第9話 見張り塔の上から

次郎三郎 菅平へ


川中島の合戦の終わる 32年前


1532年


一人修行に出る様になっていた、もう7年の戸隠修行が過ぎようとしていた、小菅、四阿山、善光寺の巡礼から帰って、

今日は最後の7日間籠もりである、千日回峰行最後、荷物をまとめ真田に帰る準備は終わっていた。


巨大な岩塊戸隠山に出た。

本院岩窟下の沢辺りは湿地帯になっている、先ずは籠りの準備だ、山菜、木の実、水を採取し、

すでに木々の間から陽が入り始めていた。九頭竜社の脇の鳥居に立った。

「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前」の呪文に印を切って鳥居の結界を解く。錫杖に数珠、小さな鐘を鳴らし足を進めた。


蟻の戸渡りに向かい、一時程急斜面を踏むと、尾根の右側に岩壁が現れ、岩盤が立ち上がっている戸隠本坊の真上にでる

尾根道から壁の中程まで、高さ一間幅一間長さ三十閒のえぐれた場所が有る

五十閒長屋は雨も雪も積もらない、五十閒長屋から黒姫山、飯綱山、戸隠の原野を挟んで怪無山が一望出来る

瑪瑙山に西岳の影がかかり始めていた。籠りで一番気が抜けない籠り場所だ、足先が断崖絶壁で、

修行を始めた頃、若い僧が、寝返りなのか、立ち上がろうとして足場を失ったのか、何人もこの崖から消えている

崖下は野生動物の餌場だった、五十閒長屋の唯一の入口の灯篭に火を入れた、野火を絶やすと餌になってしまうのである。

だが今日は麻袋の中に青大将を捕まえていた、瓦礫の裾で日向ぼっこをしているのを見つけたのだ

熊は蛇を足元に投げると直に逃げるのだ。山に入ったばかりだがここで野宿だ

不動真言を唱え続けると、周りの気配を感じる位の睡眠に入る、数年掛かって会得した術である、

朝霧が長屋まで下りてきた、霧が下がり切る前に五十閒長屋を出た。


千日太夫

百閒長屋を超えると西窟に僧侶が居た、背が高く、体つきは熊のごとく、鼻は高く、赤らんだ赤鬼だ、

一目で飯綱行者と分かった、瞳が漆黒に輝いていた。源太は小僧だったので出会う行者は優しかった、

僧も移動の準備をしていた、僧は戸隠山を回る籠り、源太は西岳を回る、百閒長屋を出ると、二人の前に屏風の様な大きな岩場が現れた、

岩山の淵を岩に張り付きながら、回り込むと湿ったがれ場の上に、小さな岩の台地が現れる、

僧は台地に座っていた、源太ももう一足で台地に届こうとした時、何の前触れもなく背中全体を空気が叩いた、

それは今までに経験したことのない「バン」と台地の上に倒れ込む程に叩かれたのである。

振り返ると、志賀から陽が昇ってきていた、


飯綱山の向こう側に 四阿山が続き、浅間山に噴煙がもくもくと青空を塗りつぶしていた。

正月に大爆発して真田東部の佐久に噴火の雪解け水の被害が有ったばかりだった、煙は落ち着いていた筈だ。

西岳の向う側には乗鞍山を含む雪の被った山脈が蓼科山までずっと続いていた、空は藍色に抜けていた

低い音で「ずっど~~ん」朝の無風の空に音だけが響いた。

上州上野に噴煙が倒れはじめていた。

異様な光景にしばらく眼を外すことは出来ずにいた。

僧は

「や~~~!浅間がどくれっとる」  とぽつりとつぶやいた


屏風岩を上ると少しずつ尾根は狭まっていく


剣の刃蟻の戸渡りまで来ると、僧は先導してくれていた、この峰は岩が、削られた刀の刃を渡る様な難所である、

この峰は修行で岩の角が光る位に削られている。

肝と精神力だけが頼りだ、左は天狗平まで落ち込み、右は九頭竜社まで殆ど直角に落ち込んでいる、渡りは五十間続くのだ。

若い僧は岩を抱きながら超え、行者は錫杖を使い跳ねるように渡っていく難所だ。正面の峰が八方睨みだ、

八方睨みから左に本院岳、西岳、右に戸隠岳、九頭竜の峰が臨める、ここで僧とはお別れだ

僧は「いんでくるわなー」 源太は「ごめんなさんし」と言って腰を上げた、赤鬼は九州・四国の赤鬼だと直に解った。

ドクダミ、イタンドリ、スベリヒユ、カタバミ、竹の子を探しながら、西岳に向かった。八方睨みからは急な登り下りが続く、

急な下りは岩の上を選ぶ、厚く編んだ麻の草鞋の先の握った指が周り込んで瓦礫に刺さるのである、

水場で給水、梅雨が過ぎ一か月、板倉清水に水が有るのは珍しい、西岳からの下りは濡れているかもしれない、

本院岳につく頃には太陽は頂上付近まで登っていた。火をおこし、

竹の子をそのまま火に入れ表面が真っ黒になると食べごろである。これから下りがひどくなる、

しっかりお腹に入れないと、絶壁の下りは危険だ、持ってきた胡桃を口にいれ、

どんぐりを竹の子の皮の炭と一緒に炊き、本院岳を後にした。西岳まで左側は断崖絶壁、

右側は笹が生い茂っているがこちらの方が危険だ、笹は滑りやすくその先はやはり絶壁だ。


西岳山頂付近には広場が有る、鏡池から上がってきた行者が集まっていた、越後妙高から来た行者達だった、

西岳の蟻の戸渡は剣の刃よりも広いが、命を落とす行者は絶えない、鏡池からは急な登りなので登る方が楽なのだ、

行者は険しいならば登る方がずっと楽なのだ、岩の割れ目に拳を入れ、

狭い場所は指を何本か入れ拳を作る、足は親指の膨らみが命を支える、科木縄を使う下山は縄の回収に時間が掛かるのである。

急な絶壁を下るのは非常に大変なのだ、行者の長僧に聞くと、幸い下りの絶壁や岩場は濡れていないらしい、

絶壁は腰に巻いた科木縄の端を結び、岩の割れ目に引っかけては一段下り、外してはの繰り返し、

登ってくる行者もいない最後の岩場の上は広く、天狗平にから鏡池、戸隠が一望できる。


ここで野宿だ、天狗平まで下りてしまうと獣が多すぎるのだ、山に入って二日目頃から人は異常心理になる

見えるものが見えなくなり、見えないものが見え、聞こえないはずの音が聞こえ、本当の敵が見えなくなる、

修行を積むと出来ないことが出来、出来ることが出来なくなるのである。


三日目

朝霧が上がり、陽があたり、岩肌の水が乾くのを待ち、最後の岩場を縦走で下った。

天狗平の社は壊されていた、沢に有ったはずの岩窟にも社は無い、天狗平から百丈沢に下り、上流の不動滝に向かう尾根を超えた、

不動沢、百丈沢は真言密教の修行の場所だった、不動沢に降りると、沢の水音、滝の水音が騒がしい、

尾根からは人や獣の気配はなく、沢に下りた。

竹筒を腰から手に取り、滝の淵に膝を落とし沢の水を酌みあげ、顔を上げると、


伊藤兵衛

目の前に一本歯の高下駄を履き、黒い頭襟、蓮華色の鈴懸、蓮華色の脚絆、

腰には何十にも巻かれた科の木の荒縄、尻に黒い熊皮を下げ、ウリカエデの錫杖を持ち、

眉は繋がり、背は異常に小さく、色黒の僧が、何の気配も無く、滝の飛沫が渦巻く滝の淵に立っていた。


兵衛

「オン チラチラヤ ソワカ」の念仏を唱えた

「我は、伊藤兵衛也」

「次郎三郎殿、四阿山に行きまする」

そこに居たのは戸隠に来て間もない頃、山で見た飯綱仙人の姿だった

飯綱社千日太夫だ、兵衛は安智羅の生まれ変わり

飯綱社は千日太夫を代々山伏の中から指名してきた、術は指名された山伏一人に

伝えられるのである、伊藤兵衛は上越妙高から自来也を迎え千日太夫とし、卒業したのである


背の小さな兵衛の背から異常に付き出た短い錫杖は布で包まれ、襷にされていた、兵衛は紐をとき、結びを解き、布を取り去った。


兵衛

「頼昌殿より預かってまいりました」

中刀だった


沢を下り鏡池の手前に西光寺は有った、雪深い正月に焼けた西光寺には、未だ焼けた柱、炭、山門の一部が焼け残っていた、

西光寺は焼け残った山門と善光寺南の里宮だけとなった。


そもそも本当に宣澄法師は暗殺だったのだろうか?なぜ暗殺と断定できたのだろうか

天台宗法師暗殺事件から55年たっていた、鏡池の奥に有る西光寺が火災になり、真言密教が事実上戸隠から消滅したのであった。

西光寺は火災とは言われているが、戸隠顕光寺を天台宗が乗っ取る為、行者忍法で焼き討ちされたのだ。


山門の脇を沢に下り、兵衛は百丈沢の中の岩の下からヤマメ数尾を手に取り、岩窟の入口で火をおこした。く


兵衛

「明日は夜、犀川に流れる。闇夜にまみれ善光寺平を抜け、朝には大笹街道脇から、四阿山に進む、イワナを食べ、米は食べれるだけ入れてくだされ」


戸隠登山の間ずっと腰にいた麻袋の青大将の九頭竜は、ここで二人の腹にのみ込まれた。


小刀は籠りで事故が有ったとき自害するために、腰の引敷の中に忍ばせているのだが、中刀は持たないのである。

背負子代わりに襷掛けに、背中の中に入れた中刀は、背負子の重さではない重さが、伸し掛かっていた。


次郎三郎たちは犀川までは山抜けをした、交通の要所だった鬼無里を避け、尾根の獣道を行く、

荒倉山、鬼女紅葉の岩屋まで来ると陽は上っていた

置いてきた背負子は、宿坊の極居が夕刻に岩屋に運んでくれていた

夜間には裾花川を渡り、鬼無里から大峰古道へ

栗田・小田切の土地は無事抜けていた

極居はここで別れた

ここから、更科は村上の土地

小川から犀川を闇夜にまみれ、板流れで綿内の千曲川合流地点まで下り、大笹街道脇を菅平に抜けた。

父頼昌は大松山の社に留まっていた。


実田家次男、次郎三郎は海野家では戸隠修行で行方知れずになる


頼昌

次郎三郎は行方知れずとする、

「本日より 次郎三郎 名は源太左衛門幸綱、通称は源太とする」

「源太、菅平に兵衛と共に留まって、山伏を集め、夏の牧場の面倒をたのむ」


「源太

「源太の事、血縁以外内密とする、実田からは間者を送る」


「各地の戦いで野に残された子供達を上州より送る、山伏・綱手を使って育て、兵とせよ」


「我は海野に紛れ、期を伺う」


伊藤兵衛(千日太夫)は菅平に忍術を授けた、人材育成を担っていた、足軽く駆け回る者「足軽」のほか「間者」「僧兵」すべてを含め忍者だ、

兵衛はすでに自来也に千日太夫の役を譲っていた。

諜報術、凋落術は源太の役目だった、山賊をまとめ関所の様に大笹街道の通行料を取り、

道路整備や休憩所、お茶屋、を作り、街道は善光寺平近辺の山村から種油を上野方面に送る重要な街道「油街道」

とも言われた、仁礼から沓掛まで2宿14里(北国街道では10宿20里)なのだから牛車、馬荷は殆ど菅平を通行するのである。


間者、忍者は自分を守る術だ、殺し合いに成らない術、生き残り術だ

菅平に飯綱修験道をそのまま持ち込み、源太左衛門幸綱と伊藤兵衛を中心に修験道・山伏・忍術を磨き軍を整えていた。


伊藤兵衛の一本歯の高下駄は山道、岩場、斜面の登り下り、移動の為に最適な履物だった

下りは踵と一本歯、上りは爪先と一本歯が足裏を支える、岩山は岩の割れ目に下駄を刺して足場にするのだ、

一本歯が長いほど、急な山岳を移動できるのだ。


菅平の密教修験道は伊藤兵衛と源太により白山信仰(九頭竜・水神様)水内の信仰に一気に変化していく、

社には餌を撒き野鳩を集める、洗馬城の近辺から放つと菅平の社に戻ってくる、

上馬洗神社には菅平からだけではなく、近くの神社からも伝令が集まっていた、「ドバト」の名前の起源は「堂鳩」といわれており

かつては神社仏閣の山門に小屋を作り、参拝者からの給餌によって生活していた、行者・和尚・宮司は堂鳩を近隣の城まで運ぶ役目も担っていた。


又 火薬 火おこしで必要とされる硫黄も真田の修験道の最北端の米子に自然硫黄が産出している、

火山国・日本における硫黄の歴史は古い。和銅6年(713年)、相模(神奈川県)、信濃(長野県)、陸奥(青森県)の3国から

石硫黄が献上された。もしかしたら、信濃とあるのは米子産だった可能性は非常に高い、他に露出鉱石をふんだんに採取する場所が無いからである。


関東への荷の要所を抑え、、戦争孤児を集め、馬を放牧し、修験場とし、鉱山を整え。

菅平修験道は全国から山伏が集まっていた、故郷と菅平を行き来しても、何の不思議も疑いはない、時事の情報が集まっていた。

真田の資金は少しづつ集まっていった。

源太は資金を蓄え、京都、上野、武蔵、甲斐、駿河、遠江、三河へ(間者)を送り出した。



1533年 

武田の嫡男(晴信)に上杉から正室を迎え同盟関係となる、周辺諸国対策は急を要していた。


父は信濃で期を探していた、源太は真田の兵と資金を蓄える急務を負ったのである。


戸隠行者達は菅平、小菅に移動を始め、戸隠天台宗寺院はすっかり仏教色が強く、政治色が強くなっていた、

本院、中社、宝光社は年貢分配の対立ばかりを繰り返していた、戸隠修験道は最終段階を迎え、

天台宗の僧侶となったり他の山に移り修行を

続ける者も現れはじめていた。


実田帰郷から7年過ぎたころ、伊藤兵衛が屏風岩で事故死してしまう、50を過ぎていた。

源太は根子岳の山頂から少し下がった所に「蓮華童子の宮」を作り兵衛を祀った

蓮華は兵衛が好んだ法衣の色だ、源太は幸綱となっても蓮華色の兜・甲冑を使い

真田はこの後代々蓮華色を纏うのである。


1535年9月、武田信虎と諏訪頼満は和睦し、両者の間では同盟が結ばれる。

駿河国の今川氏や、扇谷上杉氏・山内上杉氏との同盟を成立させた。

1536年11月武田氏は佐久郡海ノ口城を攻略する

1539年には武田家臣・飯富虎昌が佐久に侵攻し、村上義清と戦っている。

1540年2月、村上軍が甲斐に侵攻、4月には武田方の板垣信方が佐久に

侵攻する、武田氏と村上氏の激しい攻防が繰り広げられたが、

その期を逃さず弱体化していた諏訪氏は動き出す、戦いの最中

武田信虎の三女を嫁に貰う事を条件に村上氏と武田氏が和睦するのである

村上氏方が押し切られ、佐久郡は実質的に武田氏に制圧される。


山内上杉、長野業政、武田親子、村上、諏訪、水内、小笠原等地域豪族の情報が

山伏を通じて集まっていたのだ


1540年 長男、海野左馬允(十郎左衛門)綱吉は、義父海野棟綱の長男海野幸義が一人前になり

真田の地に帰るのである


1540年冬

父頼昌、親族に間者を送る

「霜夜月 蓮華童子の 地獄釜」 

(冬になった満月の日 蓮華童子に 地獄釜湯治に集まって下さい)


菅平は極寒である、街道を行く者は殆ど無く、

馬も行者も里に下りた、蓮華童子の宮に実田一族が集結するのである。


父頼昌

「実田は誰に仕えても最後は滋野一族の再興に決した

源太を菅平に置いて七年、十分準備ができている

源太は真田幸隆とし菅平の兵をまとめ

左馬允(十郎左衛門)は 真田綱吉とし我と行動を伴にする

「連絡を密にし、期を以って集結し 真田と成す」

「生き残る将に従い、熟すまで、何があっても生き残る」


頼昌は自身が海野に送られ、長男を海野に取られ、源太(幸綱)を水内に送った時に、牧を営むだけでは滋野復興は無いと知っていた。

息子を次々修行や婿に出したのも

戦国時代が信濃の田舎豪族を巻き込む事を、父頼昌は20年前から感じていたのである。


村上氏と武田氏が佐久郡で争っている間、小県郡では滋野一族が

上野国の関東管領・山内上杉氏を後ろ盾として辛うじて存続していた


二人の修験者に導かれ、菅平に見張り塔は築かれるのである。

幸隆も真田の家老(羽尾)から恭雲院を嫁に取る、名は知れず、なにせ主の幸隆が行方知れずの筈なのだから

恭雲院も法名だろう。

戦国真田はこの冬からであった。

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