第14話 志賀城

川中島の合戦の終わる 22年前 冬


1546年


武田晴信は城主笠原清繁の志賀城(佐久郡)を完全制圧の為、軍を進める。

笠原清繁は関東管領、上杉憲政の援軍を頼みにしており、志賀城には上野国の武将、

高田憲頼も援軍として入城していた。

武田が志賀城を囲んでから笠原清繁への救援に出ようとする憲政を、

長野業正は諌めたが、聞き入れられず、


笛吹峠の戦いで憲政側は晴信に敗北、業正と主君上杉憲政との間は微妙であった。

小田井原の戦いで、上杉憲政の援軍は板垣信方、甘利虎泰、横田高松ら武田氏に一方的に壊滅させられた。


晴信は、志賀城の士気の低下を狙い、城の周りに小田井原の戦いで戦死した首、

三千を掛け並べさせたと伝えられている。

やがて城は落城し、笠原清繁、高田憲頼ら城兵300余りが戦死し、

生け捕りになった者は奴隷労働者とされ、

黒川金山などへ人身売買された。城下には笠原清繁の首塚と伝えられる五輪塔が残っている。


幸隆は海野平の戦いでかくまわれた業正へ、内応の誘いを繰り返していたが、

長野業正の狙いは北条氏、山内上杉に有り、応ずることはなかった


志賀城笠原攻めでの武田の戦いは、地方豪族を怒らせるには十分すぎた。

志賀城、上杉の残党は村上に下っていた。


上田が原の合戦

1548年に武田は小県郡へ侵攻し、村上氏と上田原合戦で武田軍と村上軍が交戦、

小県豪族の怒りは嵐の山中、上田が原で爆発するのである

山岳ゲリラ戦へと変貌していく、夜襲、奇襲、替え玉、出来うる野戦を繰り返した。


1549年2月 武田軍は板垣信方、甘利虎泰ら重臣を亡くしてしまう、

特に志賀氏、高田氏の残党は板垣、甘利を標的にし

将は討たれることになるのである。


晴信は諏訪上原城まで撤退することとなる。

その年、上原城にかわり高島城を築城し信濃攻略に備えている


村上らは四月二十五日に上原昌辰の守備する内山城を攻めて放火、

佐久・小県・筑摩の在地土豪や諏訪西方衆などが、反武田同盟を結んで武田氏の信濃支配は危機を迎えた。

武田の一度目の信濃大敗北である


村上の台頭で小県・佐久の豪族は壊滅状態に

志賀城の戦いで佐久の人々の命が多く失われた、幸隆は長源寺の伝為晃運を洗馬

の地に迎え、長国寺を地元住民の名を使い建立する、鎮魂にかこつけての間者の

郷宿を真田郷に確保したのである。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る