「小説」とは何か

 いきなり文芸の存在意義みたいな、壮大な話をしでかしそうなサブタイトルで始まってしまいましたが、私ごときが、そのような大それたことを語れるなどとは毛頭思っておりません。では、何を言いたいのかというと、「普段、私たちが読んでいる『小説』とは何なのか?」について少し考えてみたいと思ったのです。「同じことやんけ」と言われてしまいそうですが、違います。


 さて、突然ですが、ミステリ作家麻耶まや雄嵩ゆたかが書いた『神様ゲーム』という作品がありまして、この小説、主人公である小学四年生男子の一人称という形式となっていました。これが世に出た当初、当作品に対して「こんなしゃべり方する小学生いねえよ!」という感想(いちゃもん?)があちこちから寄せられたと聞き及んでいます。一人称の地の文が、あまりに大人びた文体で書かれていたためです。ちょっと一例を挙げてみますと……。


 無表情のまま鈴木君は正論をのたまった。


 ぼくが教えなかったからごうを煮やして自力で探り出そうとしたんじゃないだろうか。


 一陣の風が吹き、ざわざわと揺らめく木立。曇り雲とあいまって、いつになく不安な気配を感じさせる。


 だがそれは杞憂きゆうだったようだ。


 その前を、七月だというのにみんな真冬のような寒々しい顔をして通りすぎていく。


 ここで云い負かされたら元の木阿弥もくあみだ。


 冬の月のように薄く輝く瞳。


(前略)プラネタリウムなんか比べものにならないほどの、星の大伽藍。


 どうでしょうか。ルビも原文ママなので、大人向けの文庫本でもルビが振られるような難読漢字を使いこなし、詩的な表現や体言止めの使い方など、小学生というよりはプロの小説家(!)のようです。ちなみに、最後の例文末の漢字は大伽藍だいがらんと読みます。伽藍というのは寺の大きな建物の意味ですので、そこに「大」を付けて、非常に広い空間、という意味としています。「伽藍」小学生で何人知っていますかね?)確かに、こんなしゃべり方(たとえモノローグとしての地の文だとしても)をする小四児童は、ちょっと(捜せば、もしかしたらいるかもしれませんが)一般的な小学生のイメージからはあまりにかけ離れていますし、それをして「リアリティがない」という誹りも外れてはいないのかなと一見思います(ちなみに、この「小学生の一人称なのに妙に大人びた地の文」の突き抜け具合は、続編『さよなら神様』でさらにエスカレートします。麻耶雄嵩、『神様ゲーム』の反響を受けて絶対にわざとやってます)。

 ですが、「それを言っちゃあ……」という気が私はします。『神様ゲーム』は、あまりに極端だったため目立ってしまいましたが、よくよく思えば、「そんなしゃべり方する○○いねえよ」という表現は、あらゆる小説に散見されています。

「……だわ」「……ね」という、いわゆる「女性語」がそうですし、「わし」という一人称を使う人に私はお目に掛かったことがありません。語尾に「……じゃ」を付ける仙人のような口調、「……だぜ」のような男らしい語尾も、実際に耳にすることって、ほとんど(あるいは、まったく)ないのではないかと思います。『神様ゲーム』の異様に大人びた小学生を非難するのであれば、上記のしゃべり方の出てくる小説も、同じように「リアリティがない」として然るべきなのではないでしょうか(もちろん、このことを承知していて、リアリティ追求のために、上記のような「女性語」「仙人のような口調」を意識して使わない作家もいます)。

 小説を書いている方の中には、「じゃあ、そういう、リアリティのない言葉遣いって、書かないほうがいのかな?」と尻込みしてしまう向きもあるかもしれません。ですが、あえて私は「そんなことは全くない」と言い切ります。

 そもそも突き詰めてみれば、「じゃあ、真にリアリティのある会話(しゃべり方)って、どういうのなんだ?」となります。以下の架空の小説の会話文でもって確認してみましょう。


会話例(A)

「……これが真相よ。私の推理に間違いはないわ」

「ほほ、なんとまた、意外すぎる犯人じゃの」

「ありえねえ……。だが、論理に穴はねえ。お前の推理を信じるしかなさそうだぜ」


 同じ探偵事務所に所属している、女探偵と老練な所長と若き熱血漢、といった感じでしょうか。上記で問題となった「女性語」「仙人口調」「……だぜ」が全て出てきます。何とリアリティのない会話文なのでしょうか! リアルになるよう是正してみたいと思います。


会話例(B)

「……これが真相です。私の推理に間違いはないです」

「はは、これはまた、意外すぎる犯人ですね」

「ありえない……。だが、論理に穴はない。お前の推理を信じるしかないみたいだな」


(A)に比べて幾分かリアリティは増したように思います。ですが……声に出して読んでみれば一目瞭然ですが、これでもまだ「リアルな会話としては不自然」ですよね。妙に芝居がかっています。女性の口調は自信満々でいかにも虚構的すぎますし、所長も意外な答えを多然自若に受け止めすぎで、男性はかっこつけすぎています。中学二年生か。女性に対しての「お前」という呼び方とか。こういう場面では名前(女性の名字を「山田さん」とします)で言うのが普通でしょう。さらに是正してみます。


会話例(C)

「……これが真相だと思います。私の推理に間違いはないはず……だと思うのですが、どうでしょう?」

「え、ええ? 本当なの? それが本当だとしたら、意外すぎる犯人っていうか……うーん……ねえ、本当?」

「ありえない……。でも、論理に穴は……ないかなぁ。ここは山田さんの推理を信じるしかないのかなぁ……」


 会話がふわふわしすぎですし、三点リーダ(……)多過ぎです。でも、リアルに考えれば、考え込んだり言葉を選んだり、実際の会話には「……」が入る場面が多いように思います。でも、まだ「リアル」には遠いですよね。実際に交わされる会話は、結構言い間違いや言い直し、「噛み」や「どもり」などが散見されます。それらを考慮してみましょう。


会話例(D)

「……これが真相です――だと思います。私のすいっ――推理に間違いってな――じゃなくて、間違いはないと思うんですけれど、どどうでしょうか?」

「え、ええ? ほっ本当なの? それっ――それが本当だったっとしたら、意外すぎっ、すぎる犯人っていうか……うーん……ねえ、ほ本当?」

「マジですか……。でも、論理に変なとこ――ていうか、穴はないかなぁ……。これは――ここは山田さんの推理をー……信じるしかないのかなぁ……的な」


 読んでいて非常にイライラしますね。いくらリアリティがあるといっても、小説の会話文が終始(D)のように書かれていたとしたら、どうでしょう。全然話が頭に入ってこないと思います。


 結論を申し上げますと、「小説」というものは、現実(その小説の中の世界で起きた現実)をそのまま活写したものではなくて、実際に交わされた会話は(D)のようなものだったとしても、それを読みやすく、わかりやすく、また場合によっては、読者の登場人物像理解や感情移入を助けるため、多少は虚構的な「キャラクター付け」がなされて、結果、(A)のような会話文に「翻訳」されて書かれているものだと、こう私は考えるのです。よって、最初に挙げた『神様ゲーム』の主人公の語り口も、あれは「リアリティがない」のではなく、読みやすさやキャラクター付けなどを作者が様々勘案した結果、ああいった書き方になったというだけなのです。

「女性語」を使う登場人物が出てきたら、それは女性だとすぐに分かりますし、常にそういった言葉遣いをしているのであれば、少々気位が高く男に媚びない凜とした女性なのかな。というイメージが自然と沸いてきます。「わし」という一人称を使い、「……じゃ」という語尾は、飄々ひょうひょうとした老師的人物というイメージを読者に想起させるのを手伝います。語尾に「……だぜ」を付けたり、自分と同程度の立場の女性のことを「お前」と呼ぶ男性は、ぶっきらぼうで不器用な熱血漢なんだろうと誰しもが思い浮かべるでしょう。

 先に書いた、「噛み」や「どもり」などは、スムーズな会話文に「翻訳」するため排除しきってしまうのではなく、逆にそれをある程度残すことによって、例えば「金田一耕助」のような「緊張するとる」というキャラクター付けの材料に使うことも出来ます。究極的には(現実世界を舞台にした、リアル路線の作品にはあまり多様できませんが)語尾だけで登場人物の台詞の書き分けをすることすら可能になります。「……にゃん」「……でごわす」とか(センスが古すぎますかね……)。語尾の一文字だけカタカナにするとかも、捉えどころのない性格を表現する手法として使われたりしていますね(「そうなんだよナ」みたいな)。一人称にしても、「拙者」とか「それがし」とか、あるいは自分の名前をそのまま一人称にするなど、キャラクター付けに大いに効果を与えてくれると思います。皆さんも小説を読むに際して、明らかに年齢と乖離した口調を話したり、現実には使われない口調でしゃべる登場人物が出てきたとしても、「リアリティがない」と切って捨ててしまうのではなく、「読みやすさ、理解のしやすさを助けるための、あるいはキャラクター付けの一環なんだ」と理解していただければと思います。


 さて、余談とは思いますが、もうひとつ、「小説が現実(くどいようですが、小説の中の世界としての現実、です)そのままではない」ということの照査に「登場人物の名前」が挙げられます。「大癋見おおべしみ」とか「一礼比いちろい」とか、実在しない名字(もし実在名字で、大癋見さんや一礼比さんという方がいらしたら、すみません!)を持つ人物が出てくる、あるいは常用漢字、人名用漢字以外の漢字が使われた名前の人物が出てくる、といったことばかりではありません。何かというと、「同姓、もしくは同名の人物が出てこない」ということです。皆さんの周りを見渡してみて、どうでしょう、何十人かいる知り合い、組織の中、学生生徒さんでしたらクラスの中で、姓名一致とまでいかずとも、名字と名前、どちらもかぶっている人がひとりもいない。ということはあるでしょうか。まあ、ないと思います。私自身の経験からしてもそうです。ところが小説では、血縁者であるなどの理由がないかぎり、苗字も名前もかぶらないことが当たり前です。そりゃそうですね。「複数いる容疑者の中で、偶然同じ名字の人がいた」というのはリアルかもしれませんが、小説を読むうえではノイズにしかなりません。それでも同じ名字、あるいは名前の人が出てきたとしたら、「これには何かあるぞ」と読者は必ず思います。最後まで読んでみて同じ名字、名前であることに何の説明もなく、「本当にただの偶然というだけでした」では、その本は読者の手によって壁に向かって飛んでいく未来が約束されるでしょう。これも上記の会話と同じ理由です。「(小説の世界の現実では)たまたま同じ名字の人がいたが、読者のリーダビリティ(読みやすさ)を考慮して作者が違う名字を新たに振った」という一種の「翻訳」がされたわけです。


 もしこれを読んでくれてる中に、自分でも小説を書いている方がいて、「しゃべり方がリアルじゃない」「こんなやついねえよ」的な批判的感想をもらったとしても、「いや、分かっていないのはお前らのほうだ!」くらいの気持ちで(思うだけで。実際にそういう乱暴な感想返しをしてはダメですぅ~ ←語尾を伸ばすというキャラ付け)、自分のイマジネーションに正直でいたほうがいいと私は思います。作者以上にその世界、そこに生きる人物を熟知している人はいないのですから、作者が「こういう人物だ」と決めたのであれば、そこに他者の意見、好みが入る余地、ブレはないはずです。そして、当たり前の話ですが小説世界を表現するものは文章以外にありません。その唯一の武器である「文章」を最大限駆使することこそ、作品を輝かせる、やはり唯一の手段なのだと信じます。

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