真田幸綱
じ~じ
まえがき
これは真田家次男の物語である
帝王学
念仏のように、優しく諭すように、脈略も無く、普段の厳しい言葉の後に、最後に呟く
「それが 君の未来なんだよ」
幸村は父昌幸の言葉の意味が解からなかった
幽閉の間も幸村は郷に「酒を送れ、米送れ」と
すっかりバカ息子を被っていた
猫は爪を隠す、それは祖父幸隆の術の一つだったからである。
科野
その昔
北信州には原住民の縄文人が住んでいた、
一万6000年間、縄文文明が続いていた
7300年前 鬼界噴火で日本列島西部は壊滅
月読族(蝦夷アイヌ、カムイ)もカムチャッカ半島から北海道に移住
東北地域まで南下、その後 オホーツク人は道東に移住
アイヌ人とオホーツク人が混血して行き
和人と交流、ゆっくり穏やかに縄文、弥生時代が過ぎていく
2000年前
イスラム系ユダヤ人文化を持つ(秦氏、モリヤ族、ヤマト族)がやって来て共存が始まる、ゆっくり穏やかに弥生時代がすぎて
後、水内や諏訪、穂高に中央政権の血縁がやってくる、住民は多量の殺し合いはしなかったし、食べる為以外に生命を奪わなかった、
その後、渡来系弥生人が馬の飼育牧場技術を持ち、善光寺平南西部(更埴から小県)に移住、
(大陸渡来人)は 「倭人」と呼ばれ 中国成都近くから 日本と東印度に逃れた民族だ
倭人は侵略の為に日本にやって来たわけではなく、大和人と共存が始まっていく。
一族は周辺地域に広がり、群馬北部にも広がって行った
動物にも縄張りがあるが、朝鮮半島の渡来人が政権内部に増えていく、倭人は生きるに必要以上の縄張りに命を賭けるようになる。
いずれにしろ、倭国(邪馬台国)の出現(弥生時代)からは争いは急増する。
そしてフォッサマグナの台地は、アマテラス、スサノウ、南北朝、戦国時代に巻き込まれていく。
真田の物語は西暦1500年頃から始まる、
応仁の乱(南北朝)が終り、混沌としていた信州小県に、幾つもの地方豪族や
滋野氏を祖先とする幕府一家が、何軒も住み着いていた
真田幸隆は実田右馬助(真田頼昌)の次男として真田郷に生まれたのである。
(幼少期 次郎三郎、青年期 源太左衛門幸綱、出家し 一徳斎幸隆)
「真田牧」
戦国の時代に突然現れた真田は、滋野の末裔、父頼昌は防人として誕生した地方武士であった。
真田は大阪夏の陣まで「戦国科野の歴史」そのものである。
松代藩(真田氏)に成った時、真田の歴史は都合良く書き換えられた
何が本当なのかは、それほど意味の無い事なのかもしれない。
これは大阪夏の陣まで駆け抜けた、真田家が歴史に登場する前の、真田家次男「幸隆」の物語である
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