第13話

『そうだわ、エヴァ。あなたの獣を獲ってきたのよ』


 オリゼは体をよじって、エヴァに自分の背中の向こうを見せる。

 エヴァよりも大きな体をした鹿が血を流して倒れていた。


「そんな、いいの?」


 これでオリゼに獣を狩って貰うのは二度目である。


『いいのよ。あなたはまだ一人で狩りができないでしょう?』

「そうだけど……。でも何度も世話になるのは何だか悪いわ」

『そういうことは自分のことは自分でできるようになってから言うものよ』


 オリゼの言う通りだった。今のエヴァは死にはしないけど、生きていくためには誰かの助けが必要だった。

 オリゼにとって、エヴァは雛のように見えるのだろう。


『そういえば人間は焼かないと肉を食べられないんだったわね』


 食べられないことはないが、安全の保証はない。

 エヴァの場合は食中毒でも死にはしないが、回復するまで何日、下手すれば何週間も苦しむ破目になる。

 死なないのは便利だが、苦しいのはごめんだ。


 オリゼは大きく息を吸うと、横たわる鹿に炎を吹きかけた。


 竜って火を吹けるんだ。

 前世の記憶の中では、竜とかドラゴンは確かに火を吹いたりしていたが、こっちの竜が実際にどうなのかは分からなかった。

 そもそも最初に話した竜だって、地面に根ざしていたんだから、想像を超える事をしてもおかしくはない。

 オリゼの至って想像通りの行動が、エヴァには新鮮に映った。


 そしてオリゼは火の扱いに長けていた。

 エヴァの目の前で、鹿は絶妙な火加減で焼かれてゆく。エヴァの元までおいしそうな香ばしい香りが届き、唾液が溢れそうになった。

 ここ一週間は屋敷から持ってきた果物と煮込んでグズグズになったスープしか食べていなかったから、焼きたての肉の気配はエヴァの食欲をかきたてる。


『こんなものでどうかしら?』


 オリゼはそう言うと、前足の片方で鹿の腹を抑え、もう片方の前脚で鹿の後ろ足を掴むと、軽々と引きちぎる。

 飛び散る肉片と肉汁。そして漂う香ばしい焼肉の香り。


「おいしそう……!」

『美味しいに決まっているわ。私が用意したんだもの』


 オリゼは引きちぎった後ろ足をエヴァに差し出す。

 オリゼは軽々と片手でぶら下げていたが、後ろ足はエヴァの顔より大きくて、両手で抱えるほど大きい。

 この地の獣はどういうわけか規格外に大きかった。

 それでも何とか受け取り、一思いにかぶりつく。

 服を肉から滴る油で汚したが、構わなかった。服なんて廃墟にいくらでも残っている。それよりも口の中に広がる肉の味にエヴァの顔は綻び、何度も肉に食らいつく。

 そんなエヴァをオリゼは目を細めて見下ろし、また別の足を前足で掴み、引きちぎるのだった。


 その日の夜、懐かしい夢を見た。

 母の知り合いから、母の話を聞いたときの夢。


 母はエヴァを産み、すぐに亡くなったという。エヴァを抱くことができたかどうか、それもよく分かっていない。母は国王である父の妻であったが、政略結婚だったために愛のない夫婦であったという。長年子に恵まれなかったことから、父は側室を迎え、五人の子宝を授かり、その後母がエヴァを身ごもった。

 父にとって、母の妊娠は面白くなかったことだろう。

 母の子がもし男の子だったら、せっかく大事に可愛がっている側室との子を王太子に認めにくくなってしまうからだ。

 でも結果として生まれたのは女のエヴァだった。

 もしかしたら、不死の呪い云々よりも、父は女だと分かった時点で安心し、エヴァに興味がなくなっていたのかもしれない。


 まだエヴァが十歳にもなっていない頃だったと思う。

 剣術の先生が一人の客人を伴って現れた。剣術だけでなく、礼儀でも学術の先生でも、先生は勉強の時間にしかやってこないはずだった。

 その日は珍しく勉強の時間に関係なく現れて、エヴァにその客人を紹介した。

 その客人は母の古い友人だそうで、エヴァに母のことをいろいろ話してくれた。母のことなど何も知らなかったエヴァはその話を夢中で聞いた覚えがある。

 剣術の先生と客人はそんなに長い時間いなくて、最後にエヴァに今日会ったこと、話したことは誰にも内緒だと約束させて帰っていった。

 その後剣術の先生とは剣術の時間に会ったけれど、そのときのことはまるでなかったかのような態度だったし、そのときの客人ともそれっきりだった。

 先生の様子から、何か特別な事情があってそうしたのであって、誰かに話したら先生の立場も危ぶまれるのだと察した。


 夢を見たことで、そんなことがあったことを思い出したのだ。

 どうして忘れてしまっていたのだろう。

 前世の記憶よりもずっと簡単に思い出せるはずだったのに。


 エヴァは長くゆっくり息を吐き、寝返りを打つ。

 すると投げ出された手が固いものにぶつかった。


 首を捻ると臙脂色の巨体がそびえたつ。

 昨日おなか一杯に鹿を食べて、そのまま仮宿にしていた家に戻るのが煩わしく、星空が広がっていたことから天気も大丈夫だろうと判断して、そのまま地面に寝転んだのだ。

 エヴァが寝息を立てるようになって、その隣にオリゼがくつろいだようだ。オリゼにも寝床があるだろうに、悪いことをした。


『起きたの? エヴァ』

「おはよう。オリゼ」


 エヴァが上半身を起こして、地べたに座りこむ姿勢になると、オリゼは首を伸ばして優しく横面をこすり付ける。


『お腹は空いていない?』

「昨日いっぱい食べたから、大丈夫」


 以前オリゼが差し入れてくれた猪の肉は全て煮込んでスープにしてしまった。すっかりその味に飽きていたし、おいしいものではなかった。

 焼きたての、脂の乗った鹿は言葉に言い表せないほど美味しい。

 エヴァよりも大きな鹿は、当然エヴァ一人では食べきれなかった。エヴァに食べさせながらもオリゼも鹿を食べていた。

 竜は獣をそのまま食べて、火を通すことはないが、火を通した肉を食べられないわけじゃない。

 そして竜はその巨体を支えるために、それだけ食べなければならない。エヴァは何とか鹿の足を二本分食べきったが、残りはオリゼが片付けた。エヴァは足二本分平らげるのに時間がかかったが、オリゼは残りの鹿をわずか五口で胃に収めたのはびっくりだ。

 あっという間に鹿が無くなったのはエヴァも呆然とするしかなかった。


 そういえば竜が何か食べるというのは初めて見た。

 オルガはもう口から何かを食べることはなく、地下に張り巡らせた根から養分を、大地の活力を吸い上げる。もう竜というより植物に近かった。

 オルガ曰く、腹の中の種子がもっと成長すればそのうち話すこともできなくなるという。

 ただそのうちはずっとずっと先の話で、もう百年は大丈夫だろうとは朗らかに笑っていたが。


『そう、それなら私は見回りに行こうかしら』

「私も川に顔を洗ってくるね」


 サイマールの町の側には川が流れていた。流れも緩やかで、深さもエヴァの膝丈ほど。川幅はエヴァの歩幅で十歩もない。川というより小川。もしかしたら水路だったのかもしれない。


 オリゼはまた何かあったら呼びなさい、と言い残して空へと飛び立って行った。

 オリゼのおかげで、体力と気力を回復させることができた。サイマールの町で見つけた使えるものを回収して、根城にしている屋敷に戻ることにした。

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