第8話

 五日間降り続いた雨が上がると、雨が降る前より風が一段と冷たくなったような気がした。

 王国ではもう雪が降り、積もり始める頃だろう。

 ペルディナスでは開けた地形のためか、冷たく強い風が我が物顔で吹き抜けていた。

 ここでの冬をエヴァは知らない。

 でききっと寒いだろうし、食べ物も得にくいはずだ。

 予想できる限りの備えをして、迎えたい。例え死ななくても、寒いのとひもじいのは勘弁だ。


 雨で閉じ込められていた間に、屋敷の中をエヴァが過ごしやすいように整えたおかげで、ずいぶん快適になった。

 貴族の屋敷を盗賊が奪って根城にした、といったような有様だが、おおよそ事実と反していない気がする。

 エヴァは盗賊になったつもりはないけれど。


 備蓄していた食糧が底をつくのも近い。

 今日は何かを探しに行かなければいけない。

 狩りは明日以降になってしまう。その分冬支度が遅れてしまうが、やむ終えなかった。


 しかし冬支度をあれこれ考えつつ屋敷の玄関から出ると、玄関先に何か大きな物があるのに気が付いた。

 昨日までの五日間は雨もすごかったが、風も強かった。何か飛んできてしまったのだろうか。

 それを確かめに傍まで寄ると、信じられなかった。

 それはエヴァより二回りも大きな体をした猪だったのだ。

 どうしてこれがこんなところにあるのだろう。

 ごわごわな毛皮に触れてみるとまだ温かい。すでに息もしていないようで、ピクリとも動かない。完全に死んでいた。死んでそれほど経っていないようだ。

 猪がここで息絶えたというのだろうか?

 そんなまさか。だってこの屋敷は錆びて脆くなっているが、鉄柵が囲っている。猪の体にはその鉄柵を突き破ってきたような形跡はなく、綺麗な死に顔をさらしていた。


 猪の体を見て回ると、猪は全くの無傷ではなかった。

 背中の一番高いところに大きな爪で掴まれた跡が残っていた。この猪を掴んだ爪の主は優しく猪を挟んだようで、爪跡はあったが、それほど深くなく、血も滲んでいる程度だった。

 その爪跡を見て、また柵があるのにその形跡がないことを考えて、エヴァは一つの可能性に辿り着く。

 オルガの元に行ってみることにした。






    ○  ●  ○






 オルガの姿がもう少しで見えるだろう頃、根付いたオルガの前にまた別の巨体があることに気が付いた。

 一頭の竜がオルガの元を訪ねているようだ。

 二頭の竜の会話は、まだ遠いから聞こえない。しかし遠目から見る彼らはとても楽しげで、会話が弾んでいるようだった。

 せっかく楽しんでいるのだから、水を差してはまずいだろうと、一度は立ち去ろうと体を捻るも、竜たちがどんな会話をしているのか気になって、結局オルガが根付いたところに近く、横になればエヴァの小さな体を隠せそうな丘の下に身を潜め、彼らの会話に耳を傾けることにした。

 会話に夢中なら、エヴァには気付かないだろう。

 盗み聞きになってしまいだろうけど、ばれなければ大丈夫だ。

 エヴァはそう自分に言い聞かせて、目を閉ざし耳を澄ませた。


『そうか、あの子にも伝えておこう。わざわざありがとう』

『気にしないで。あの子がどうであれ、オルガが受け入れたなら、私たちはそれに従うまでだわ。それに……』


 オルガの話し相手は雌の竜のようだった。エヴァがここに連れて来られたばかりの頃、エヴァを巡って話し合っていた竜とはまた別の竜のようだ。

 雌の竜もここにやってきているんだ。

 大地に根付いたオルガを守るために竜たちはやってきた。だからてっきり、こっちにいる竜は屈強な雄の竜ばかりだと思っていた。

 かといって、遠目から見た雌の竜はオルガと比べて体が小さいということもない。


 間もなく竜たちは別れの言葉を交わし、雌の竜は数歩退いて翼を広げ、力強く大地を蹴った。

 離れたところに潜んでいるエヴァのところまで揺れたんじゃないかと思うほど、雌の竜の跳躍はたくましいものだった。


 雌の竜が空の黒い点になったのを確かめてから、エヴァは丘の下から体を起こし、オルガの元へ再び向かう。


『おや、ようやく顔を出したな』

「そんなにしばらく会っていなかったかしら」


 前に会ったのは雨が降る前。久しぶりといえば、久しぶりかもしれない。

 だが、オルガはそういう意味で言ったのではなかった。


『ずっとあの丘の下に隠れていただろう。一体どうしてそんなことをしたのかね』


 オルガの口調は決してエヴァを責めるものではなかった。純粋な疑問として、優しく投げかけられた。

 エヴァはその穏やかな言葉に安心し、素直に答えた。


「あなたたちが楽しげに話していたから、邪魔をしちゃいけないと思ったの」

『そうだったのか』

「ごめんなさい。盗み聞きするつもりはなかったの」

『いや構わないさ。君の事を話していたんだ。さっきの竜はオリゼという。オリゼは君がうまく狩りをできないことを心配して、獣を差し入れたと言っていたが』

「あの猪のことね? 実は私もそのことをオルガに聞きに来たのよ」


 エヴァはオルガの頭の近くに腰を下ろした。

 長話になるときは、エヴァはいつもオルガの頭の近くに腰を下ろす。こうすれば、オルガも無理に首を動かさないで済むし、エヴァも楽だった。


『獣は食べたかね』

「まだよ。いきなり置いてあるから、何かよく分からなくて。でも戻ったら解体するわね」

『そうか、人間は獣を食べるときはバラバラにするんだったな』

「ええ。やったことはないけど、何とかやってみるわ。オリゼ、だったわね。彼女にもお礼を言っておかないといけないわね」

『オリゼは君に興味があるようだったから、直接言いに行っても大丈夫だろう。君の巣の東に彼女のなわばりがある』


 オルガを守るため、ペルディナスの地を竜たちは守っている。

 元々竜は自分のなわばりを作って、そこを守る習性があるらしく、オルガを守るというのは、彼の周りを自分たちのなわばりで囲う、ということらしい。

 竜たちは自分のなわばりの中に人間などオルガを害するだろうものを見つけると、すぐに対処するようになっているとか。

 つまりエヴァが山を突破して倒れていたところはアルバという竜のなわばりであったということだ。


 さらに東のグオルディアス王国はペルディナスを竜に奪われた当初は兵を送り、この地を奪還しようとしていたが、ここ半世紀ほどは音沙汰がない。

 この地との間にある山脈は、王国を囲う山々の中では一番低いが、それでも厳しい地だ。さらに越えられるのは初夏から初秋までと非常に短い。兵を送り込むのも簡単な話ではなく、王国はこの地の奪還をほぼ諦めてしまったのだろう。

 だからこそ、この地の東側は危険ではないと竜たちは判断し、竜たちの中では若く未熟なアルバという竜が任せられているらしい。


 エヴァは自分をオルガの元につれてきたアルバという竜に一度会って、ちゃんと話してみたいと思っていた。彼はエヴァを始め、人間のことをそこまで悪く思っていないだろうから。

 それに彼のおかげでエヴァも一応の安全を得られたのだ。

 ちゃんとお礼を言っておかないと。


「でもオリゼはどうして私に獣を贈ってくれたの?」

『君が狩りをうまくできないからだろう?』

「それはさっきも聞いたわ。オルガが頼んだの? 私が狩りが上手くいってないって言ったものね」

『我は何も言っていないさ。オリゼは自分から獣を君に差し入れたんだ』

「どうして?」

『きっと子どものように思えたのではないか?』

「子ども? 私はもう十四よ。竜は三年で巣立つのでしょう? 人間もそろそろ巣立ちを迎える頃よ」

『狩りも満足にできぬのにか』

「それは……。今までは必要がなかったから」

『でもこれからは必要であろう? ならまだ子どもだ。竜は子どもが狩りをできるようになるまで親が面倒を見るんだ』

「つまり私が一人で狩りができるようになるまで、オリゼの世話になるってこと?」

『君がどう思っていようが、彼女はそうするだろうな。彼女はもう五頭も子どもを育て上げた母親だ。子育ての達人でもあるよ』


 竜でも一生のうち五頭も子どもをもうけることは珍しいという。大体一、二頭が普通だという。

 竜は人間よりずっと長く生きるが、繁殖はそれほど多くないという。竜が増えるというのは、彼らの神がそう望んだから、そうなるのだという。

 竜たちは独特の世界観を持っているようだ。


「でも何だか悪いわ。私、オリゼに何もお返しができないもの」

『気にすることはないさ。オリゼは好きでやっているのだから。ああ、そうだ。君に言っておかないといけないな』

「え、何?」

『君の中に渦巻く力のことだ』


 エヴァは不死の呪いのことを言われると分かると、わずかに前かがみになり、胸の前に手を持ってきて、知らずに自分を守る姿勢をとっていた。

 オルガはそんなエヴァを気にせず続ける。


『その力はとても強い気配を放っている。例え君が隠れていても、我らには君がそこにいると分かるのだよ』

「え?」


 つまり盗み聞きはオルガだけでなくオリゼにも気付かれていたということだった。

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