第12話 海野平の戦い
川中島の合戦の終わる 23年前
1541年
源太の長男も5歳になっていた
小県は上田の庄があり、実田は馬の飼育を 代官の太田氏の元で行っていた
滋野一族を乗っ取った海野一族が利権を求め、しばしば実田一族の利権を奪いに来るようになる
幕府は太田氏だけではなく小宮山氏を代官として小県に送り、
小宮山城(米山城)を建て、洗馬城に実田を住まわせ、室町幕府の利権を守ろうとしていた。
実田は滋野の牧を営んでいたが、次第に海野が利権を集め
父頼昌は海野の娘婿になり、兄綱吉も母の妹を婿嫁として融和をしていた
滋野一族を乗っ取った海野一族でも国領の維持は難しく、官僚でさえ佐久平の豪族を
抑えきれなくなっていた。
「海野平の戦い」は真田牧馬洗に朝霧を垂れ込ませるのである
国人(地方豪族)が力を付け、大塔の戦い以来140年経ち、信濃は再度戦国の嵐に
巻き込まれて行く
5月~6月
地方豪族が武田と組み、国領を取りに来た。
甲斐守護武田信虎と、村上義清や諏訪頼重など武田と結んだ信濃国人の連合軍が小県郡へ侵攻し
小県を領する海野棟綱、根津元直ら滋野三家(海野氏、禰津氏、望月氏)に侵攻を始めた
弟常田隆永は荘園に養子に出されていており、常田氏は降参していた。
弟矢沢頼綱は諏訪党矢沢家に婿に行っていたが、矢沢氏も開戦前に降伏し、
諏訪氏により武田信虎に身を寄せることとなる。
実田に海野氏から出陣命令が来るのである
今、海野は親元なのである。
海野棟綱・父頼昌と兄綱吉は抵抗するが尾野山城(上田城)が落城し、
背走中に義兄の海野幸義が神川で村上軍に討たれてしまう
海野棟綱・頼昌と綱吉は羽尾修理亮(羽尾城)に背走し身を寄せる。
上杉憲正に援軍を願う。
幸隆の所には次々と間者から戦況が集まっていた
幸隆、箕輪城に向かう
幸隆は大松山から鳥居峠近くまで、数人の山伏と雨の中、長野業正の箕輪へ急いでいた
鳥居峠を下ると羽尾の郷だ、僅か百騎の撤退だった、海野頼綱、頼昌、綱吉がすでに羽尾山に入っていた
もう空はしらみ始め、雨は止んでいた、河内上杉の羽尾氏では有ったが
信濃と同じく一豪族であった、城も城壁なども無く、丘の上の館であった。
海野頼綱、頼昌、実田綱吉は長野業正の援軍と伴に佐久に入る約束が出来ていたのである。
妙義山の麓まで幸隆は馬を進めていた、妙義山屏風岩は夜の雨で深い霧が立ち込んでいた、
二頭の空馬とすれ違った時
耳元で「幸隆殿」と声をかけられた様な気がした。
屏風岩から金洞山まで霧がゆっくり割れていく、
屏風岩に続く岩柱の上に白装束の行者が立っていた、
岩頭を跳ね、幸隆の馬先に「ふわり」と下りた、
自来也
「幸隆殿、戸隠以来久しくしております、我は、自来也」
七年前戸隠を離れる時、戸隠山籠りで尾根まで一緒だった「修験僧」だとすぐに解った
戸隠の屏風岩の石窟で出会った九州訛りの赤鬼だ。
幸隆
「自来也どの何時妙義へ」
自来也
「伝来の旅の中、蓮華童子の社をお参りいたしました、
幸隆殿の太夫の供養いたみいりました、飯綱、戸隠の行者と会し
千日太夫を指名し、取って帰り我は榛名に参りました」
「長野業正殿は和睦に決しております、業正殿は、小県を取り戻しません」
「村上が敵でござる」
「それを伝えに妙義に参りました」
幸隆
「妙義に留まる事、お許し下さい」
「自来也どの菅平四阿山をお願いできないでしょうか」
「四阿山の行者を妙義へ送って下され」
自来也
「榛名で兵を集め、四阿山に参りまする」
自来也は妙義、榛名、赤城の行者をまとめていた。
幸隆は菅平の忍者を呼び寄せたのである
幸隆は父の軍に合流せず
妙義山の社から間者を父、兄弟に放った、
「幸隆は羽根尾にも箕輪にも行きませぬ、妙義にこもる、各国状況を見、策を練る、生き延びて下され」
大井氏に送っていた間者からは
「長野業正は大井氏に和睦を約束されました、武田は期を逃しました」
幸隆は父に間者を送る
「碓氷から、業政殿と共に佐久にお進みください、大井氏は
和睦、手だてせず引き返し、箕輪にて養生をお願い致す」
上杉憲政の命令で、長野業政は海野頼綱を羽尾に置き、頼昌、綱吉、を連れ兵を上げ佐久に入る。
村上は武田の援軍と佐久に兵を上げる。
間者からは新しい情報が入っていた
「武田晴信と父信虎も守護職を争そっておりまする」 お家騒動の情報が入る
6月末
武田晴信はお家騒動の末、家督を継ぎ甲斐守護職となる。
村上氏は、信虎追放で武田との義は消滅する。
上杉憲政から長野業正に指示が届く
長野業正も憲政とは微妙な関係で佐久への出兵には消極的だったのだ。
大井氏は長野業正と戦わずに和睦。
村上は大井氏の援軍の理由も失う事に成るのである。
上杉は守護職、大量の兵を送っていたが、北条氏との諍いが絶えず、戦わずして兵を戻したかったのである。
村上は上杉と和睦し小県の領地を分割。
佐久郡は山内上杉氏、小県郡は村上義清が支配することになる。海野氏は小県に帰れなくなった、
綱吉、頼昌、は業政と一緒に箕輪に帰るしかなくなっていた。
7月
上杉は武田との決定的な対峙を嫌っている。
長野業正も実田も上杉憲政を信じられなくなっていた。
幸隆
「父上様、山内上杉殿とは長く、御恩もありまする、がしかし、佐久まで進みながら、
諏訪氏と和睦、村上氏と領地分割。小県は上杉殿では奪還できませぬ」
「上杉は小県を攻め取っても、海野殿に戻されるだけです」
箕輪に帰った海野家では
真田平の奪還をめぐって、関東管領・上杉氏を頼ろうとする海野棟綱と、
武田晴信(信玄)を頼ろうとする実田頼昌の意見が対立していた。
海野棟綱は義理の祖父では有ったが
長野業正と上杉憲政の関係を察し、沼田に逃れたのである
実田はこれで海野と決別する大義を手に入れたのである
ここで海野は事実上絶えるのである
幸義が討たれのが神川の地であったことも、何か偶然とは思えないのである。
1541年冬
自来也が妙義山の社に現れた
社の内陣左に自来也は座っていた
自来也
「洗馬は村上に落ち、守護小宮山城は米山城となり尾根上に砥石城を築城、村上は松代からの街道も押えました」
「来春、晴信は上田に進み、信濃取りを始めます」
幸隆は兵を上げず、妙義呼んだ修験者は諜報を終え、菅平に帰ることになるのである。
菅平には既に「兵」と呼べる程 訓練された山伏、僧兵、綱手達と軍資は集まり初めていた。
実田は自力で小県を目指す、あるのは情報だけだった。
自来也は仙素道人とともに妙高山の修験僧で、飯綱で修行をし
飯綱社で千日太夫を務め、飯綱を後進に任せ、筑波・赤城を経て妙義に居たのである
祖はやはり都落ちの赤鬼だ。
1542年
幸隆菅平「蓮華堂子」に帰る
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