第1話 一徳斎幸隆
川中島の合戦が終結して数年後
1567年
1541年の海野平の戦いで、滋野氏の一族は敗北し、上野国の関東管領・上杉憲政を頼り、幸隆一族は上野へ亡命していた
父が寄宿していた上野長源寺の僧であった伝為晃運と知り合う。
志賀城の戦いでの死者鎮魂の為 真田の地に伝為晃運を呼び、真田山長国寺を開山した。
真田幸隆は次郎三郎から源太左衛門幸綱、出家して一徳斎幸隆と名乗る
1555年 武田により善光寺の僧侶、本尊、鐘楼は甲斐の地へ持ち去られていた。
1558年 武田は戸隠中院大権現に戦勝願をした、武田の戦勝祈願が上杉の逆鱗に触れ、翌年戸隠社は中条に避難する事になる、
善光寺も残った全ての仏像は上杉(高梨)によって越後へ持ち去られていた。
善光寺が滅亡して数十年がたった晩秋
幸隆は水内の地に詫びと、自身の出家を報告をするため、賽の河原を渡り、水内の浄土に来ていた。
犀川の渡し賃は、永楽通宝六枚を船頭に渡しての水内の地だ。
2019年で言えば、50円玉六枚である、大市(荒木の渡し)では十分過ぎるお金だった
幸隆達は武井神社を訪ねた。
真田の僧とだけ告げ、三鎮守の武井神社に
抜け殻になっている善光寺の案内を願った。
伝為
「武井殿 善光寺にお参りをしたいのだが、道中願えぬか」
武井
「善光寺はもう伽藍しか残っておらず、参拝には及ばないとおもわれますが」
幸隆
「水内に恩義が有、できうれば、善光寺のあないを願いたい」
武井は伝為、幸隆の一団の気配を感じていた。
武井
「ご案内申し上げますが、ただ伽藍のみ、神も仏もおりませぬ」
幸隆
「我の神も仏も水内の地に有ります、善光寺はには、仏像無くとも、水内がおりまする」
紅葉した木々、すすきからは興梠が翅をこすり合わせる「コロ コロ コロ」と虫の音が、途切ず
空には カラスの群れが「クア~~クア~~」、帰巣信号を上げながら、旭山や葛山の西山地域へと帰っていく。
伽藍に向かう参道からは、無数の地蔵が置かれ、雑木の中に舎利塔や
空・風・火・水・地の五輪塔が、草の中に、剣山の様に立ち並んでいた。
五重の塔の横に、空き家になった伽藍が寂しそうに立っていた
本堂前で護摩を焚き、提灯の火を絶やさぬよう
お付きが数人、山門と本堂の参道の脇に座り込んだ。
武井の案内で伽藍に入ると、中は綺麗に掃除がされていた
湯福神社、美和神社、武井神社、彦神別神社、妻科、弥勒寺等、地元住民を中心に
仏像の無い伽藍を管理していたのである。
武井を先頭に一徳斎幸隆は、伝為晃運と共に善光寺内陣に入った。
正面奥には、小さな祠が置かれ、祠の中に立てられた小さな柱に紙垂が祀られていた。
一徳斎幸隆と伝為晃運の般若心経が静かな伽藍の中に響き始めていた。
病の体とは思えない、気迫で「懺悔滅罪」を幸隆は唱えていた
武井氏はそれが真田幸隆とも知らず、祠と向き合う二人の経が、伽藍に沁みて行くのを感じていた。
伽藍の中は武井の経が加わり、次第に経は伽藍の外まで漏れ初めてた
つるべ落としの夕刻、般若心経は、晩秋のかりがね、寒き夜半にまで続いていた
経は近くの寺の僧侶、神官を呼び集めるには十分であった。
いつの間にか善光寺外陣、回廊には提灯を持ち手を合わせる人であふれていた。
本堂前の広場ではいつのまにか護摩焚きが始まっていた
護摩の灯はどんどん大きくなり
護摩炊きと般若心経が代わる代わる続き、いつの間にか横山城の向こうの、志賀の山が白み始めていた。
武井氏には薄々真田の武将だと判っていたのかもしれない。
幸隆には滅亡した戸隠に訪れる体力は残ってはいなかった。
川中島の合戦も終決し、砥石城で病で倒れる数年前の事であった。
戸隠は30年後の1594年太閤秀吉時代、上杉景勝よって再興され
善光寺は秀吉により、1598年40年ぶりに本尊が、水内に帰って来たと言われている。
今でも善光寺周辺には 旭山、頼朝山、秀吉山の地名が残っている。
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