フレンドリースマイル

志賀福 江乃

第1話

少し、昔話をしてもいいかしら?


 先生のヤスリを擦り合わせたような声が締め切った楽屋の中に響く。先生のほっそりとした筋肉のついた背中を白く塗っていると突然、そう話しかけてきた。もちろんです、と返せば先生は、ありがとうと、少し笑った。この部屋の黄色いランプに少し照らされた鏡越しに見える先生の顔はどこか懐かしむような、それでいて悲しげな表情に見えた。



 私は小さい頃から何もない子だったの。ある日親に連れて行ってもらった『白鳥の湖』を見てバレリーナに憧れてしまったというだけの、顔も体型も何一つ特出したものがない、平凡な子だった。バレエを始めてから私は骨格も悪い、筋肉の質も、柔軟性も、顔やスタイルだって何一つ私にはいいところがないとすぐに気づいた。初めての発表会、私の立ち位置は一番後ろの一番端。センターで輝いていた子は可愛くて、スタイルも良くて柔らかくて骨格もいい、完璧な子だった。その子の悪いところ、といえば高慢ちきだったことだと思うわ。同じ時期に始めた子だったのに、その子は先生達にちやほやされて愛されて育った。一方の私は先生達にとってただの金づるだったでしょう。けれど私はバレエの魔力に魅せられてしまっていたからね。いつか、バレリーナになることを夢見て必死にレッスンした。いくら自分が注意していただけなくても、他の人の注意まで自分の注意だと思ってよく聞いて真似して練習に励んだわ。


 そんな日々がぴったり嵌った歯車のように繰り返し繰り返し続いてしばらく立ったある日。ついに我慢ができなくなった私はいつも私達のレッスンを担当してくれる、つまようじ先生にどうして私にはしっかり教えてくれないんですか?と聞いたの。あ、つまようじ先生っていうのはあまりにも細くて顔も小さいから生徒たちが影で呼んでいたあだ名の先生よ。先生はふっ、と鼻で笑ってこちらを嘲笑した。そして、まだ小学生だった私には、とても受け止めきれないような残酷な文字をつらつらと並べ始めた。


「だってあなた、骨格も体型も悪いじゃない?胴長短足、骨太で変なところに骨が出てるし、O脚で股関節も内側に入ってる。いくら頑張ったって生まれ直さない限り無理ね。楽しくのほほんと趣味程度で続けるならいいんじゃない?まさか、バレリーナになりたいだなんて思ってもいないでしょう?」


 身の程を知りなさい。と遠回しに言っていることが小さい頃の私にもわかった。その帰り道、しとしとと梅雨らしい雨が降っていた。傘もささずに歩いたわ。心がぽっかり空いて、すべてがどうでも良くなって。それでも喉がきゅう、と痛くなった。私の体を冷やす雨もいつもなら嫌だなあと思うのに、そのときは何も思わなかった。けれど私の頬が濡れていたのは雨だけのせいじゃなかったと思う。雨はしょっぱくないものね。私はとうとうこらえきれなくなって道端で蹲った。そうしたら大丈夫?と可愛らしい声が聞こえたの。振り返ったら見知らぬお団子頭の女の子が私に傘をさしてくれていた。


「そんなところにいたら風邪引いちゃうよ?」

「あ……、ありがとう。」

「タイツにお団子、貴方もバレエやってるのね!ね、一緒に家でおやつ食べよ!」


 困惑している私の手をぱっと掴んでその女の子は走り出したの。私は突然のことに驚いてしまい、すっかり涙は引っ込んだわ!目元の熱さは消えないまま、その子の家についた。優しそうなお母さんがまぁ、お友達!?びしょ濡れじゃない!と大袈裟なほど慌ててくれて、タオルと着替えを貸してくれたの。私はそこまでしてもらうのが申し訳なくて何度も遠慮したけれどその子もお母さんも少し強引で、結局断れなかった。私の母にその子のお母さんが連絡してくれて迎えに来てもらうまでの間、その子と一緒にとあるバレエ団のDVDを見せてもらった。


「ねぇねぇ、お名前聞いてなかったよね!」

「え……、そう、だね。」

「もう、さっきっから暗い顔ばっかり!あ、私の名前はまいかっていうの!」

「私は……まい。」

「似てるね!名前!」

「う、うん。」 

「どういう漢字?」

「まいは舞台の舞だよ。」

「あ!私もね、舞に花って書いて舞花だよ!一緒だね〜!」


 キャッキャと喜ぶ彼女に自然と笑顔になった。一緒だね、というのは本当に力強い言葉。比べるわけでも下卑するわけでもない。同じだって認めてくれることは例え名前だとしても嬉しかった。


「あ、ほら始まるよ!」

「何見るの?」

「えっとね、『白鳥の湖』!」

「あ、私すっごく好き!」

「私も!ちょっと眠くなっちゃうけど綺麗だよね!」


 二人で小さな液晶の中で羽根のついたように舞うバレリーナを見た。私もこうなりたいと強く思った。しかしそれと同時に思い出すのはつまようじ先生の言葉だった。思い出して、悔しくなってまた目が熱くなって喉が苦しくなる。鼠色の箱の中で舞う人々の純美な様に目が向けられなくてまだ乾ききってないタイツをぼうっと見つめた。それに気づいた舞花はどうしたのー?と無邪気に笑いかけてくれたの。


「あのね、先生が、ぐす、私はバレリーナになれないって……。」


 しゃくりをあげてもう一度泣き始めた私に、少し戸惑ったような表情を見せたあと、彼女も少し顔を歪めた。悔しそうな、けれど瞳の奥に燃える炎は消えていなくて。それからぱっと笑顔になると舞花は大丈夫だよ!と親指を立てた。


「本当に心からなりたいって思えば、何にでもなれるんだよ!私もね、お教室の先生からあんたは小さいからバレリーナなんてなれないって言われたの!でもね、絶対そんなことないって信じてる!」

「なんで信じられるの?」

「うーん、なんとなく!努力したらその分願いは叶うんだって!だから、その先生も悔しくて何も言えなくなっちゃうくらい、うまくなって、素敵なバレリーナになろうよ!!それでどっちがさきにバレリーナになれるか競争しよ!」


 うん!と私が力強く頷けばその子はえっへんと満足そうに胸を張った。確か2幕の白鳥達をうつしていたDVDも3幕の黒鳥の32回転をうつしていて、液晶の中の舞台も終焉に近くなっていたころだったわ、ピンポーンと、家のチャイムがなったのは。ガチャ、と玄関の開く音がして、お母さんのすみません、本当にありがとうございます。という聞き慣れた声がした。


「来たみたいだよ!行こう!」

「うん!」


 二人でバタバタと玄関に向かえばお母さんがホッとしたような顔をしたあと、いつも私に怒るときみたいに少し眉を寄せてもう、とため息をついてたわ。ありがとうございました!と私が大きな声でいえば、舞花ちゃんのお母さんはまた遊びに来てね、と優しい声で言ってくれた。舞花ちゃんはいつか大きくなって、一緒の舞台に立とうね!約束だよ!と小指を差し出した。私も彼女の小指に指を絡めてゆびきりげんまんと大事な大事な約束をしたの。それ以来私はもっともっとバレエを練習した。筋トレも柔軟も毎日やったし、レッスンがある日は一番遅くまで残った。つまようじ先生のお小言も少なくなって、注意してくれることが少しずつ増えた。私にとって先生から注意されないっていうのは見捨てられたも同然だから、注意されることが一番嬉しかった。理不尽な怒られ方をするときもあったけど、きちんと注意してくれるようになったことが嬉しくて私はその注意を何度も何度もノートに書いて思い出しては家でやってみて、レッスンで実践してってやっていたわ。なんだか、その頃が一番楽しかった。ただがむしゃらに目標に向かって突っ走って……、あら、私達の場合は踊り狂うって方が正しいかしら?ふふふ、沢山学問をお勉強してきた他の人が見たら、踊りバカ共が!って崖から突き落とされるかも。




 そうやって純粋に素直にレッスンしてきたのが糧になったのでしょうね、高校生になって私は大きなバレエ団の特別公演のオーディションを受けさせてもらえることになった。普通ならばこの役をやりたい!と役を選んでからその役になるためのオーディションを受けるのだけど、そのオーディションははじめに出演者を決めてから役を当てていくという方式だった。主に若い世代を育てるための舞台で、高校生、大学生くらいが中心となって配役を決めるらしく、あんたも受けてみれば?とつまようじ先生から雑に紙を渡された。ツンと目を合わせない先生に思わず私は笑みが溢れてしまったわ。こう言うのって確か、ツンデレとかいうんでしたっけ?ふふふ、今考えればあの先生も可愛らしいものね。だんだん先生との付き合い方がわかってきた私はありがとうございます!と全身で喜びを表現して先生から紙を受け取った。

 家に帰ってからすぐさま応募し、オーディション当日まで更にレッスンに気合を入れてやったわ。それはもう普通の人ならば飽き飽きするくらい。でも私は毎日が楽しくって稽古場までの道は輝いているように見えたし、乗りなれた電車だってテーマパークのアトラクションのように感じたのよ。退屈(マンネリズム)なんて言葉はどっかにふっとばしてしまうくらい、毎日が新鮮でキラキラと金平糖のように輝いていたわ。


 そしてオーディション当日、着いた場所は海外のバレエ団のように大きな門と綺麗な建物だったわ。荘厳で静かな感じに少しドキドキしながら私はよし、と気合をいれて中に入った。本当は同じ教室の子も受けるから一緒に行こうかなと思ったけど、無駄に集中力を削がれるのも嫌でお互い別々に行くことになった。受付を済まして更衣室に向かえば私とは月とスッポンくらいの差がある少女たちが沢山いたの。もちろん私がスッポン。あぁ、受からないかもなぁと私は思ったわ。その中でも手足のとても長い女の子にパッと目が惹かれた。少し背は低かったけれど存在感があって一つ一つの動作や表情が絵画のような子。よくよくその子を見ればかつて約束を交わした舞花だったのよ。それはもうびっくりして大きな声で、あっ!と声を出してしまったわ。すると彼女もこっちに気づいてぱぁ!っと笑顔を満開にして嬉しそうに駆け寄ってきた。


「久しぶりね!舞ちゃん!」

「久しぶり!舞花!」


 手を取り合って再会に喜んでいると、オーディションを受ける方は集合してください。とアナウンスがかかった。わらわらと歩いていくみんなに続いて私と舞花も更衣室を出ていった。


「良かった……続けててくれて。」

「約束したもん。むしろ、私のこと忘れないでいてくれてありがとう。」

「ふふふ、こっちこそ。」


 今日はお互い頑張ろうね!ともう一度指切りをして分かれた。ピリピリとしたスタジオ内の空気と少女たちの真剣な表情を見て、私も心臓がどくどくとうるさくなった。バーに乗っけた足をさすりながらちらっと舞花の方を見たの。そうしたら彼女楽しそうに嬉しそうに微笑みながらストレッチしていたのよ。あぁ、なんて肝の座った強い子なんだろうと思ったわ。そうじゃないときっとこの世界では生きていけないわよね。厳しい実力主義の世界だもの。私も思いっきりやろうって彼女を見て思った。どうせ周りは私より綺麗で可愛くて将来有望な子たち。だったら、悔いのないように思い切ってやろう。そう思えた。あの子のおかげでね。



 そして、オーディションが終わって、しばらくして結果発表の日になった。ドキドキしながら教室に行けば、つまようじ先生だけじゃなく、他の先生たちもいて、どこか真剣な表情をしていた。それを見た瞬間、あぁ、落ちたんだなと思った。お、おはようございます。と挨拶をしたら先生たちが一瞬驚いた顔をして、おはよう、早いね!とぱっと笑顔になった。無理に元気づけようとしてくれているんだろうなぁ、なんて考えながら私も微笑み返した。すると、教室の一番偉い男の先生、えっと周りからはマスターと呼ばれていたかしら……、その人が、がしっと肩を掴んだ。


「おめでとう!合格したよ!」


 そう言われた瞬間、ぱぁぁっと視界が鮮やかになって、そしてじわじわとぼやけていくのを感じた。嬉しくって嬉しくってそれでいて、どこか信じられなかった。夢じゃないかって思った。骨格もスタイルも何もかも悪い、私のバレエ人生はやっと始まったんだって初めて思えた。私のピクリとも動かなかった歯車が滑らかにやっと動き出したのよ!


「今まで、さんざん骨格が悪いからとか言ってごめんなさい。そうよね、何事も努力でカバーできるって貴方から学ばさせてもらった。本当にごめんなさい。そしておめでとう!」

「うぅ、先生ぃ〜!」


 つまようじ先生が突然そんなことを言い出すから私は思わず泣いちゃって先生方にあらあら、と背中を撫でてもらった。ふふふ、なんだか、今思い出すと恥ずかしいわ。1000人近く受けたうち、選ばれるのは100人。その中に選ばれただけで嬉しかったわ。それこそ舞い踊りそうなくらい!マスター先生は私の方に向き直ると、それで、役なんだが……と途端に真面目な顔になった。どうせ名無しだろうと思っていた私は役?と先生に聞き返した。


「そうだよ。君は名無しのコールドじゃない!君は大きな二羽の白鳥に選ばれたんだよ。」


 嘘でしょ……と溢れた声にふふ、とマスターが笑った。大きな白鳥といえば、2幕の主役の次に凄い役と言っても過言ではないでしょう?まさか名前のつく役になれるなんて思ってもいなかった私にとって本当に本当に嬉しかった。ただ受かっただけでも嬉しいのに、ね。本気で夢なんじゃないかと疑ったくらいだわ。さ、今日も頑張って!と先生達が解散していく。いなくなっていく先生達の後姿を見送ったあと私はただ一人そこでパチン!と顔を叩いたの。もちろん、すっごく痛かったわ!




 しばらくして白鳥の湖の公演に向けて練習が始まった。最初の顔合わせのとき、きちんと舞花もいることに安心して、二人で喜びを分かち合った。そして、役割ごとに発表されていった。まずは一幕の主要キャラクター達が紹介されていった。大きな2羽の白鳥のもう一人の人は私より年上の優しそうな人だったわ。ホッと安心したのも束の間、ついに主役のオデットとオディールの発表になった。白鳥役と黒鳥役ね。通常の白鳥の湖では一人二役になることが多いけど、その時のメンバーは流石に年齢も若いため、分けることになったのよ。そもそも、白鳥の湖、というのは悪魔ロットバルトによって白鳥にされてしまったある国のお姫様、オデットいわゆる白鳥がたまたま湖に来た王子様と恋に落ちる話でしょう?そこでオデットから愛し合う人がいれば呪いに打ち勝つことができることを聞いた王子様は結婚を決意、後日結婚式を開くから来てほしいとお願いをする。結婚式当日、事件が起きる。オデットにそっくりなロットバルトの手下、もしくは娘であるオディールが現れるの。その子をすっかりオデットと勘違いしちゃった王子様はオディールと結婚の儀をしてしまった!それによって王子様と、結婚できなくなってしまったオデットは悲しみ嘆き、湖に飛び込んで死んでしまう……なんて物語よね。王子様がオデットとオディールを勘違いするのも当然だわ。なんたってバレエの世界なら同一人物なんですもの、ふふふ。

 白鳥役の方出て来てください。そう言われてすくっと立ったのはまさかまさかの舞花だった。しっかりとした眼差しで、皆様よろしくお願いします!と挨拶をした。その瞬間、舞花が私にとってすごく遠い存在になってしまった気がしたの。あの子がどうしてなんてふと思ってしまって、少し自分のことが嫌になった。あの子だって努力してきたんだもの。主役に選ばれるのは当然。けれどなんだか悔しかった。そして悔しさを感じた自分も嫌で仕方がなかった。黒鳥の人も随分綺麗な人で美しい所作で挨拶をすると全員の挨拶が終わったようで拍手が巻き上がった。全員で頑張るぞー!おー!と掛け声をして、最初のレッスンにうつった。このときはワクワクしていたから気づかなかったの。歪んだ歯車が不快な音をたてて回り始めたことにね。

 その次のレッスンからは私と舞花のレッスン時間や場所が別々だったからなかなかあえなくなった。そうね、練習を始めて3ヶ月くらいたった頃かしら、全員の合同練習があったの。みんなが集合し始めたとき、突然みんながざわついた。入り口の方を見てみれば明らかに痩せた舞花がいた。まぁでも白鳥をやるにはちょうどいい細さだったと思う。白くてきめ細やかな肌とすっと通った手先、長く美しいラインの足はルーブル美術館にありそうな美術品のようだった。見た瞬間私はぽぉっと恋をしたかのように見とれてしまったわ。あまりにも美しくてこの子しか白鳥をやれるのはいないって確信した。はじめのころ、なんでこの子が主役なんだと嫉妬してしまった自分が恥ずかしくなるくらいね。そんな私の目線に気がついたのか舞花が儚げなその姿からは想像もつかない人懐っこい笑みを浮かべてこちらに来た。


「3ヶ月ぶり!」

「うん!すっごい痩せたね、舞花!」

「えへへ、頑張ったんだ〜!先生達からめちゃくちゃ痩せろって言われててさ!」


 聞けばパ・ド・ドゥ(男性と組むこと)をする際、相手の人からそんなんじゃ持ち上げられないよと言われたらしい。私はその話を聞いて憤怒してしまったの。舞花はもともと細かったのよ?それなのに更に痩せろだなんて!どんなやつか見てやる!と思って入り口をにらみつけるとシュッとしたシルエットの男性が現れた。はっきりとした顔立ちにがっちりとついた筋肉。あんなにも筋肉が美しい人を私は見たことないわ。彼は私の横にいる舞花をちらっと見るとにっこりとノートの隅に描いた雑なにっこりマークのような笑い方をして近づいてきた。


「おはよう、舞花。少し痩せた?」

「お、おはようございます……。頑張ってダイエットしました。」

「へぇ、それで頑張ったんだ。君が演じるのは白鳥なんだよ?それも呪われたね。その程度で頑張ったなんて言わないで。もっと痩せないと、お客様は感動しない。」


 私はそれを聞いた途端殴りかかろうかと思った。舞花の表情を見れば絶望したような顔をしていて瞳は光を宿していなかった。輝きを失った朝方の白いお月さまみたいに曇った目をしていたわ。そんな舞花を一瞥して彼はくるりと先生方のもとに戻った。


「もっと、痩せないと……。」

「舞花!無理しちゃだめだよ!」


 私の声は彼女には届いてないことは確実だったわ。だって返事どころか、視線も動かず床を見つめていたんですもの。すっかり消えた表情は、不気味なほど儚くてぞっと背筋が冷えた。練習を始めます。と先生が言うとみんなが一斉に動き出したの。ピリピリとした雰囲気にその時の私はどこか違和感を感じていた。まるで軍隊……、いやカルト宗教のようだったわ。




 それから本番が近づくに連れ、練習はもっと激しくなった。時たますれ違う舞花はどんどん痩せていって、石膏像のように美しかった肉体はすっかり骨ばってギスギスしてしまった。頬も痩せこけて節目がちな目は本当に白鳥にかえられてしまったオデットのようだった。噂に聞けば拒食症気味で誰も彼女が何かを食べているところを見たことがないらしい。


「あの子……全然笑わなくなったわね……。」

「そう……ですね……。」

「もしあの子が倒れたりしたら、誰が主役をやるのかしら……やっぱり貴方かな?」

「……え?」

「冗談よ冗談。」


 そう言われてふと、思ってしまったの。そうか、あの子がいなくなれば次は私かもって。一瞬でもそう思ってしまった自分に絶望したわ。大好きな友達の不幸を一瞬でも祈ってしまうなんて!!それ以来、もうそう思ってしまうのが嫌で舞花のそばから離れてしまった。彼女のことを避けちゃった。ふと目があっても反らしてしまった。それがいけなかったの!私のせいで!あぁ、そうよ!唯一のあの子の友達だった私が裏切ってしまったから、あんなことに!!……本当に後悔しているの。私の罪は海よりも深いわ。針に刺されて百年眠るなんて甘ぬるい。針で目を串刺しにされて死ぬくらいしないと拭いきれないわ。


 そして本番の日が来てしまった。舞台の幕の中で2幕に出るメンバーで円陣を組んだ。舞花は更に痩せていたけど、しっかりとした眼差しで足取りもふらついてなかったから私はほっと安心したわ。これなら彼女を心から見送れる。2幕が始まってコールドの子たちが出ていった。暗い照明が白鳥の白い衣装を際立たせていたのを私はよく覚えているわ。そして、舞花が登場した。スポットライトが彼女の身体を照らした。儚げな表情とふっと吹けば吹き飛んでしまいそうな身体と彼女の醸し出す雰囲気に会場中が虜になったのよ。舞台にあそこまで観客が引き込まれた姿を見たのは初めてだったかもしれない。私も横から彼女の姿を見つめた。不安げに揺れる視線、細やかなパ(足の動き)、絹のように滑らかで繊細な手先を見た瞬間、あぁこの役ができるのは彼女しかいない。そう思ったわ。誰にも真似できない彼女しかできない白鳥。もしもあのとき私が彼女の代わりに白鳥をやることになっていたら……、そう思うと寒気が全身を襲うの。あんなにも素晴らしい舞台を、私は作り上げられない。

 彼女は幕に入ると少しホッとしたような表情をした彼女にどこか人間味を感じて私は安心したわ。まるで妖精や神様みたいな人間とはかけ離れた存在のように舞台の上で見えたんだもの。その姿に励まされて、私は2羽の大きな白鳥を全力で踊った。自分の持てる全てをかけて、そして、全てをこの舞台の完成のために尽くした。踊り終わって、そのまま物語は続いていった。オデット姫と王子様が結婚の約束をして3幕に入って、最後の約束を破られ、オデット姫が死んでしまうシーンに、もうすぐなる。そんなとき突然舞花が話しかけてきた。


「私、白鳥になれてるかなぁ。」

「なれてるよ、大丈夫。白鳥だよ。」


 私がそう言うとあの子はにっこりと笑った。久しぶりに見たその人懐っこい笑みは本来の舞花そのものだった。


「さて、死んできますか。」


 彼女はふっと表情を消してすぐに悲しげな表情を作ると舞台に飛び込んでいった。そんな冗談やめてよ。そう言おうと思ったのに、何故か言葉が詰まって出てくれなかった。私も出番だったから気持ちを切り替えてすぐに出た。舞台は最高潮で皆が興奮しているのが伝わった。踊っているうちに感情が溢れて止まらなかった。あんな経験、あのとき初めてしたわ。小さい頃サンタさんを待つクリスマスの夜のようなワクワクしてドキドキする感情に近いものなのかしらね。ぶわぁっと噴水のように湧き上がる気持ちとともに無事に4幕が終わり、カーテンコールになった。最後の最後まで白鳥にされてしまったオデット姫として舞台に堂々と立ち、挨拶を恭しくする舞花を見て、あぁ、同じ舞台に立てて良かった。そう心から思ったの。明るい照明が彼女をキラキラと照らしていて真珠色の肌が輝いて、安心したような満足げな笑みはいつもの舞花だった。お客様もスタンディングオベーションで、皆笑顔で拍手をしてくれた。お客様達の魔法にかかったような笑みを見て嬉しくなったのをよく覚えてる。何度も何度もカーテンコールをしてやっと収まり、幕が完全にしまった。


 その瞬間、ドタンッ!と何かを叩きつけるような音がしたの。振り返れば純白のナニカが倒れていた。それが舞花だと気づくのにしばらく時間がかかってしまったわ。おい!救急車を呼べ!と叫ぶ男性達の怒号、先生達の起きなさい!しっかりして!と悲壮な叫び、大丈夫かな!?とざわつく周囲の子たち。それらの音が私には凄く凄く遠くに聞こえた。


ーーさて死んできますか。


 そんな声が頭の中で繰り返しリピートした。


 違う、違うわ、違う!死んだら意味がないじゃないの。行かないで、お願いします神様、彼女を連れて行かないで。嫌だ、駄目。まだ私は彼女の踊りを観ていたいのに。


 思いも虚しく、彼女が運ばれていく姿をぼーっと見ていた。その場から動けなくてずっと彼女の笑みと『さて死んできますか。』と明るく言う彼女の声がずっと繰り返してて止まらなくて、壊れかけたラジオのように同じ音が頭の中で響き続けた。結局、病院に運ばれたけど彼女は亡くなったわ。死因は過労と栄養失調。無理させすぎてしまった先生方と王子様役の男性は世間からの非難の目に当てられて、ニュースにも取り上げられて、仕事を続けることができなくなってしまった。その人たちばかり非難されていたけど、心の中では私だって同罪だと思ってる。あのとき、私が彼女を無理矢理にでも止めていたら。無理しないでってもっと強く言っていたら。離れずにもっと側にいたら!!!どうして私は彼女の元を離れてしまったんだろう。くだらない偽善心と無駄な自尊心が私の親友を殺した。先生方よりももっと酷いことを私はしてしまったんだわ……。

 そう思いながら毎日過ごしていたとき、ずっと手付かずだった本番のときの荷物をやっと片付けようとバックのカバンを開いた。その時はらり、と無機質な白が落ちた。手にとって開いてみるときれいな字で文字が綴られていた。



『舞へ


 これを読んでるってことは多分もうお家かなー?舞台どうだった?私、ちゃんと白鳥になれたかなぁ。今回主役ができることになって私、すっごく嬉しかったの。チビだ、骨格が悪いって散々馬鹿にされてきてそれでも必死に努力して掴み取った私の希望。主役が決まったときの周りの驚いた反応が一番面白かったよ!なーんて、ちょっと腹黒いか。でもやっと私は反撃の狼煙をあげることができたの。下剋上の第一歩ってやつ。だから今回の舞台は倒れようがそれこそ、この舞台で死んでしまおうがなんだっていい。お客様を感動させられるならなんだってするって決めた。もし、お客様からの沢山の拍手を身体全身で受け止めることができたなら僥倖!私は満足よ。

 ねぇ話は変わるけど、貴方が私のことを避け始めたの、なんでか私はわからないの。心当たりがない。でもね、もし逆の立場だったらって考えると貴方が何を思ってしまったのかなんとなくわかる。会うたびに申し訳なさそうな顔して避けるんだもん。もう、舞ったら優しすぎるよ。でも、お願い。自分を責めないで。最後の最後まで貴方が私のことを応援してくれていたのはわかってるから。それが力になって頑張ることができたんだもん。

 あの日した約束、絶対叶えてね。これからもバレエを続けてお客様を感動させられるようなバレリーナになろう?私は、きっとこれからも舞台でお客様を感動させるためになんだってするわ。例え舞台の上で死んでも構わない。本物に近づくためならどこまでも痩せるしどこまでも研究する。そういうものでしょ?私達、バレリーナっていうのは。あはは、バレリーナだなんてまだ言うのは早いか!まぁでも、これは私達の新しい約束。身体を酷使して、心を消費して、命を削って、どっちが沢山の拍手を貰えるか勝負しましょう!そして最高の舞台で最大限の拍手を浴びて死にましょう!


 貴方の永遠のライバルで、親友いられますように。


 愛してるわ!!


                 舞花より。』


 それを読んだあとあぁ、ずるい!って思った。彼女はきっと今も天国で笑ってるわ!最高の舞台で、沢山の拍手を浴びて、最後の最期までお客様を虜にして人生の幕を締めくくれたのだから。そして、穏やかに笑いながら死んだ!!永遠のライバルだなんて言っておいてあの子だけ勝ち逃げしていったのだもの。狡い。本当に狡い。あの子はわかっていたのかしら、あんなふうに死なれちゃあ私はあの子を超えるために人生を捧げることになるって。あの子の背中を追いかけて、命を削って踊り続けるしかなくなった。ある意味あの子が私に残していったのは約束なんかじゃない。呪いよ。私は今だってあの子の舞台を超えるために、あの子に追いつくために必死に踊ってるの。それこそ死ぬまで踊り続けられさせるアルブレヒトのように。










 ブーッと開演5分前ののブザーが会場中に響き渡る。いつの間にか私の手は先生の話によって止まっていた。すくり、と椅子から立って先生は純白の羽根によって作られたチュチュを着る。私はすぐさま後ろ止めます!と先生の背中にまわって衣装のホックを止めた。先生の荷物を持って、ピンと伸ばされた背筋を追いかける。舞台袖につくと出演者の皆さんがもう揃っていて、それぞれ集中するように目を瞑ったり舞台を見つめたりしていた。もう一度ブーッと音がなる。本ベルだ。もうすぐ、もうすぐ、本番が始まる。アナウンスで『只今より、白鳥の湖を上演いたします。』とよく通る声が響いた。先生は私の方にくるりと振り返ると深紅の口紅の塗られた小さな口を開く。


「私、白鳥になれてるかなぁ?」


 そう言って人懐っこい笑みを浮かべた。あぁ、なんて素敵な、笑顔なんだろう。





 



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