第2話
あっ、と言う間にお昼休みになるワケはない。そんな物事都合よく進まないのだ。そんなことなら、誰も週末を待ち望んだりしないし、ましてや月曜日を恐れたりしない。
私のいる庶務課に限った話ではないが、もちろん弊社には朝礼があって、適度な訓示と確認事項があって、ラジオ体操をする。第二だ。結構しんどい。何代か前の課長の工場勤務が長かったせいか、こういう習慣が根付いてしまっているらしい。悪い気はしないが、悪い気がしている課員も少なくはないだろう。ほら、現に白石さん――大卒6年目。オタク気質――なんかはげんなりした顔をしている。かわいそうに。
これでなんとなく15分ばかり消耗する。そこからパソコン作業だ。
メールボックスを開き流れるようにメールを処理していく。色々あるが、ルーチン・ワークと言っても差し支えないだろう。
それが終わってから本格的な「お仕事」、ということになる。
私は庶務課の秘書室に属しているのだが、便宜上庶務課に属しているだけで、実際の仕事は秘書的な業務がほとんどだ。
まず、先ほどのメールの山から可及的速やかに処理しなければいけない案件があるので、そいつを退治しなくてはならない。今日の場合では、クライアントに資料を持っていくための印刷と、フォーマット修正を十一時まで行ってください、という指令が届いているわけだ。
弊社の業務は、コンフィデンシャル的に結構アレな業務が多い。クライアントに物事を提案する、ないし報告するといった内容がメインだ。
当然パワー・ポイントなんかを中心に報告することになる。それを全部印刷して持っていく。ペーパー・レスといったものとは程遠いのである。
今日の分は特に強烈で、150枚のスライドをお客さんに持っていくという。「なんだってそんな大量に」と思われるかもしれない。「何半日ぐらい会議やるのね。今日がプロジェクトの総決算なのね」、とお考えの方。甘い、甘すぎる。ふたりエッチな新婚生活ぐらいは甘い。
なんとたった2時間の会議なのである。120分。計算上は、一分間に一枚以上のスライドを消費しなければいけない。よく知らないが、もしかしたら織田軍鉄砲隊の火縄銃が炸裂するスピードよりも激しくスライドがちゃっちゃか動くのだろうか。気分は足軽よ。
これが平常運転、とは言わないが少しだけ忙しい程度の、どちらかというと通常運行くらいだろう。
はっきり言って、私は別にどうとも思わない。内容をパラパラと見ながらフォントの間違いや日付や情報ソースの漏れ、どうみても整合性のとれない数字をチェックする程度で済むのだから。しんどいけれど、こなしていれば終わる。
ただ悲惨なのが、プロジェクトの若手メンバーである。もう同期入社の男の子なんか顔げっそり。目がうつろ。月並みだけど、死んだ魚みたい。そりゃそうだよね。だって、先週100枚くらい持って行ったのに、またはちゃめちゃな量のスライドを要求されてるんですもの。
何が悲しいって、お客さんそんなに見れるワケないじゃない。ホント、無駄よね~――との旨は恭子(恭子も秘書課だ)と時々話し合ったりする。もちろん製作者のいないところで、だ。
とにもかくにもフォーマット等の修正が終わって、印刷が始まる。
で、これもとにかくマヌケの一言に尽きる。150枚を20セット! 三千枚じゃない! と驚くのは小娘の話。正直慣れちゃったワ、というところ。
二十一世紀始まって久しいのに、なんでこんな間抜けな作業をするのかねん、と思っていたのはこれも悠久の彼方。慣れって怖いわね。でも、スライドなのに投影せずに紙媒体って、どうなんでしょうね。まあいろいろあるんでしょうけれど。
いずれにせよ、いろいろな不満とか驚きはどっかに落っことしてしまって、私は生きているわけです。でも、それってみんなそうじゃない?
はい! 午前の業務終わり!
☆
「でね~、その黒影様っていうのは、誰も正体わからないのだけどなんか世の中の悪をビジネス街中心に叩きのめしてるっていう話なのよ」
由香里がそばをすすりながら、うっとりのポーズはしないまでもふわふわとした雰囲気でそう言った。
「でもなんで知らないの?」
「知らないわよ、そんなの。テレビでもやってないし」
私がそう答えると、由香里は「テレビ!」と言って頭を抱えて天を見上げるよくわからないポーズ。
何、ガラスの仮面気取り? と思ったが口には出さない。でも、馬鹿にされているということはひしと伝わってきて、いい気分はしない。アスカ、おかんむりだ。
「今どきテレビって! いつの時代の人なのよアスカちゃんは。そんな情報源宿題といっしょにゴミ箱に捨てちゃいなさい。屁のツッパリにもならんですよ」
華の妹系OLが屁のツッパリとか白昼堂々と宣うのはいかがなものかしらん、とも思った。ファン(主に弊社社員で構成される)が聞いたら涙ちょちょ切れるわよ。
「だいたいね、そんな一部上場企業のオフィスに闖入してガーディアンどもを屠って回る忍者なんて、テレビでおいそれと報道するわけないじゃない。もうホントにスカタンなんだから」
スカタンは余計だ、と思ったが疑問がそれより先に口をついた。
「でも危ないじゃない。あんな悪魔超人みたいなのがこの果てしない大都会東京にいるわけで。そんなのさっさと注意喚起してとっちめて回らないと、こっちまで後ろからばっさりよ。どうしてマスコミは報道しないのよ」
自分としては当然の疑問だと思ったが、由香里は「はァ~」と盛大な溜息。
「もうホンっとに何にもわかってないのね。いい? まずそんなに物騒な奴が世の中にいるってわかったら、みんなどう思う?」
「え、そりゃあ応援するんじゃない? だって基本的には正義の味方なんでしょ?」
言ってハッとする。何がって、自分の発言にではない。由香里の目線にだ。
――いかん、これは長くなる――
そう思うや否や、由香里の気配が色濃くなった、ような気がした。
「そうはならないのよ! 例えば最近の話だと、そうねえ。仮面ライダークウガ、いたじゃない。平成ライダーの初めの。ブラックの後のやつ」
「いやいたじゃない、って言われても……」そう答えるので精いっぱいである。「いや、仮面ライダーとかいないし、」
「いるんだよッ!」
「はい!」
もう逆らえない。こうなった時のオタクの話たるや、長いお付き合いである。
「クウガが最初になんて呼ばれていたか知ってる? 未確認生命体第0号よ。あのグロンギのクモ男とかコウモリ怪人とかといっしょ。未確認生命体なの。これが意味するところは――」
「つまり、人類の敵ってこと?」
「そう、わかってきたじゃない」
ニコっと笑って由香里が一呼吸置く。良かった、オタクへの相槌は間違っていなかったみたいだわね。
「で、クウガが白色から赤色のマイティ・フォームに変わった時も未確認生命体第四号ってことになってしまったの。どうみてもクモ男とかコウモリ怪人とかと違って、正義にために頑張っているのに」
「なるほど。客観的に見たらわかりそうなものなのにね」
「そうなの。人類を襲って命を奪う、これが悪じゃなきゃ何が悪なのって感じでしょ? でそれをとっちめようとしているんだからこれはもう明らかに正義じゃない。ここに疑問の余地があったら、議論のお相手になって差し上げますけど、ご都合いかが?」
私は首をフルフルと振るしかなかった。
「滅相もない」
「ふむ、よろしい」
そう言ってそばをすする由香里。せいろにのったそばが少しかぴかぴしていたらしく、一瞬顔をしかめるが、強引につゆにねじ込んですすってしまった。
「で、ここからが本題なんだけど。クウガもその後バッタ風怪人とかキノコ風怪人とかと戦うにつれ、警察とのなんとなくの共同戦線というか、信頼のようなものを得始めたわけよ。警察から拳銃貰ったり。結構感動的なシーンだったわよね?」
知らんがな、と今日何度目に思ったかわからない言葉を、そばとともに飲み込む。
「なるほど。それで?」
「敵のグロンギはゲーム感覚で殺戮をくりかえすのよ。デストロンとかは世界征服とかいう彼らなりに壮大な目標があったワケだけど、全然そうじゃないの。私たちが、バイオハザードとかでゾンビボコボコにするみたいな感じで人間をげしょげしょ殺していくわけ。もうこれってどう見ても悪でしょ」
「うん。もう極悪非道ね。ゴクアーク様もびっくりだわ」
「まあゴクアークはあれはあれで彼らなりの美学があったと思うけど」
三匹の龍を頭に描いたが、そんな美学の記憶はあまりなかった。
「そうだったっけ?」
「アレ、違ったかな? ――まあいいわ。それでね、そんな明らかな悪に対応しているクウガでも警察とか言う極々小さな組織の同意をとりつけるのにも、たっくさんのラッキーとか努力とか、あとは一条さんとかの協力があってやっとこさやってのけたの。どうみても正義なのによ」
「ふんふん」ととりあえず頷いておくが、私はまだ話の全容が読めていなかった。「それがあの忍者男と何の関係があるっていうのよ?」
「関係大ありよ! いい、確かに黒影様はなんというか、現代東京のビジネスの歪みを是正して回っているけど、それって誰にとっての正義なの? はい、答えてちょーだい!」
うーんと少し考え込んでしまう。誰にとってかっていうと――
「例えば今日の話で言えば、かわいい新人君たち?」
由香里がうむ、と頷く。
貫禄出てきたわね、この子。ちょっと小太りのオタクもこういう雰囲気で喋りそうだわ。
「そう。早出手当も出ないのに、コピー機の紙入れたり、机拭いてまわったり。そういうのって、明るい将来を夢見てやってきた眩しい新人にとっては正義じゃないわよね。そんなシステム悪なのよ。でも、」
由香里がそばをつかむ。もうせいろとくっついてしまって、せいろがふわりと浮いてしまっている。強引に捩じって、つゆにシュートだ。
「でも――それが課長や部長にとってはどうかって話よ。毎朝さわやかな新人が、会社にとってかいがいしくしかも給料も出ないのに働く。美しい苦労が眩しいわね。自分たちもそうやって――彼ら本人的には――一人前になったから、その道こそが必ず通るべき道だと思っているし、通らなくてはいけないと思っている。つまり、まさか自分たちが悪だなんて思っていないのよ」
「正義の反対はまた別の正義っていう話?」
話が混迷していたので、それっぽい相槌を打ってしのごうとした。
が、見事に見破られた。
「私の話ちゃんと聞いてた? 課長とか部長は悪だと思っていないだけで、正義とかなんとかってこれっぽっちも考えていないのよ」
そういって由香里は箸でごくごく小さなそばの切れ端を掴み、私に見せつける。ちっさ。
「そんなちっちゃいの?」
「ちっちゃいの。しかも、もしかするとこれほども思っていないかもしれないのよ。正義だと思ってすらいないってことは、対立する土壌すら存在しないのね。分かり易く言うと、小学生がアリの巣に水入れて壊すみたいなもので、そんなときって良いとか悪いとか考えないでしょう。悪いことしているとは夢にも思わないし、正義とか悪とかって持ち出すほどのことでもなく、また持ち出そうとも絶対に思わない」
なるほど確かに。自分にも経験がある。おてんば娘だったのだ。
「うっかりファミコンの大したことのないソフト借りパク(注:借りたままパクってしまうの意)しちゃったときとかもそういう感じね。ファミスタ64なんて、盗んじゃう価値もないけど、うっかり鞄の中に入っちゃっていたりするわね」
今度は由香里も納得したようで、「そうそう」と言いながら蕎麦湯をすすっていた。
「そうなの。で、そういう時の盗まれた側ってムカつくけど、でも相手との温度差がありすぎてわざわざ言うのもはばかれるし、なんとなくファミスタ64程度で事を荒立てるのもな、とか思っちゃうのよ」
「馬鹿らしく思っちゃうわけね」
「その通り。で、結果としてその盗まれた状態を受け入れちゃうわけ。相手も悪くないし、自分が、大したソフトでもないし、ちょっと我慢すればいい。そう思っちゃうのよ」
「で、それが今回のコピー機の件も同じだと。そういうことね」
由香里の言っていることが、やっと半分くらい理解できたような気がした。
つまりは、正義をふりかざすほどでもなく、相手も自分が悪だと思っていないから、なんとなく不満のはけ口がなくなっちゃって、爆発もできなく、積もり積もって悪い方向にいってしまう。でもそれは個人の中で処理できないほどのストレスでもなく――といったところだろうか。
「そういうこと。だから簡単に言うと、そんなくだらないことに誰も首を突っ込みたくないし、突っ込むほどでもないし、突っ込んだときの方が全員不利益が大きいから言えないの。だって、誰も朝の15分、それも新人の間だけの一瞬よ、そこで歯向かって会社人生を棒に振りたくないじゃない? 実際そこまで不満がたまっているわけじゃないしね。イライラ度合いとしては、大学の同期に会った時にネタに出来る程度よ。そんなことでは正義に味方は来てくれない。クウガは来ないの」
そう言って由香里は立ち上がった。時計を見る。もう1時前だ。
「でも黒影様は来てくれるの。そういうのって、かっくいーと思わなくって?」
今日何度目かわからないが、なるほど、と一瞬思ってしまった。なるほどだ、ホントに。
そう思ったところでタイムアップ。細かい話はできなかったが、由香里の熱量に押し切られてしまった感じがする。
午後も通常通りの業務を終え、夕方5時を迎えた。相変わらず総合職の子達は帰る気配が微塵もみられない。予定表を見ていると、夜の8時からミーティングがセットあったりもする。珍しいことではない。
が、まあそれはそれ、これはこれ。お給料も求められる役割も違うし、気にしても仕方がない。私にできることは何もないのである。横で応援団やるっていうのも悪くはないけれど、明日の英気を養う方がよっぽど彼らのためになる、と私は思っている。
更衣室でいつものサイクルジャージに着替える。私服通勤が認められるのもこの会社のいいところで――もちろんそれで入社を決めたわけではないが――、もっとすごいのもいる。面接のとき、ふりふりのゴスロリ様一歩手前の服を着た女性社員が出てきたのを見て、「いい会社なのかも」、とそのときなんとなく感じたのを覚えている。
そんなのんきな会社でも忍者男が出るほどに問題が発生しているらしい。
ということは、他の会社は況や、というところだ。それをあの忍者男一人で叩き潰そうと思うとなんだか壮大で、でもどうしようもなく滑稽に思えてくる。デススターに立ち向かうルークみたいな。でもあんなに分かり易い弱点、ビジネス界にはないのだから大変だろうな。
お疲れ様でーす、と言って会社を出る。サイクルジャージの私も皆様見慣れたものらしく、もう突っ込みも入らなかった。最初の頃は、「おっ!」とか言う人や、あからさまに鼻の下を伸ばした男性社員諸兄もいらっしゃったが、最近はもうそうでもない。せいせいしたような、ちょっと残念な気持ちが同居している。
カツカツとクリートを鳴らして駐輪場に向かう。小さな駐輪場だが、利用する人が少ないのか、少しのバイクと電動アシスト付き自転車があるだけだ。
その中では、私の自転車は異彩を放っているのかもしれない。青と白を基調とした、パナソニックのレーシング・カラー。もちろん2×11速で、変則は電動だ。
由香里もオタク気質なのだが、私もどちらかというとオタク気質である。こだわったらキリがないという点で共通の価値観があり、そういう意味で仲が良くなったのかも、と今では思う。
鍵を外し、さっと跨る。目標は当然自宅だ。
サイクル・コンピュータのスイッチを入れ、会社を出る。
当たり前過ぎて忘れていたことだが、自転車通勤なので不必要な飲み会に誘われることもおそらく同僚よりはるかに少ない気がする。
総合職の子なんか、仕事が忙しい中大変だろうに――と思うが、まあ私には関係ないのである。
どうしようもないことは、世の中にはあるのだ。
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