第36話

「化け物め」


「気色悪いわ。本当に人間なの?」


「呪われているのよ。近寄らない方がいいわ」


「死なないのだろう? なら地下牢にでも閉じ込めておけばいい」


 鳥のさえずりで、目が覚めた。

 そのさえずりさえ、夢の中で繰り返されたエヴァに向けられた罵倒の続きに聞こえて、涙で滲む目を顔ごと両手で覆った。


 離宮の使用人や、ときどき入れ替わったエヴァにいろいろなことを教えてくれた先生たちの多くはエヴァの聞こえるところで聞くに堪えないことを口にした。

 がエヴァのそばにいるときは言われることはなかったが、それでもまるでエヴァに聞かせるように黒い言葉がエヴァの心に刺さった。


 忘れかけた、忘れていた心に刺さった言葉が、じわじわとエヴァの心を蝕み始めて、エヴァはあふれ出る涙をなかなか止められない。


 もうあの離宮に戻ることはないのに。

 エヴァを罵った彼らに会うことはもうないのに。


 それでも一度受けた傷はなかなか消えてくれなかった。





    ●  ○  ●





『おや、エヴァ。ずいぶん遅かったね』


 オルガとそばで横たわるオリゼの元を訪れたエヴァに、オルガはそう声をかけた。


「そうかしら」


 朝から泣いたエヴァはなかなか涙が収まらず、さらに目の腫れがひかないので、太陽が高くなった頃にようやく昨日の言葉通りオルガとオリゼの元に訪れられた。

 泣いたことを覚られたら、オリゼを更に心配させてしまうような気がした。


 まだ気持ちは落ち着いていないけれど、それでも取り繕うことはできるはず。


「オリゼの具合は……?」

『傷口が塞がったようだ。竜はこういうとき、とにかく寝て体が治ることに体力をまわす。だからオリゼを起こさないようにな』

「分かったわ。竜ってやっぱり強いのね。いつ頃までに元気になりそうなの?」

『もう八昼夜ほどで前みたいに空を飛べるようになるだろう。だがまた自分のなわばりを守れるようにまでなるにはもっとかかるだろうがね』

「ひどい怪我だったものね。今はゆっくり休んで欲しいわ」


 オリゼは昨日より呼吸が落ち着いているようだった。

 ゆっくりと上下する彼女の体をエヴァはじっと見つめて、彼女が無事であることに改めて安堵する。


「魔物は、また来るのよね」

『そうだろうな。竜は決して魔物を倒せないのだから』

「それって何とかならないの?」

『神の定めた理だ。我らにはどうしようもないよ』

「神もどうにかしようと思わないのかしら」


 自分たちが定めたことで竜たちが困っているというのに、なぜ何もしてくれないのだろう。


 大地を守る、大地の意志を遂行するというのは竜の神や大地の男神にとっても大事なことのように思えるのに。


「ねぇ、オルガ」


 エヴァはどこかためらいがちに口を開く。


『何だね』

「私じゃ、駄目なのかな」

『何が駄目なんだね』


 言葉の足りないエヴァの説明では、オルガは理解することができなかった。


「私が魔物と戦っちゃ駄目なの……?」

『エヴァが?』


 オルガは円らな瞳を見開いた。


『確かにエヴァは竜ではないから魔物を倒せるかもしれない。だが君は人間だ。あまりに力が足りないだろう』

「でも、全くの無力ってわけじゃないわ。爪も、ある」


 エヴァは背負う火と熱の剣、センモルタを揺らす。


『だとしても……』


 オルガはそれを良しとは思えないようだった。


「私が弱いから駄目なの?」

『そうだ。これ以上仲間を傷つけたくはない。我は長として、仲間を守らねばならない』

「でも私は死なないわ。呪いがあるもの」


 エヴァは叫ぶように訴えた。

 エヴァの心に小さな火が点る。

 不死の呪いゆえに拒まれ、避けられた離宮での日々。

 そしてペルディナスの地で人間であるが故にセオンに嫌悪された。


 自分ではどうしようもない理由でそんな風に扱われるのはもう嫌だった。

 だとしたら、認めてもらうしかない。

 人間であるが竜である彼らに劣らないと、強いのだと認めさせる。


「確かにあなたたちに比べたら、私は弱くて小さくて、脆いわ。でも母であるオリゼをこんなにされて、のうのうと暮らしているほど薄情じゃない。魔物はきっと戻ってくるのでしょう? だとしたら、私も戦う。オルガ、それを許して」


 オルガは長く息を吐く。

 それが怒っているようにも、考え込んでいるようにも見える。

 エヴァはただ、彼の審判を待った。


『君は若い。だから衝動に駆られているのだ。まだ我に許可を求めるほど冷静ではあるようだが、しばらく頭を冷やした方が良いだろう。それは認められない』

「オルガ!」

『エヴァ、それだけではない。今マクスもサワンも北に向かわせた。ここより東には先に傷ついたハイセが休んでいる。何かあったとき戦えるものがこの地に必要だ』

「それが私ってこと? ここは安全だわ。だって竜たちが守っている内側じゃない」

『だとしても油断はできない。狂った魔物が我々の裏をかくかもしれない。我はエヴァがそれをこなせると信じているからそう判断したのだ』

「それぐらいアルバだってできるわ!」


 オルガはエヴァをおだてようとしているのだろうか。

 だがこの地はオルガを中心に動いている。だから彼に逆らうことはこの地を守る竜たちの反感を買いかねない。

 エヴァは不満だったが、それに従うしかなかった。





    ●  ○  ●





 エヴァはオリゼへ散々な見舞いの後、少し前まで彼女のなわばりだった地にいた。

 今はハイセという竜のなわばりであったが、エヴァは狩りをするために足を踏み入れた。

 彼もエヴァの来訪に気付いているかもしれないので、まずはなわばりの主に挨拶に向かうことにした。


 エヴァには竜がどこにいるか、五感を頼りに探すしかなく、外敵から身を隠しつつ、体を休めているハイセを探すのに苦労した。

 そもそもハイセには会ったことがなく、どんな鱗の色をしているのか、どれくらいの大きさか、いくつぐらいなのかも分からない。

 彼にようやく会えたのは、日が暮れる頃、それも彼のほうから声をかけられて、ようやく彼に気付けたのだ。


『さっきからどうしたんだ、オリゼの子よ』


 ハイセは意外なことに町の廃墟の中にいた。

 その鈍色の鱗が町の建物とよく似た色で、彼が体を丸めていると、瓦礫の山に見えてしまう。それにまさか竜が人間の町の廃墟の中にいるとも考えなかったので、エヴァは度肝を抜かれた。


「ハイセ……よね? まさかそんなところにいるとは思わなかったわ」


 エヴァはもう彼を探すのを諦めていた。

 日が暮れ始めていたし、夜は危険だ。いくらセンモルタがあるとはいえ、獣の方が五感が優れている。不意打ちを喰らうのも面白くないので、今日は大人しくこの廃墟で夜を明かそうと足を踏み入れたのだ。


『貴様は何度も我の前を行き来して気付かなかったな。それほどまでに鈍いのか』

「あなたの擬態がとても上手なの。他の地ではどうやって隠れていたの?」

『岩になっていたのだよ。そうすれば獣も油断して近づいてくるからな』

「見事だわ」


 エヴァは素直に彼を賞賛した。本当に気付かなかった。これだけ大きな体を見事に隠すとは、竜のことを考えれば当然かも知れないが、やはりすごい。


『我に何か用か』

「ええ、あなたのなわばりで狩りをさせてもらおうと思って……。前にオリゼのときは許してもらっていたから」

『そういうことか。構わぬ、好きに狩りをするがいい』

「ありがとう。でももう日が暮れてしまうから、日が出てからにするわ。今日はここで休ませてもらうわね」

『いいだろう。その代わり朝まで我の話し相手になれ』

「いいわよ」


 エヴァは快く頷き、彼の地に垂らされた頭の近くに腰を下ろした。

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