第2話

『目が覚めたかね』


 ようやく体の調子が戻り、体を捻って起き上がったエヴァにそんな声がかけられた。

 何度目か気を失う前にかけられた、落ち着いた声音の主のようだ。

 首を巡らせると、いつか目に留めた黒い大岩が視界に入る。


『こっちに来てみなさい』


 やっぱりあの大岩から声がする。

 どうせ死なないんだ、とエヴァはどこか背水の陣の心構えで足を向けた。


 その大岩は平地の真ん中に不自然に鎮座していた。

 まるで空からここに放り込まれたようにぽつんとある。

 大岩はとても大きくて、高さは今年で十四を迎えるエヴァよりもずっと上にあって、幅は両手を広げても全く足りない。

 こんなものがどうしてこんなところに、と疑問を抱きつつ近づき、ふとした瞬間に気が付いた。


 これは大岩なんかじゃない。

 あのとき視界を横切ったものと同じ、竜だった。ただその竜は翼を片方は閉ざして、もう片方は広げて体に、そして地に垂らしている。長い尾も、鱗で覆われた首も頭も、丸太のように太い四肢も全て、力なく地に投げ出されている。

 まるで穏やかに死を待っているかのようだった。


 エヴァは言葉を失った。

 竜を間近で見るのは、もちろん初めてだ。

 その大きさ、存在に圧倒され、恐怖より先に畏怖を抱く。


 穏やかな竜の金の瞳がエヴァに向けられていた。


『竜を見るのは初めてかね』


 エヴァは頷く。それは正確ではなかったけれど、大差はなかった。

 息をするのを忘れていたようで、むせるように息を吐き出し、何度か忙しなく呼吸をした。

 そんなエヴァの様子を竜はじっと見つめていた。

 何か言わなければ、そう考えて、ようやく出た言葉は


「竜って、しゃべれるの……?」


だった。

 竜は呆けたようなエヴァの様子に喉の奥を引きつらせて笑った。


『我らも言葉を持っているさ。だが人間に通じたことは無かったな』

「私も竜が喋れるなんて知らなかった。これまで関わったことがなかったからかな」


 エヴァの生きるこの世には竜が実在することは知っていた。でも竜は人間と比べてとても大きく、強大で凶悪な存在だといわれていた。

 まず近寄ろうとは思わない。

 不死の呪いを基にした胆力が無ければとても立っていられなかっただろう。


『きっと君の中に渦巻く力のおかげだろう』


 エヴァはその力とやらに覚えがあって、胸に手を宛てた。

 不死の呪いだ。それはエヴァの中に常にある。この力はエヴァが傷ついたりしなければ働かないようで、今は落ち着いている。


「この力が分かるの?」


 この力が働いていないと気付かれないと思っていた。

 竜は驚くことなく頷いた。


『もちろんだ。その力は我らの神に由来するもの。人間がその力を持っているとは知らなかったがな』


 そういえば竜たちが話しているときもそんなようなことを言っていた。我らの神、すなわち竜の神。竜たちが神を持ち、崇めていることも当然知らなかった。


『その力が、我と君の言葉を繋げたのだろう。ああ、そうだ、まだ名乗っていなかったな。我はオルガだ』


 竜にも個人名があるんだ、とよく考えれば当たり前なことに感心する。


「エヴァ=ノリュシュ……。いいえ、エヴァよ」


 竜に長ったらしい名前を名乗ったって仕方ない。それに王国ではないここではもう意味がないのだから。


『エヴァか、君は東の山脈の麓に倒れているのをアルバという竜が見つけて拾ってきたんだ。君の中に渦巻く力に惹かれたのだろう。悪いことをしてしまったな。君も目覚めたことだし、東の山脈の向こうに届けさせよう』

「それは駄目!」


 咄嗟にエヴァは叫んでいた。

 叫んだ自分もビックリして、オルガも目を丸くしていた。


 しかしそう叫ぶのも無理は無い。

 エヴァはここから東の山脈の向こう、グオルディアス王国の王女の一人だ。しかし不死の呪いを受けて生まれたために父である国王から疎まれ、離宮で閉じ込められて育った。

 エヴァはつい先日、そこを飛び出してきた。

 そうせざるを得なかった。そうしなければ、死ねないエヴァが死よりも恐ろしい目に遭わされることになっただろう。

 エヴァには腹違いの兄弟が五人いて、グオルディアス王国では腹違いの兄が次の王位継承者、王太子となっている。

 離宮に閉じ込められていたエヴァは彼にも、父にも、他の王族と会った事はなかった。

 それなのに、王太子を暗殺しようとしたという濡れ衣を着せられたのだ。不死の呪いを受けたエヴァの言い分など彼らが聞くわけが無い。

 エヴァは逃げるしかなかったのだ。


 グオルディアス王国は四方を険しい山に囲まれた国だ。そして秋も深まったこの時期は国を囲う山々は雪を被り、越えるのは難しくなる。

 エヴァはそんな寒さの厳しい山を薄着で単身進入し、突破した。

 人に疎まれ、エヴァ自身も良く思っていなかった不死の呪い。それが無ければ成せぬ荒業だった。

 東の山脈の向こうグオルディアス王国からの追手はこれでとりあえずは撒くことができただろう。

 山脈だけではない。

 東の山脈からこっちは今、オルガを始めとした竜たちが占拠した土地。竜たちは人間が近づくと追い払い、寄せ付けないと聞いている。

 エヴァがこの地に飛び込んだのは、やむ終えなかったからだ。

 まさか竜に拾われるとは思わなかったけど。


「東の国は、駄目なの」


 エヴァの必死な様子にオルガは何かを察したのだろう。別の選択肢を示した。


『ならば西の河の向こうにしよう。そっちにも人間の群れがあるだろう』


 グオルディアス王国の西に山脈、そして竜のいるこの地、そして大河とあってその向こうに別の国があるとは聞いたことがある。

 しかしグオルディアス王国は険しい山に囲まれた国で、外界と通じる道はこの地との間にある山脈にしかない。

 グオルディアス王国は四方を険しい山に囲まれているが、王国の西にある山脈だけは一段低く、春の終わりから秋の中頃まで雪が無く、通行できるようになる。

 王国西の山脈の前の地を竜が占拠してしまったためにその道をも無意味になってしまった。竜に占拠されて百年あまり、グオルディアス王国は外界からの接触をほぼなくなってしまっていた。


 離宮に閉じ込められていたエヴァが、西にある国に伝があるわけがない。

 エヴァは弱弱しく首を横に振った。


『いいのかね?』

「ええ……」


 力なくエヴァは返す。

 ここに来て、エヴァ元来の弱気なところが顔を出した。寒さの厳しい山脈を突破し、竜が占拠する地に飛び込んでおいて、今さら怖いものなんて無いといえるけど、やはり人が怖い。

 不死の呪いを知られ、拒まれるのが怖い。


 だとして、どうしたらいいのだろう。

 そのとき思いついたのは、突拍子も無いこと。


「もし、もしだけれど、あなたたちがいいのなら……。ここに留まってもいい?」


 オルガは再び目を丸くする。


『ここに? 我らは別に構わないが、いいのかね? ここに他の人間はいない。人間は群れを成して生きるものだろう? 辛いのではないか?』

「覚悟の上よ。あなたたちの邪魔にならないようにするわ」

『君がそれでいいなら、そうするといい。君の事は我から皆に伝えておこう』

「ありがとう、オルガ。心から感謝するわ」


 とりあえず、この地にいればグオルディアス王国の追っ手が迫ることは無いだろう。

 王国は元々外界との接触を極力減らしていたし、竜がこの地を占拠してからは引きこもり状態だ。それでも国として回っているのだから、あの国はすごい。


「オルガ、一つ聞いてもいい?」

『何だね。我も暇だから付き合おう』

「ありがとう。あなたたちは百年ぐらい前にここに来たのでしょう? なぜここに来たの?」


 この地はペルディナスとかつて呼ばれていた。

 グオルディアス王国の支配下にあったが、半独立国として交易で栄え、グオルディアス王国の唯一の開かれた場所だった。しかし百年ほど前、北より突如竜が現れ、この地に住んでいた人間を追い払い、そしてずっと占拠している。

 グオルディアス王国も唯一の外貨稼ぎの場を竜に奪われたままにさせておくわけには行かず、何度か兵を進めたが、結局は竜には敵わなかった。

 王国はいつしかこの地を諦め、外への道を竜に塞がれたまま、百年の時が過ぎてしまった。


 竜は人間を追い払うし、エヴァのように言葉が通じるわけではなかった。

 だから竜たちがここに現れた理由が分からずにいたのだ。


『もっとこっちに来てみなさい』


 エヴァは促されるままにオルガに歩み寄る。手を伸ばせばその黒い鱗に触れられるぐらいまで迫った。

 オルガの鱗は黒真珠のように深い色をしていて、磨けばエヴァの顔が映りこみそうなほど、滑らかだった。


『我の足元を見てみなさい』


 視線を鱗から彼の足元に移す。はじめはどうなっているのか、まるで理解できなかった。しかし、じわじわと綿に染み込む水のようにゆっくりと頭が状況を理解してゆく。


「ど、どういうこと……」


 オルガの足や腹、地面に接するところは全て、その体から白く、細かい糸のようなものが無数に伸びていて、彼を地面に縫い付けていた。


『これが我がここにいる理由だ』

「そんな、どうして……? 何かの呪いなの?」


 困惑するエヴァにオルガは面白がるように笑い声を上げた。


『いいや、これは使命だ』


 オルガはその金の双眸で優しくエヴァを見つめて語る。


『我はかつて、とある果実を食べた。その果実の中にあった種子が我の腹の中で芽を出し、根を伸ばし、我を貫いて大地に根付いたのだ』


 エヴァはその話に言葉を失った。


『我が種子は大地の活力が満ちておらねば成長しない。この地はその条件を満たしていた。だから我は仲間を率いてここまで下ってきたのだ』

「痛くないの?」

『くすぐったいな』


 自分の体の中で植物が成長すると考えると、なんだかぞわぞわする。エヴァは自分の腹に手をやった。


「使命って、どういうことなの?」

『我の種子は晶樹の種だ』


 話だけは聞いたことがあった。

 葉も、枝も、幹も、根も、何もかも水晶のように固く、透き通った植物が存在すると。


『晶樹というものは本当に特別なもので、大地が望まねば決して芽を出すことがない。それが我の中で芽を出すということは、すなわち大地の意思。我はその苗床として選ばれたのだ』


 壮大な話だった。

 エヴァにはなかなか消化しきれる話ではない。理解の範囲を超えていた。


『とは言っても、成長はとても緩やかでな。ここに来て、ようやく根を張ることができたのだ』

「もっと時間がかかるの?」

『おそらくな。百年も二百年も、もしかしたら千年もかかるかもしれない。根を張ってしまえば我はもうここを動けぬ。だから仲間たちに我を守ってもらっているのだ』

「そうだったのね」


 誰がこんな理由を想像しただろうか。

 竜がこの地に現れたのは、根付き、樹として成長するためなんて。

 言葉が通じて分かり合えると思えた竜は、エヴァの想像を越える生き物だった。


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