第16話

 うまく行っているといいな。


 この落とし穴がうまく行かなかったら、次の方法を考えなくてはならない。もしかしたら、落とし穴を改良するかもしれない。

 とにかく、次の手を考える必要が出てくる。


 オルガとの話は思ったより長引いてしまって、早くなった日没を迎えるより前に屋敷に戻りたい。


 気持ちが急くせいか、エヴァの足取りも忙しないものだった。


 エヴァは夜に外を出歩くのを避けている。

 暗いと何も見えないし、エヴァは竜だけでなく、獣にも身体能力的に劣っているからだった。

 自分より大きい獣に昼間でも勝てないというのに、夜だからと勝てるわけがない。視覚が塞がっているようなものなのに。

 ランプなり松明なり持って出歩けばいいじゃないかと思って試したが、逆に獣たちの注意を引いてしまうと分かり、それ以来はやっていない。

 前世では獣は火を恐れると記憶していたが、その常識はここでは通じないようだった。

 せめて獣たちに対抗できる力がないと駄目なようだ。


 だとしたらまずは新しい剣が欲しい。

 古いなまくらで、ちょっと使ったらすぐに駄目になるようなのしかペルディナスには残っていなかった。

 もしかしたらまだちゃんとしたのが残っていて、エヴァが見つけていないだけかもしれない。探し方が悪いのだろうか。こんなことなら、離宮を逃げ出すときに剣の一振りでも持ち出せば良かった。一応王女のエヴァに与えられたのは、上質で上級王国兵に与えられるものより良い物だったと聞いていたから。

 もしあの剣があったら、とっくに一人で狩りができていたかもしれない。


 かもしれない、なんて話はやめよう。実際には無いのだし、どうしようもないのだから。

 今はとにかくできることをやって、より良くしていくだけだ。


 落とし穴に近づくと、助けを求めるような、切なげな鳴き声が辺りに響いていた。

 鳴き声からして、まだ幼い鹿のようだ。

 もしかして、という思いを抱いてエヴァは小走りに落とし穴に向かう。


 落とし穴に近づくほどにその声は大きくなる。

 エヴァの中の期待は確信に変わっていた。

 落とし穴の手前で両膝を着き、恐る恐る下を覗き込む。

 赤い西日に照らされた穴の中に、円らな瞳でエヴァを見上げる子鹿は確かにいた。

 穴の底に逆立てて置いた折れた剣に後ろ足を切りつけられたようで、血を流していた。しかし手負いになったものの、それで命を失うということはなかったようだ。

 後ろ足を怪我し、立ち上がることもできず、落とし穴の底でひたすら助けを求めている。

 エヴァは腰に挿した剣に伸ばしていた手を止めた。


 このままあの子を手にかけていいのだろうか。


 思えばエヴァはこれまで直接誰かの命を奪ったことは無かった。

 離宮という檻でぬくぬくと育てられていた。だから殺生とは無縁で生きてきた。

 そしてエヴァは離宮を飛び出してから数え切れないほど死を体験してきた。結局は呪いで息を吹き返したが、あの子鹿はそうじゃない。エヴァが命を奪ったら、それまでなのだ。

 今さらじゃないか。

 心のどこかからそんな言葉が浮かんでくる。

 エヴァが生きるためにこれまでどれだけの生き物が殺されたという。離宮にいるときだって肉や魚は食べていた。オリゼだってエヴァのために獣を狩ってくれた。

 生きるためには、この子の命を奪わなければならないのだ。

 自分が手にかけるのをなぜためらうのか。


 エヴァは再び手を伸ばし、剣を抜く。

 やるしかない。

 エヴァは心の中で何度も子鹿に謝り、落とし穴の縁から身を滑らせて降りた。そして円らな瞳で縋るようにエヴァを見上げる子鹿の首を、剣で横薙ぎ、止めを刺した。





    ○  ●  ○





 エヴァの考えは浅はかだった。

 苦悩の末に子鹿をし止めたが、それを地上に持ち上げる術を考えていなかったのだ。

 エヴァ一人なら、何とか壁をよじ登ることができるが、子鹿を抱えてとなると難しい。子鹿はエヴァが思うより重かったのも引き上げを困難にしている要因の一つと言えた。


 そして散々悩んだ挙句、エヴァは一人で落とし穴を這い出て、地平線にもぐりこもうとする太陽と競争するように地を駆け出した。


「オリゼ! オリゼ!」


 落とし穴からオリゼのなわばりまで近くはない。エヴァの足で歩いて一刻ほど。

 でも走ればそれよりもっと速く着く。

 日没が迫る中、エヴァはとにかくオリゼを探した。

 かつてないほど全力で走ったから、心臓が破裂せんばかりに高鳴っている。

 それでも、不死の呪いはそれぐらいじゃ負けないだろう。多少無理できるこの体はそういう利点があった。


 エヴァがオリゼのなわばりに入って間もなく、西日を受けてより赤みの増した臙脂色の鱗を持つ竜が東の空から現れた。

 エヴァの不死の呪いの気配はこういうときにも便利だ。竜たちがエヴァに気付きやすい。


『まぁ、どうしたの? そんなに息を切らして……』


 地に舞い降りたオリゼは顔を真っ赤にして、肩で息をするエヴァを不思議そうに見下ろした。


「あのねっ」


 乱れた息ではまともに言葉をつむぐことができない。

 荒い呼吸の中、時々咳き込みながら、何とかオリゼに伝えようとする。


「狩りが、うまくいったの。だから、オリゼに、食べて欲しくて!」

『まぁ』


 オリゼは目を見張る。


「あの、だからっ。その、落とし穴の、所まで来て欲しいの」

『ええ、分かったわ。あなたが土を掘っていたところよね?』


 エヴァの様子を度々伺っていたというオリゼはすんなりと事態を理解する。小さな子どもの拙い言葉による必死な訴えをすぐに理解する母親のような顔をしていた。

 エヴァは何度も頷いて、きびすを返した。


「こっちよ」


 案内は必要ないと分かっていたのに、ついそんな言葉を口走っていた。

 そして再び忙しなく足を動かした。


 いつかの逆だった。

 オリゼはすでに落とし穴の場所を知っているのに、地を走るエヴァに着いて行くように空を行く。

 エヴァは度々振り返りながら、オリゼの優しさが嬉しかった。


 太陽が地平線に半分潜り込んだ頃、ようやくオリゼを落とし穴のところに案内できた。

 子鹿を地上に引き上げられないのなら、オリゼに穴に顔を突っ込んで貰おうというわけだ。こんなやり方、彼女が気を悪くしないかだけが心配だった。


『まぁ、小さな鹿ね』


 落とし穴を覗き込み、ぐったりとする鹿にオリゼは目を細めた。


「もっと、もっと大きな、獣を狩れるように、私頑張るから!」


 本日二度目の全力疾走はなかなかキツイ。

 でも日が完全に暮れるまでにオリゼに獣を贈りたかった。


 エヴァは落とし穴の底になまくらとはいえ、折れた剣が逆立ててあることを思い出し、慌てて落とし穴に滑り込んだ。

 竜の頑丈な鱗がなまくらに負けるわけがないと分かっていたが、できるだけオリゼが傷つくことは避けたい。

 だからエヴァは落とし穴の底から子鹿を持ち上げて、できるだけオリゼが食べやすいようにした。

 オリゼは落とし穴の入り口まで首を伸ばすと、口から舌を突き出し、エヴァが持ち上げる子鹿を絡めとり、そのまま首を持ち上げた。


 そっか、竜は体も頭も大きい。だから舌も長いんだ。


 落とし穴からオリゼを見上げるエヴァの目の前で、オリゼは子鹿をたった三回噛んだだけで、飲み込む。

 そして満足げに喉を鳴らした。

 エヴァは見事な食べっぷりに目を丸くしつつ、落とし穴から這い出た。


『ありがとう、エヴァ。とても柔らかくて美味しかったわ』

「本当? 良かった。今度はもっと大きくて、食べ応えがあるものを贈るわ」

『あら、それは楽しみね。でもそうね、これであなたも狩りができるようになったのね』


 オリゼはどこか寂しげに呟く。エヴァはそんな彼女を元気付けたくて、思わず言った。


「まだ完璧じゃないわ。オリゼにまた頼ってしまうかもしれない」

『まぁ。それならまた暇を見て、何か持ってくるわ』

「ありがとう、オリゼ」


 竜にとっての独り立ちは初めて狩れた獲物の首を捧げることで達成されるという。

 エヴァは一応それを成し遂げたが、まだまだオリゼの世話になりそうだった。


 これじゃあ結局独り立ちなんて言えないな、と自分自身に呆れてしまった。

 それでもオリゼは寂しそうでありつつも嬉しそうで、とりあえずは良かったということにしよう。

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