第18話

『しっかりつかまっていてね』

「ええ!」


 エヴァは心が躍って仕方がなかった。

 アルバの背中に生えている一対の翼の付け根に足をかけ、黒い鱗が並ぶ首に腕を回す。

 足は丁度膝を曲げると翼軸の付け根をつかむようになり、首に回した腕は首の外周のほとんどを囲う。しかし鱗は滑らかでつるつる。力を込めれば込めるほど、まるで受け流されるように腕が滑り落ちていく。だから腕ではなく、足でしがみつくような形だ。

 アルバとエヴァとそしてオルガの三人で考えた、竜の乗り方。

 そもそも竜たちにとっても人を背中に乗せるということは、これまで無かった。だから、アルバにとってもこれは初めてなのだ。


 エヴァはアルバの背中でゆっくりと呼吸をして、気持ちと鼓動を落ち着かせる。

 アルバも背中のエヴァを気遣いつつ、動きに気をつけているようだ。


『それじゃあ、行くよ』


 アルバの掛け声に、エヴァは頷く変わりに首に回す手に力をこめた。それを返事と受け取ったアルバは、力強く大地を蹴り、エヴァは下から突き上げるような衝撃と上から押さえつけるような風圧を感じた。

 しかしそれも一瞬だった。


『エヴァ、大丈夫?』


 アルバの声が体前面から振動と共に伝わってくる。

 エヴァは知らぬ間に目を瞑っていて、アルバの首の後ろにしがみついていた。

 恐る恐る目を開けてみると、そこはもう、竜たちの世界だった。


「すごい……」


 高さはそれほどない。

 アルバは背中のエヴァを気遣ってか、いつもより低いところに留まっているようだ。それでも地上では見上げていた木をずっと下に見ている。

 眼下には地に根ざしたオルガがいる。上から見ると、地面に倒れこんだようだった。そして改めて彼の大きさに息を飲む。


 そして滞空するアルバは水平に近い姿勢をとっており、ゆったりと翼を動かしていた。

 エヴァは足でしっかりとアルバの翼をとらえ、上半身をアルバから引き剥がす。


「すごいわ……」


 大地がずっと広がっている。

 屋敷の二階から見るよりも広い。

 ペルディナスという地の広大さを今、まざまざと見せ付けられていた。


 ペルディナス、いいや世界はこんなにも広いのだ。


 分かっていたはずなのに、分かっていなかった。エヴァは静かで確かな衝撃にただ打ちのめされていた。


『エヴァ、大丈夫?』

「ええ、大丈夫。アルバたちはいつもこんな景色を見ているのね」

『何も面白くないよ。ただ大地が広がっているだけなんだもの。そろそろ進むよ』


 アルバが言うと、エヴァはすぐに彼の首の後ろにしがみつく。

 エヴァが姿勢を整えたことを確かめると、アルバは空の中を泳ぎ、自分のなわばりへと向かった。


 エヴァはじっとアルバに寄り添い、前方から吹きつける風になでられた。

 体を起こせばそれだけで風の抵抗を受け、アルバの邪魔になってしまうだろう。

 まるでアルバの一部になったかのような気分だった。アルバもエヴァを気遣いつつも翼を羽ばたかせて、風を切る。


 空を飛ぶというのは、効率的な移動手段だ。

 地上を歩いて移動していたなら、何日もかかっていただろう道のり。それは空を飛ぶことであっという間に辿り着いてしまった。本当にあっという間だった。時間を意識していたわけではない。ただしがみつくのに精一杯だった。そしたらもう着いていた。


『降りるね』


 アルバが宣言すると、翼を傾けてゆっくりと下降してゆく。

 エヴァはアルバの姿勢に合わせて、上半身を持ち上げる。

 下から吹き上がる風がエヴァの白銀の髪を舞い上げる。髪を束ねる紐でも持ってくればよかった。


 エヴァがペルディナスに来てもう二月ほど。

 井戸水を沸かして数日に一回の頻度で髪の手入れをしているが、やはり離宮で世話されていたときに比べるとずっと痛んでしまった。髪を切ってしまいたいとも思っていたが、髪を切れるほど鋭い刃物を持っていない。

 今持っているナイフで力任せに切ることもできるが、より髪を傷めてしまうだろう。

 下手に手を加えるより、なすがままに任せるようにしていた。


「ここがアルバのなわばり?」


 エヴァは地上に足を着けたアルバに聞いた。

 ずっと遠くに見えたグオルディアス王国との境、東の山脈が向こうに高々とそびえていた。季節がもう冬が滲んでいる。それを示すように山脈の高いところはもう白く、冬が深まるほどにその白を中腹へ広げていくだろう。

 心なしか、風も一層冷たくなったようだ。


『そうだよ。エヴァはあの山脈の麓に倒れていたんだ。行ってみる?』


 エヴァは首を横に振って断る。


「そこに行っても何も無いからいいわ。そういえば昔、東の山脈を越えて人間が攻めてきたはずだけれど、それはアルバが追い払ったの?」

『違うよ。そのとき僕はここから北になわばりを敷いていたんだ』

「そうなの? なわばりを変えるってことがあるのね」

『そういうこともあるさ』


 アルバはどこか面白くなさそうに言った。

 エヴァは東の山脈から顔をそらし、アルバが連れてきてくれた廃墟を振り返る。


「アルバはあそこに入ったことはある?」


 廃墟を指差してエヴァは尋ねた。

 そんなことを尋ねたのはアルバが他の竜より小柄なので、人間たちが建てた建物の隙間を通り過ぎることができそうだったから。オリゼの大きさではそれは難しい。やろうとすれば、廃墟が瓦礫の山になってしまう。


 竜は安全な寝床をなわばりで持っているという。

 たいていはその大きな体を隠せる森の中とか水の中とか、岩山の中とかそういう場所を選ぶ。アルバならあの廃墟の中でも大丈夫そうな気がした。


『無いよ。だって危ないものはなさそうだもの』

「危ないもの? 確かに武器とか無さそうよね」


 見たところ、あの廃墟はただの宿場町のように見える。砦とか、要塞にはとても見えなかった。


『それに魔力も感じないし』

「魔力? えっと確か魔法の源だったかしら」


 聞きかじりの知識。

 魔法を使うには魔力を持っている必要があるのだとか。


『そうだよ。僕は魔力を持つ竜なんだ』

「へぇー、ってことは魔法が使えるの?」

『もちろん。オルガもそうなんだよ』


 そういえばオルガとアルバは親子だ。だから二頭が魔力を持っているのはおかしいことじゃない。


『そうだったんだ。そっか、魔法のこととか教えてくれたの、オルガだからそうだったわね』


 オルガはエヴァの何百倍も長く生きている。だからその知識量はエヴァとは比べようも無い。彼と話していて面白いのは、とにかく知らないことを教えてくれるからだった。


『エヴァ、ちょっとじっとしていてね』


 アルバがそういうと、エヴァは白い光の輪に捕らわれ、その光の輪が狭まり、エヴァに触れたと思うと、何か薄い布で全身を纏ったかのような感覚がした。


「今のが魔法?」

『うん。これからあの古い人間の巣を見て回るんでしょう? だから怪我をしないように魔法のヴェールだよ』

「ありがとう」


 RPG風に言うと、防御力を上げるようなものだろう。

 なるほど、こういう使い方もあるのか。


 アルバの気遣いに何度も感謝を告げて、エヴァは廃墟へ足を向けた。

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