第5話 実田(真田)一家

 川中島の合戦の終わる 40年前


滋野頼昌(父)


「御牧」「国牧」

海野、禰津、望月は地方豪族、「御牧」皇族から加護を受けながら牧を営んでいた

滋野氏は信濃国内の御牧全体を統括する牧監で中央政権側「国牧」である

名は実田右馬介(滋野頼昌・海野頼昌・実田頼昌)


海野氏・禰津氏・望月氏三家の隆盛に伴い滋野氏本家は衰退していた。


父右馬介(滋野頼昌、真田頼昌)は海野氏の娘婿となり海野頼政、長男も海野綱吉となる、

子供達は修行や婿に出し、食い扶持を稼いでいた。

「国牧」は中央政権の加護がなくなり、「私牧」となり地方豪族の海野に飲み込まれていった


実田家は代官小宮山に年貢を納めるのがやっと、牧の仕事は大変だったが、洗馬沢と傍陽川の脇では狭いながらも稲作が出来た、食べるに十分の仕事があった。

都、上野上杉、甲州武田、近隣豪族に良馬を送り、滋野家再興を想い、資金を蓄え、人脈を整え

真田の土台の土を叩き、石を積み、材木を集めていた。


1525年 長男 綱吉、(真田右馬助綱吉、十郎左衛門、海野綱吉、海野左馬允)は母の妹の婿になる、海野左馬允の名を名乗って

馬の飼育を続けていた、鞍を付け乗馬用に躾けるのが、左馬允の仕事だ


1525年 次男 幸隆、(次郎三郎・真田幸綱)は天台密教戸隠修験道に修行に出される

天台と真言の争いが西光寺の焼き討ちで決した頃の、「三千坊三山」の時代である


1526年 三男 頼綱(矢沢頼綱) 源之助は千日太夫に連れられ、京都鞍馬寺に旅立った

鞍馬天狗(修験道)が兵法を伝授した鞍馬山に源之介を送り出した、数年後

鞍馬山から呼び戻し元服を名目に15歳で諏訪家系の矢沢の婿となり矢沢頼綱と名乗る、矢沢家はやはり馬を飼育していたのである


1527年 四男 隆永(新六郎、常田隆永)は元服を待たずして、13歳を期に常田家に婿に、常田隆永を名乗るようになる

常田家は千曲川の河畔(現上田城)の牧、海野家をより強固にする策だった。

 

1530年 五男 幸定(鎌原幸定)高野山の修行中、幸隆が菅平修験場を作るのを

手伝い、角間渓谷で伊藤兵衛に修行を受ける、1534年 鎌原家の養子に入った

鎌原家は早くから武田信玄の傘下となり、真田と伴に、岩櫃城、羽根尾城の

斎藤氏を滅亡させた


1533年 次男、次郎三郎が戸隠から帰る、次郎三郎源太は川原家より嫁をもらう

幸隆の正室 恭雲院は海野平の戦いで上州に逃れていた川原家の娘である。


父海野頼昌

婿入りしていた海野で婿嫁が亡くなり、実田頼昌と名乗り、洗馬の郷に戻る。


(次男)次郎三郎は、(父)実田頼昌を中心に

(長男)実田綱吉、(三男)矢沢頼綱、鞍馬天狗を名乗る、(四男)常田隆永、(五男) 鎌原幸定、猿飛佐助を名乗る、

飯綱社の千日太夫、自来也と名乗る天狗の援軍を得て、戦国の世に踊り出るのである。

真田十勇士には忍者、修験者、山伏、僧侶などが多数登場するが、これは江戸時代の演劇に起因する

しかしながら、修験者、僧兵との関わりが、真田十勇士の物語に波及しているのである。

この真田幸綱の物語はまさに南総里見八犬伝の正反対の現実なのである。


滋野本流は勢力を失い、亜流の子「極居」が戸隠僧兵の長として水内の戸隠に潜んでいた

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