「一人称」は本当に最強なのか

 会場内をぐるりと見回すと、隅のテーブル席に見知らぬ男がひとり、ぽつねんと座っているのが見えた。


「ちょっとお話訊かせていただけますか? ええと――」

西藤さいとうです」


 私が声を掛けた男は、不安そうな声でそう名乗った。



 上記は架空のミステリ小説の一部です。地の文で「私」とあることから、これはいわゆる「一人称」で書かれた小説だということが分かります。記述者である「私」が初対面の男に声を掛け、彼の名(名字)が「西藤」であることを知るという場面です。

 ですが、ちょっと待って下さい。この文章には明らかにおかしなところがあります。気がつきましたか? ミステリの名探偵に、そのおかしなところを指摘してもらいましょう。


「記述者さん、あなた、どうして声を掛けた男の名字が『西藤』であると分かったのですか?」

「はあ? 何を言っているんですか、あなたは。どうしても何も、彼自身が名乗ったじゃありませんか」

「その人とは口頭で受け答えをしただけですよね」

「それが何か?」

「おかしいじゃありませんか」

「だから、何がですか!」

「あなた、どうして耳で聞いただけで、その男が発した『さいとう』の漢字が『西藤』であると分かったのです?」

「――!」

「名字で『さいとう』と読ませる漢字は山ほどあります。斉藤、齋藤、齊藤、斉東、などなど。それらの中から、どうしてあなたは、その男の名字が『西藤』であると知ったのですか? 音で聞いただけだというのに!」


 そうなのですね。「一人称」というのは、当たり前の話ですが、記述者自身が見聞きした事柄しか描写されないはずです。であれば、初対面の人から名前(名字)を聞いて、それがテキストでいきなり漢字に変換されるというのは(その相手が誰もが漢字表記を知っている有名人などでもない限り)、明らかにおかしいということになります。かといって、それじゃあ、


「『さいとう』です」

「失礼ですが、どんな漢字を書かれるのですか?」

「方角の『西』に藤の花の『藤』と書いて『西藤』です」

「『さいとう』で、その漢字は珍しいですね」

「ええ、よく言われます」

「分かりました。それでですね、西藤さん……」


 などというやり取りを、初対面の人と会うごとにやっていては、ストーリーが停滞して大渋滞を引き起こしてしまいますし、不自然極まりありません。作中の人物も疑問に思ってしまうでしょう。


「……失礼ですが、どんな漢字を?」

「どうしてあなたは、いちいち人の名前の漢字を知りたがるのですか?」

「実は、私のこの主観は『一人称スタイルの小説』として読者に読まれているのです。よって、私が知らないはずの情報がテキストに出てくるのはまずい、ということで、こうして初対面の人ごとに、名前の漢字を尋ねているのですよ」

「なるほど」


 などというやりとりが作中に起きてしまいかねません。

 これが「三人称」であれば、何の問題もありません。「三人称」は「神の視点」とも呼ばれるものですから、「作者という神」なら、たとえ作中に上記「西藤さん」の名字が一度も漢字で出てくることがなくとも、その人の名字が「西藤」という表記であることを知っています。よって、名前の漢字を知らない人の発言内にも堂々と「西藤」と書いてよいのです。

 ですが、実は「一人称」でもこの問題はクリア可能です。記述されたものが、「すでに解決した事件を当事者のひとりが自分視点で小説化した」という設定で書かれたものである場合です。「リアルタイム時で知らなかったことは、あとから作者が調べたうえで書いた」ということですね。記述者は、事件解決後に関係者たちに改めて話を聞き、そこで初めて「西藤」という表記であることを知った。だから、事件を遡って書く場合でも、「執筆している時間で得た知識」をもとに執筆されているため、堂々と「西藤」と書いてよいのです。

 であれば、一人称だろうが三人称だろうが、書くうえで何も問題はなくなるということになるでしょうか。いえ、私はそうは思いません。どちらも「文章表記の手法」ではありますが、「一人称」と「三人称」では、その扱いが明確に異なります。「同じ世界に存在するガンダム」でも、「ガンダムバルバトス」と「ガンダムグシオン」くらい違います。同じプロットによる話を一人称と三人称で書き比べたとしたら、全く違うものが出来上がってしまうのではないか、とすら私は思います。

 では、「一人称」と「三人称」では何がどう違ってくるのか。それぞれのメリットとデメリットを書き出してみることにしましょう。


「一人称」

 メリット:

1.記述者が見聞きした主観だけを記述できる

 まず一人称のメリットとして真っ先に挙げられるべきは、やはりこれでしょう。

 たとえば、女装した男性を見たとしても、記述者が「彼」を女性として認識してしまったならば、地の文で堂々と「女性」と書けますし、死んだふりをした人がいたとしても、それを「本当に死んでいる」と記述者が思ったなら「死体」と書いてしまえます。これはミステリのトリックを仕掛けるうえで非常に大きな武器となります。このメリットが最大限発揮できるトリックは、ずばり「叙述トリック」でしょう。記述者も含めた登場人物の性別、年齢から、作中舞台の時間軸まで、あらゆるものを「記述者の主観」というフィルターを通すことで読者に錯誤させることが出来ます。


2.記述者が知らない情報は排除できる

 1のメリットと同じことを逆から言ってるだけじゃないか、と思った方もいらっしゃるかもしれませんが、違います。この項タイトルの「記述者」を「作者」に替えてみれば、その意味するところが明確になるのではないかと思います。

 例えば、主人公(記述者)の前に高級車が停まり、車内から、これまた高級な服や靴を身につけた男が降りてきた、とします。この場面を表現するとき、三人称でしたら、男が乗り付けた車の車種から、身につけている服や靴のブランドまで、ある程度細かに描写することが求められるでしょう。ただ単に「高級車」や「ブランドものの服」と書くだけでは、三人称の場合、どうしても説明足らずで安っぽく感じてしまいます。三人称は「神の視点」なのですから、「神様なりの品格」が要求されてきます。一般的に三人称の文体というのは、一人称に比較して重厚さが求められる傾向にあると思います。

 これが一人称になると話が違ってきます。記述者が車やファッションブランドに明るくないという設定であれば、「名前は知らないが、いかにもな高級車」や「高そうな服や靴」で済ませてしまうことが可能です。文体も、記述者のキャラクターや性格によっては、ざっくばらんな口語調も許されますし、むしろ記述者が子供などでしたら、重厚な文体になることはかえって違和感を持たせてしまうでしょう。

 身も蓋もない言い方をしてしまえば、作者が資料取材をする手間を省ける、ということなのですが、「記述者がそう思っているだけで、実は違った」という、記述者の意図しない叙述トリックに利用することも可能でしょう。


デメリット:

1.記述者が見聞きした主観だけしか記述できない

 これこそメリット1の裏返しですね。小説として記述された、されるべき場面には全て記述者が同席していなければなりません。そのため、作品を徹頭徹尾一人称で通そうとすると、まるで飼い主の行く先どこへでも付いていこうとする猫のように、ワトソンは探偵と常にワンセットで動く必要がでてきます(私のシリーズ探偵の安堂あんどう理真りま江嶋えじま由宇ゆうなど、まさにこれですね 汗)。

 余談になりますが、SSヴァン・ダインの書く「ファイロ・ヴァンスシリーズ」は、作者と同名のヴァン・ダインなる人物がワトソン役を務め、小説自体も彼の一人称で記述されるのですが、このヴァン・ダインの影の薄さが凄いです。あまりに何も喋らず、探偵ヴァンスの隣について黙々と状況の記述をしているため、読んでいる途中で、「あれ? これってヴァン・ダインの一人称だったよな?」と、一人称であるにも関わらず、三人称小説であるかのような錯覚を憶えてしまいます(同じようなことを有栖川ありすがわ有栖ありすが『ミステリ国の住人』というエッセイで書いていたため、やはりみんな同じように思ってたんだな、と納得しました)。

 このデメリットを回避するため、場面場面によって記述者を変更したり、一人称と三人称を使い分ける手法もありますが、これはなかなかに高度なテクニックといえるでしょう。


2.記述者が知っている情報は排除できない

 またしてもメリットの裏返しです。具体的にどういうことかというと、記述者が車に疎い場合、目にした自動車の車種はぼかして表記できますが、逆に車に詳しい人間としていた場合は、目にした車が「○○だった」と、車種まで記述しないと不自然となってしまいます。のちに、そのとき目撃した車の車種が謎を解く決め手となり、このとき読者に車種を知られないことが、読者を騙す骨子として機能しているという場合など、「どうしてそのときだけ目撃した車種をはっきりと書かなかったのか」と、アンフェアの誹りを受けてしまうことは明白ですね。

 他には、探偵と記述者が一緒に部屋に入り、のちに、「探偵だけが目に留めていた手がかりが決め手となって謎が解かれる」というケースもアウトでしょう。「記述者はそんなものに注意を払わなかったし、探偵もあとから教えてくれなかった」という言い訳は立つでしょうが、フェアという観点からは一発レッドです。


「三人称」

 メリット:

1.視点人物を必要としない

 視点や主観が単一人物に留まらない、神の視点で物語を俯瞰ふかんする三人称最大のメリットがこれでしょう。テキストを書くうえで、特定の人物の同席を必要としません。「探偵」「ワトソン」「刑事」三人の登場人物がいるとして、どんな組み合わせ、あるいは誰の単独行動でも、三人称であれば、全ての場合で記述を行えます。記述可能な舞台を一人称とは比較にならないほど大きく広げることが可能となります。


2.神視点が使える

「三人称がそもそも神視点なのでは?」と思った方もいらっしゃるかもしれませんが、少しニュアンスが違います。「事件解決後に、三人称記述で事件を小説化する」という場合では、同じ三人称でも「神視点」が入り込む余地はなくなります。ここでいう神視点とは、「絶対に誰も目撃できなかった場面を描写する」ということです。例えば、「単身、地下洞窟に閉じ込められて、数日後に衰弱死体で発見された」という人物の、「洞窟に閉じ込められてから死に至るまで」を記述しようとしたら、これはもう「神の視点」を持ち込むしかありません。テキストが書かれる時間軸では、その人物はもう死んでしまっていますし、洞窟内での様子を目撃した第三者もいないからです。「死亡した人物が間違いなくテキストどおりの言動をとった」ことを証明するには、「これらは神から見た視点である」とする以外にありません。


3.登場人物の心理が描ける

 これまた「登場人物の心理を描くなんて、小説として当たり前のことだろう」と思われるかもしれませんが、一人称では、誰も彼もの心理を描写するというわけにはいきません。当たり前ですね。「誰も他人の心を見ることは出来ない」からです。一人称の場合、記述者の視点を通してしか他の登場人物を見ることは出来ないのですから、たとえ(記述者の)目の前にいる女性が悲しい顔をして涙を流していたとしても、「それが本当に悲しんでいるのか、それとも〈振り〉なのか」を判断することは記述者にも誰にも不可能です。なので、「彼女は涙を流していた」とか「悲しそうな顔をしていた」とか、目視で得られる情報だけを記述するしかありません。これが三人称になると違ってきます。三人称の視点人物は神なのですから、その女性が本当に悲しんで涙していたのであれば、「彼女は悲しんでいた」と堂々と書けます。


デメリット:

1.記述に情報量が求められる

 これは「一人称のメリット2」の裏返しですね。一人称のメリット2にも書きましたが、三人称で物語に出てくる情景や物をあまりないがしろに記述すると、ちょっと薄っぺらい印象を与えてしまいます。もう少し突っ込んで考えてみると、一人称では読者が記述者と同じ視線となるため、「記述者が知らん、と言ったものは仕方がない」と納得できるのに対し、三人称は、その情景全体を俯瞰しているのですから、文章を読みつつも読者は、映像や画像を見ているような気持ちになるからではないでしょうか。三人称で情景や物の記述が曖昧というのは、かなり解像度の低い映像を見せられているようなもので、非常に「もやもやする」と感じるのではないかと思います。


2.地の文で虚偽を書けない

 来ました。これこそが、ミステリを書くうえで最も問題となる、三人称最大のデメリットです。女装した男性を「女性」と書けない。死んだふりをしている人物のことを「死体」と書けない。「騙しの文学」であるミステリにおいて、これは非常に重い足かせとなるのは必定です。いえ、ただ「騙す」だけであれば何の問題もないのですが、ミステリは「騙し」と同時に「フェアプレイ」の文学でもありますから、三人称の地の文で虚偽を書いてしまったら、これはもう「非紳士的(作者が女性であれば「非淑女的」)行為」となり、一発レッドに加えて数試合出場停止です。


 さて、以上、一人称と三人称、それぞれのメリット、デメリットを書き出してみました。総括して分かったことは、

「一人称は制約が多いが、ミステリ的騙しを使うには非常に有効」

「三人称は自由度が高いが、記述に知識とテクニックを要し、特に地の文の扱いには細心の注意が必要」

 といったところでしょうか。

 一人称と三人称、どちらが優れているということはなく、作風や好み、表現したいことに合わせて使い分ける、というのが一番よいのかもしれません。ですが、特にミステリにおいては、一人称が持つ(特に叙述トリック的な)有効性は過去に多くの名作によって体現済みです。かつ、世界最初の本格ミステリ「モルグ街の殺人」が、そもそも一人称で書かれ、世界一有名なミステリシリーズ「シャーロック・ホームズ」もワトソンの一人称で書かれたものがほとんどを占めています。まさに伝統と有用性。ミステリとは、この世で最も一人称が似合う文学ジャンルなのかもしれません。


 ここからは余談です。

 私が初体験したミステリは、ほとんどのミステリファンの御多分に漏れず、「シャーロック・ホームズもの」でした。ホームズの一連の作品は、上にも書きましたが、ごく一部例外があるとはいえ、「ワトソンがホームズの手掛けた事件を小説化した」という設定により書かれたものばかりです。それら「ホームズもの」は、私にとって初めて触れたミステリであるだけでなく、初めて触れた「一人称記述の小説」でもあったのです。ですので私は、一人称形式の小説は(少なくともミステリは)全て「記述者の述懐形式」で書かれていると信じて疑わなかった時期がありました。以降、作中に、とくにそういったことが明記されていなくとも、「これは事件解決後に記述者が書いたものなんだな」と勝手に思い込み、それゆえ、フィクションながらも「実際に起きたことを小説化した」というリアリティを持って、いっそうミステリを楽しんで読むことが出来ていた気がします。


 それに対し、私がホームズからそう間を置かず読み始めた、「明智あけち小五郎こごろうシリーズ」や「金田一きんだいち耕助こうすけシリーズ」は、そのほとんどがホームズとは逆に三人称で記述されています。「ミステリとは(その小説世界で)実際に起きた事件の小説化」という意識を強く頭に埋め込まれていた私は、ですので、それら三人称の小説群も、「作家(江戸川えどがわ乱歩らんぽ横溝よこみぞ正史せいし)が探偵(明智、金田一)から事件の話を聞き、それを三人称記述で小説化したもの」という勝手な解釈で読んでいたのです(実際、金田一ものにはそういう設定で書かれた作品もあります)。


「ミステリは全て(その小説世界で)実際に起きた事件を小説化したものである」


 私の抱いていた、そのテーゼが覆されたのは、有栖川有栖の「火村ひむら英生ひでおシリーズ」をある程度読み進めていたときでした。

「火村シリーズ」のほとんどは、ホームズものと同じように、火村の相棒である有栖川有栖(作家アリス。以下もそう表記)の一人称で書かれています。作家アリスは作中でもミステリ作家であるため、私は「火村シリーズ」も「火村の解決した事件を作家アリスが小説化したもの」という、ホームズシリーズと同じ構造の作品として勝手に解釈して読んでいたのです。それが、――初めて目にしたのがどの作品だったかは忘れてしまったのですが、作中で作家アリスが「自分は火村が手掛けた事件を小説として書くことはしない」という意味のことを言ったのです。

 世界が崩壊しました。

「えーっ? じゃ、じゃあ、これ(火村シリーズの小説)は、いったい何なんですか? あなた(作家アリス)が心の中で考えていることが、何かしらの作用で文書化して、こうして私たち読者のもとに届いていると、そういうことなんですか?」


 火村シリーズ一連の事件群は、「実際に起きた事件を作家アリスが小説化したものではない」ということが作中で明言されました。では「金田一・横溝方式」なのでしょうか? 作家アリスが、作家「有栖川有栖(実際の作家)」に会い、「こういう事件があったが、私は書くつもりはないから」ということで有栖川に小説化してもらった。という経緯で書かれたものなのでしょうか? この場合、「有栖川有栖」という非常に珍しい姓名の人物が二人――しかも両者ともミステリ作家――同じ世界に存在する、ということになりますが。さらに「なんで有栖川が、わざわざ他人(作家アリス)の一人称で書くのか」という問題も出てきます。作家アリスが有栖川に「私の一人称で書きませんか? そのとき自分が思っていたこと、洗いざらい全部ぶちまけますんで」などと自爆するようなことを申し出るとは考えられませんし、逆に有栖川のほうから作家アリスに「この事件群、あなたの一人称で書きたいので、その都度どんな心境で何を思っていたのか、洗いざらい全部ぶちまけてくれませんか?」などと失礼極まりないことを言い出すとも思えません。


 私は、この「火村シリーズの出所」が長い間気になって仕方がなかったのですが、なんと、シリーズ最新作(2019年1月時点)『インド倶楽部クラブの謎』で、とうとうその秘密の一旦が垣間見えました。作中で作家アリスが、これまで火村とともに「フィールドワーク」で解決してきた事件に「名前を付けている」ということを火村に打ち明けているのです。この「付けている名前」というのが、各小説のタイトルそのものであることは言うまでもないでしょう。それを聞いた火村も「事件を素材に小説を書くわけでもないのに」と呆れています。ですが、それはこの時点においての話。これから先、作家アリスが何かのきっかけで、「これまで遭遇してきた事件を小説化する」ことを決意したとします。そうなったら、当然各小説のタイトルには、彼が「事件に付けてきた名前」がそのまま使用されることになるでしょう。読者が長年感じてきていた疑問に、こんな形で解決のヒントを出してくるとは、「火村シリーズ」及び、有栖川有栖、やはり一筋縄ではいかない相当な曲者です。今後のシリーズの動向からいっそう目が離せなくなってきました。

 さらに余談ではありますが、どうやら作家アリスがあの世界で書いている作品の中には、有栖川(実際の作家)の別シリーズ「江神えがみ二郎じろうシリーズ」があるらしい、という情報が作中に出てきています。さらに、その江神シリーズに出てくる有栖川有栖(学生アリス)は、逆に「火村シリーズ」を書いている(将来書く予定?)らしいのです。どういうことになっているのでしょうか? 単なる作者の稚気にすぎない可能性はもちろんありますが、この構造、考え始めると夜も寝られなくなります。


 余談といいつつ、結構長くなってしまいましたね。すみません。そろそろ締めます。

 よくよく考えてみれば、「完全な一人称」というスタイルで物語を最後まで語り尽くすことの出来るメディアというのは、小説以外にはあり得ないのではないかと思うのです。「一人称視点」に終始する映像・画像メディア(映画、ドラマ、アニメ、漫画)というものは、そうはないでしょう。場面場面で効果的に使われることはあるでしょうけれど、それを最初から最後まで貫徹するというのは、かなり難度が高いはずです(例外的な映像メディアとして、「ファースト・パーソン・シューティング」などのジャンルのビデオゲームは「完全な一人称」が成り立ちますね)。

 一人称は、文学でしか使われることのない手法であり、その一人称が最も輝くジャンルであるのが本格ミステリ。

 まさに一人称はミステリのためにある手法であり、やはり「ミステリにおいては一人称最強」と言い切ってもよいのではないかと私は思います。

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