっていなかったのか。
山森は膝からガクりと崩れ落ちる。
☆
防犯カメラに残った映像によると、賊はどうやってか開錠して、正面玄関から店舗に乗り込んでいた。
先ず、拳をふるって思い切りレジを破壊。小銭があたりに飛び散った。
その後はもうやりたい放題に、映像には映る。客席テーブルの二番を、五番、八番に駆け寄って何か細工したかと思うと、少し離れて手元を動かしたように見えた。
その瞬間、客席が爆発し、スプリンクラーが思い切り作動する。めらめらと燃える客席になぜか賊が消火器をぶん回して火を鎮めていた。
賊の必死の? 消火活動が報われたのか、火は消し止まったようだが、その後賊は、どこから取り出したのか、袋からばっさばっさとビラを撒き始めた。
袋からビラは無限に出てくるかのような錯覚を起こすほどに、それは店内を埋め尽くす。
ひとしきりビラを撒き終えると、賊は速やかに正面玄関から出て行った。結局、男が何かをとった形跡は見られなかった。
これが、無理を言って山森が見せてもらった防犯カメラの一部始終であった。
――なるほどな、と山森は思った。これがヤツの正義なのか、と思った。筋は通っている。
あれから一週間、山森は自宅待機、という形になっていた。賊に手ひどくやられたのが効いた、ということもあるが何より任務を全うできなかったことがやはり上層部の怒りを買ったらしい。
そうは言っても、流石にヤツは強かった――と思う。そんな実力を持ちながら何故、とも再び思った。
賊の言っていた言葉を思い返す。
賊は「正義の為に」と再三言っていた。正義の為に戦うと。でもそれは、山森から見れば初めは悪に思えた。しかし、話を聞くうちに、悲しいかな正義とはなにかということが分からなくなってしまった。
――俺にとって、正義とは何だったのだろうか。
最後に賊に向かっていったのは、何が原動力だったのだろうか。怒りだけだったとは、今では思わない。
落ち着いて今考えてみるに、自分の正義を守るためだったのだろう、という結論に落ち着いた。
正義という言葉を振りかざすのは、正直言って恥ずかしいと思っている。けれども、賊、それも全身真っ黒ないかにも悪然とした輩が、あれほどまでに正義を連呼していては、こちらとしてもその影響を受けてしまう。
だが、賊の正義と自分の正義とは、全く違うと感じていた。一方で、全く違うと思うも、対立するものでもない気がした。
多分どちらが正しいか、というところは誰も結論が出せないのだろう。誰かが結論を出す、そういう行為はおこがましいのかもしれない。
でも自分は自分の正義の為に戦うしかない。そういうことを、賊は言っていたような気がする。おしゃべりが過ぎたようだな、と言っていた気がするが、おしゃべりではなく気迫で伝わってきた。
翻って、自分の正義である。――いや、そんな正義という言葉は振りかざす気になれない。
上が言われるがままに、それに忠実に従ってきた。正義とは何か、ということは考えずに来た。
逃げてきたわけではない。そういう発想がまるでなかったのである。それも反省しなくてはいけないのだが。
しかし、言葉にはしてこなかったが、自分が守ってきたものはあった。それはおそらく誰かからの信頼なのだと思う。
上の意見に忠実に従う、ということはおそらく上から自分への信頼を守ってきた――と今は解釈しているし、それは間違っていないと思う。
だから、今からどう生きようか、と考えた際には、誰の、という観点を導入しようかと思っている。自分が今まで守ってきたものに、少し自分なりの思想が入る。そうすることで、守るべき正義というものに昇華するのではないか。
もっとも、守るべき家族もいる。正義を突き通していては、守るべきものも守れなくなる。
そこでふと気づく。正義を貫くのは、言うは易しの典型ではないか、と。
――あの賊も苦労しているのだなぁ。
何故だかわからないが、商売敵に同乗してしまった。少し笑ってしまった。
「あら貴方、どうしたの」
妻がそう声をかけてくる。3つになる息子を抱えている。
「いや何、身の振り方を、ちょっとな」
「あ、ノされたの気にしてるんだ」妻が笑って、「でも、あなた警備員一筋でしょう。どうやったって、もうこれやるしかないわよ」
「でもなぁ、自身を失っていない、と言えば嘘になるしよう」
山森がグチをこぼす。
嫁がニヤリと笑って、背中をバンと叩く。
「ごちゃごちゃ言っても始まらないでしょう! やるしかないんだから! 車のローンもあるし、いろいろとこれから要り用なのよ。子供が大人になるまで、平均で二千万円とかかかるって言うし、しょげてる暇なんかないんだから!」
「あ、ああ。――そうだな」
先ほどまでの正義についての思考がどこかに飛んでいきそうだ。
そうだ、俺は守るべきものがあって、それを守ることこそが正義ではないか――そう山森は感じていた。いや、きっとそうに違いない。
ものごとを高尚に考えすぎていた。俺は、そんなに複雑な人間ではない。
「ほら、何をぼさっとしてるの。やることないなら、お風呂洗って、そのあと車回しといてね。買いものも行きたいんだから」
妻がほら、と言いながら山森の背中をべしべしと叩いてくる。
「仕方ないなぁ」と言って、縁側から立つ。そうとも、俺は家族の為にやるしかないのだ。
背中を大きく伸ばし、山森は立ち上がった。なんとなく、自分の正義が見えたような気がする。賊の正義とは違うかもしれない。いや、間違いなく違うが、これを誰が否定できようか。
すがすがしく結論が出た気がして、山森は笑った。
にやにやしていると、「気持ち悪いわね」と妻が今度は思い切り背中をしばいてきた。「イテっ」と叫ぶと、息子がなぜか笑っている。
これでいいのかもしれないな、と山森は思った。
一枚だけ失敬したビラを、ビリビリと破り捨てて、ゴミ箱に入れた。
いつもお世話になっております、非営利団体「裏の業務改善委員会」の黒影でございます。
入れ違いになってしまっておりましたら大変申し訳ないのですが、私共が再三警告した「長時間労働の是正」及び「不必要なお通しの発生」、並びに「従業員に対する立場を利用した性的な圧力」の件について改善が見られなかったため、このような事態に発展してしまいました。
我々は再三お願い申し上げておりますとおり、改善の兆しが僅かでも見られましたらこのような事態には発展してはいなかったと思います。大変残念な結果になりましたが、このような手段を取らせていただいたこと、謹んでお詫び申し上げます。
また、これも再三のご連絡になり大変恐縮なのですが、我々は世の中でいうところの法律に反しているですとか、倫理的に問題があるとかそういった観点で行動しているのではなく、あくまで我々
の正義に基づいて行動しているということをゆめゆめお忘れないようにしていただきたい。告発ですとか、訴訟ですとか、そういった観点では決してものごとを語ってはいないのです。
今回は、残念ながら我々の正義とあなた方の行動が乖離してしまい、かつ行動に改善が見られないためこのような結果になってしまいました。返す返すになりますが、大変残念かつ、申し訳なく存じます。
追伸、次は本部の方に参上仕ります。
今後ともどうぞよろしくお願い致します。
非営利団体「裏の業務改善委員会」 黒影
彼には彼の正義がある、自分には自分の正義がある。それでいいじゃないか――と山森は感じていた。
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