第11話 菅平高原

川中島の合戦の終わる 33年前


菅平高原の四阿山 (2,354m) を最高峰に、根子岳 (2,207m) がそびえ、

軽井沢から始まり、浅間山、白根に繋がる富士火山帯の中にある

皆神山と並び、信州では最大級のカルデラである

四阿山は吾妻山(あづまやま)ともいい

古事記によれば、日本武尊が東征から戻って、信濃に入る峠で

「あずまはや」と叫んで弟橘(おとたちばな)姫をしのばれたと言い

群馬県側の嬬恋村(つまごいむら)の名も、この伝説によるものだと言われている。


1531年春 放牧

洗馬の館は傍陽川と沼入沢の合流地点に有った、

広い中洲が有り、馬を洗い、磨き、馬の価値を上げるのだ。

洗馬城は城とは言っても、馬を菅平高原に放牧に出す拠点、馬市場だった。

放牧が終わり秋になると、馬毛は光り、良く走るのである。


洗馬城から沼入沢を上ると地蔵峠から松代。

神川を下ると上田平から諏訪、甲州へ

佐久平から碓井、内山、十石峠を経て上州へ

傍陽川を上ると大笹街道のある菅平

上田牧の要所でもあり、戦略の要所でもあった。


菅平から西に下ると善光寺平、越後。

東は鳥居峠を経て上野沼田。

菅平は山岳街道の要所である。


山門を開けると、洗馬沢まで柵が打たれた馬場にでる

馬には首輪をつけ、科の木の白い荒縄で繋いでいく

数頭まとめると門の左右から馬場に放たれた

「ホウホウ ホウホウ」「ホウホウ ホウホウ」

沢に集めた馬数を記帳するのが、洗馬城の役目

柵沿いに沢馬門まで追う声が洗馬沢の中に響いていた

牧人が先頭、牧主が最後尾で

「ホウホウ ホウホウ」「ホウホウ ホウホウ」

馬場は馬と牧主の息とで、朝霧のように白く靄が立ち上っていた。


洗馬沢沿いに大松山に向かうのである、牧人と牧主の腰には山鎌が挿され

山道脇の青葉の枝を払いながらの沢登りだ。

食べれそうな枝は馬が食みながら沢道を登っていくのだ。

馬たちは草を食み、急ぐことは無い。

洗馬沢には幾つも堤が作られていて、水場になっていた。

科の縄で作った首輪は牧毎に編み分けされ、放牧が終ると洗馬城の馬場で分類して牧に戻すのである。


菅平の四阿山の南斜面は白樺の林がぽつぽつと点在し牧草があり

裏太郎と大松山の間は湿地で、水場は十分に有った、牧には欠かせない夏の間の

放牧高原なのである。

ここは戸隠山と瑪瑙に挟まれた湿地帯にそっくりで、幸隆に戸隠の修行の日々を思い出させて居た

雪が積もる冬の間、馬達は上田の牧に下りてくるのだ。


千曲川沿いの牧では千曲川の牧草を刈り取り、干し草を作る。四阿山に雪霜が落ちる頃、馬達は

寒さで大松山と裏太郎山の窪みに集まってくるのだ、大松山は追い込みに都合が良い地形だった

仔馬は上田平の牧に残されるのだが、成馬でも害獣の被害は少なくない。

山伏たちはその害獣から馬達を守りながら、街道の警備、術の修行、戦の修行をしていた。

秋には豪族の馬頭達が集まり市が開かれる、市は父頼昌、右馬介(うまのすけ)、兄綱吉が左馬允(さまのすけ)として取り仕切るのである。


それまでは牛での農耕が主だったが、農耕だけではなく戦略、物資移動、人移動に

長けた馬は

中央政権の命綱になっていた。


1531年

上杉憲政、関東管領職と山内上杉家当主の座を奪う、早速山内上杉は海野家に同盟を申し込む。


5月25日

実田家も多少の蓄えが出来はじめていた、この年、諏訪社の分社として上洗馬神社を真田の地に建立し、春の大祭を村を上げて出来る程になっていた。

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