第3話
ペダルをふみふみ加速するのは、毎日気持ちいいし、頭も――大して使っているわけではないが――リフレッシュできる。社員寮は電車で30分のところにあるが、自転車でも時間としてはそう変わらない。
何でみんな電車なんかを使うのだろうか、とは思わない。はっきり言って、私の方が異端であるという自覚はあるし、布教してまで人の気持ちに土足で踏み入ろうなんて思わない。一定の距離を取りたいと思うほど人嫌いではないが、さりとてそんなトコまで深入りしたくはないですよ、というスタンス。
孤高の姫君を気取るつもりはないが、ややもすると孤独の人になってしまうかしれない。危機感はあるが、心配はしていない。もしかすると、恐れているが望んでいる、そんなところかもしれない。
とうとうとそんなことを考えながら国道をふみふみ。初夏の夕方、風が一番気持ちいい季節だ。空気がさして良くないのがなんだかな、と言えばそんなところだが大した不満ではない。
永久に続けばいいとは思わないが、それなりに幸せ。
毎日がそんなところだ。
ぼーっと、しかし十分に注意してふみふみすること30分。ぼちぼち社員寮も近づいてきた。次の信号を潜り抜けて、さあ終わりだ、というところに差し掛かる。別にレースでもないが、なんとなくゴール・テープを切るような気持ちで毎日ワクワクする。こういうのは、人に伝わりにくいのだけど。
そのいつもの信号を遠くから見つめると、激しい違和感があった。
正確には、いつも以上の違和感があった。
いつも違和感があるというのは、信号の下の矢印である。赤信号なのに、「左」「直進」「右」と、全ての矢印ランプが点灯している。全部取っ払って青信号にすればいいじゃない、と思うが世の中そんなに単純ではないらしい。昔に誰かが理由と滔々と語ってくれた気もするが、忘れてしまった。そんなものは聞きたくなかったのかもしれない。もしかすると、私も由香里と同じく秘密は秘密として大事にしておきたいという、そんな類の人間なのかもしれない。ミステリアスって大事ね。
だが、今日の信号は一味違った。いや、一味どころではない。
人気のない国道ではあるが、さりとて交通量が全くないわけではない。たまたま夕凪のような瞬間があり、ふらっと人がいなくなる。そういう今みたいな瞬間もある。
――でも黒装束の男――忍者だ――がぶら下がっていていい理由はないんじゃなくって!
「どうもお疲れ様です!」やにわ馬鹿でかい声で忍者が吠えた。「お忙しい所恐縮ですが、お時間少々よろしいでしょうか!」
ザ・ハンギングマン男、もとい忍者がそうのたまった。
あっけにとられて返す刀が抜けずにいると、ぬけぬけと、「実はお時間よろしいのはある程度わかっていて、あなたの気持ち次第なんですけど、いかがでしょうか」と続けてきた。
もちろん関わりあいになりたいタイプとも思わないので、無視して社員寮へと向かう。スズメが電線にとまっていて、ムクドリが木の中にいる。そして忍者がぶら下がっている。それだけだ。何も変わったことはなかった。それだけだ――と思うよりほかない。
ゴール・スプリントとしては少々が長いが仕方がない。ギアを一段上げて、ぐいと踏み込む。クロモリのフレームは伸びがあるのだ。がんばれ、私。
信号を颯爽と通過し、直線で踏み込む。気分はタイム・トライアルのラスト1キロ・メートルだ。何も考えない。ただ踏むだけ。
だが邪魔が入るんだな、これが。
音もなく忍者男が並走してくる。時速40キロ程度は出ているのは間違いないのだが、どうして並走できるのだろうか。人間の強さには驚嘆するばかりだ。
怖いという気持ちはハナからなぜかないが、なんとなく試してやろうという気持ちになった。
本来曲がるべきラスト・コーナーを直進することに決めた。ゴール・スプリントのつもりだったが、この忍者男がどこまでついてこれるのかためしてみたくなったというのも事実である。
交差点を直進したとき、忍者が「えっ」という顔をしたような気がした。もちろん最初に会ったときと同じく、顔が隠れているのでわからないのだが。
そのまま振り返らずに、どのくらい進んだだろうか。信号を運よくいくつも越え、これはふりきったと思い汗をぬぐい振り返る。どうだ、恐れ入ったかという気持ちで。
ところがどっこい、忍者男はついてきていた。何故か自転車に乗って。
「面目ないです。随分と遅れてしまいました」
呆れる私を無視して、名刺入れから名刺を出す。
「あ、こちらこそお世話になっております」
そう答えてしまった私に罪はあるだろうか、一体誰が私を責められるだろうか。
名刺には、シンプルにこう記載されていた。
「非営利団体 裏の業務改善委員会 黒影」
「黒影って正式なお名前だったんですね」
私は隣に座る、黒影と名乗った男にそう問いかけた。敬語を使っているのは、別段経緯を表しているわけではなく、距離感を詰めたくないだけだ。
「肯定です。もちろん私の戸籍上の名前ではありませんが、通称――という意味では正式な名称と言えますね」
黒影は私の横でそう言った。
うかつにも名刺を受け取ってしまった私を、「お時間よろしい」ということで捉えたのか、黒影は近くの公園に私を連れ込んだ。
新手のナンパか、とも思ったが確かにお時間はよろしいのでホイホイついて行ってしまった私である。それに、私を消そうとするなら朝の段階でもう消しているに違いない。また、昼間由香里と喋った正義の話も頭の片隅にあった。
つまり、私も興味津々丸であったと言わざるを得なかったのだ。
「して、なぜに私を追い回してくるんですかね。朝の件で、何かございましたか?」
単刀直入に、私の方から先制パンチ。
黒影が一瞬の間を置いた気がした。答えを思案しているかのような、またどこまで喋っていいものか考えているような、そんな間だ。
「基本的には――肯定です。朝の件であなたと話がしたかった。そういう認識で、問題ありません」
「では別に口封じ、というわけではないんですね? 少し安心しました」
それで少しホッとしてしまった、と同時に由香里の顔を思い浮かべる。ペラペラと口外することに生きがいを感じている訳ではいないが、でも秘密があると意識的にせよ無意識にせよ、喋ってしまうタイプ。ちょっと疑ってしまって、ごめん。
「実際のところあなたは界隈ではそこそこ有名人らしいので、存在を隠匿しよう、ということは難しいんじゃないですか?」
これも少し考え、黒影が返事をする。
「その通りですね。実際のところ、私の存在をなかったことにしようとすると、随分難しいと思います。ただし、別に私は自分を闇夜に隠そうとは思っていません」
「忍者なのに?」
聞き返してしまった。その忍者装束は飾りなんですかと、本音ではそう聞きたかった。
「忍者なのに、です。古来忍者は姿を隠すことにメリットがあったから、そうしていたわけです。でもそれは、業務中の話。忍者の存在がまことしやかにささやかされることによるメリットは大きかったのではないか、というのが我々の見解です」
抑止効果――なるほど、そういう考え方もあるのか。
忍者が表を出歩いている事はなんとなく合点がいったが、別の疑問が全く解消されていないことに思いあたった。
「それでは何ゆえに、私のような小娘にこうしてまで声をかけようと思ったんですかね? 忍者の恐怖を宣伝してください、とかですか?」
そう忍者にぶつけると、今度は間髪入れずに、
「いえ、そういうことではありません。それならあなたのご友人の方が適任でしょう?」
それなら由香里を使った方がいいのに、と考えていたら見透かされたような答えが返ってきた。
続けざまに、思いもよらないことを黒影が言ってのけた。
「単刀直入に言えば、ヘッドハンティングですね。我々の組織の人事部が、あなたに興味を示しています」
今度ばかりは「なるほど」とはいかない。ふふん、と鼻で笑ってしまった。
――何? 謎の秘密組織のスカウティング? ――この話には現実的でないポイントが二点ある。
「いきなりそう言われて、それを『はいそうですか』って信じるのは結構難しいと思うんですが、そのあたりは如何でしょうか」
ひとまずそうして返しておく。かなり混乱しているので、こちらでボールを持っておくのは危険だ。
「たしかに、それはそうですね」と黒影が答えた。「証明するのは難しいと思います」
「全く信用していない、というワケではないんですけどね。信じられない、というところが本音です」
そうすると、「こういう方法はどうでしょうか」と言って黒影が提案してきた。
「一応私も自己紹介は出来ます。でも、あなたの疑問に答える形の方が混乱を解きやすいし、何より理解してもらいやすいと思います」
黒影はそう言った後、肯いた。仮面を少しずらして、どこからかタバコの箱を取り出す。「よろしいでしょうか?」
自分にとってデメリットのある提案ではなかったので、「それで宜しくお願い致します」と言って肯く。
――アレ、私良いように流されてない?
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