第11話 初雪


 首都高速のわきを流れる荒川に、粉雪が舞っていた。

 いつもより早く暮れはじめた景色に、ライトをつけた車が行き交いはじめる。

「こんな日に初雪が降るなんて、ありがたくないなぁ」

 陽介おじさんの言葉に、杏子は顔を上げた。

 灰色の空から降って来る白い雪が、車の横を流れてゆく。


(……雪だ。綾ちゃん、寒くないかな?)

 杏子は流れてゆく粉雪を目で追いながら、綾香のことを思った。

 杏子はずっと、綾香が助けを求めているような気がしていた。もちろん、家族や警察にも助けを求めているだろう。でも杏子は綾香の自転車のカギを拾ったときから、綾香がわざとあのカギを落としたに違いないと思っていた。杏子に自分の居場所を伝えるために。

(綾ちゃんは、あたしの事を嫌ってるけど、たぶん、あたしの力は信じてくれている)

 そう思えば思うほど、不安定で気まぐれな自分の能力が情けなくなってくる。

(こんな大事なときに、ちゃんと使えないなんて……)

 大きな川の横を走る高速道路の映像を見てから、杏子の頭の中のスクリーンには何も映らなくなっていた。心配な気持ちがふくらみ過ぎて、心がコントロール出来なくなっているのかもしれない。そう思って気持ちを落ちつけようとしても、うまくいかない。


(綾ちゃん……)

 杏子はぎゅっと目をつぶった。

「うん、わかった。こっちもすぐに行くよ」

 龍吾の声が聞こえた。さっきからずっと、杏子の携帯電話で圭太とやりとりしていたのだ。

「おじさん、高速おりて葛西の市内に入って」

 龍吾がカーナビに目的地を入れはじめた。

「圭太さんたち、まだ葛西警察署にいるらしいんだ。慎二のやつがなかなか警察に行こうとしなくて、連れて行くのが遅くなったみたい。これから現場へ行くらしいけど、急いで行けば警察署を出る前に会えるかもしれないよ」

「わかった。次の出口で下りれば、葛西の市街に近いぞ」


 陽介おじさんの車は高速道路をおり、市街地を走りはじめた。

 雪は降り続いているものの、まだ道路には積っていない。

「たのむから積るなよ!」

 祈るように陽介おじさんがつぶやく。

 ちょうど車が警察署の近くに着いたとき、着信音がひびいた。

「あっ、圭太さんからメールが来たよ! いま車で警察を出たって。シルバーのワンボックスカーだって」

「じゃあ、あの車かな?」

 陽介おじさんはそうつぶやくと、警察署から出てきたワンボックスカーの後を追って走り出した。

 車は住宅街を走り、やがて、工事の鉄パイプなどが置いてある資材置き場のような場所で止まった。


「おっと、二人ともまだ降りるなよ。警察の捜査の邪魔をしたらまずいからな」

 いまにも車から飛び出して行きそうだった杏子と龍吾は、陽介おじさんに止められて車の中にとどまった。

 警察の車から降りた人たちが、資材置き場のはしにあるトタン板でできた建物にかけよってゆくのが見えた。その中には圭太と慎二の姿も見える。

 ガラガラと音をたててシャッターが開き、全員が中に消えてゆく。

 しばらくして、全員が中から出てきた。

 綾香はおろか、監禁されていたという子供も見当たらない。

 そこまで見て、杏子は車を飛び出した。


「あっおい、シーナ!」

「杏子ちゃん、待って!」

 二人の声を振り切るように、杏子は資材置き場に駆け込んでいく。

 車のそばで話をしている刑事たちのそばで、圭太が振り向いた。

「杏子ちゃん!」

「圭太さん……綾ちゃんはいないの? いないんですか?」

 杏子は圭太のそばで立ち止まると、刑事たちの方を見つめた。

「誰もいなかったんだ。慎二が見た男の子もいない。別の場所に移動したのかもしれないんだ」

「そんな……」

 杏子はうつむいた。

「何だその子は?」

 いかにも体育会系といった厳つい顔をした若い刑事が近寄ってきた。

「この子は……ええと」

 圭太は一瞬、言葉につまった。


「あの、ぼくの知り合いです。さっきお話ししましたけど、この子の友達が本当に誘拐されてしまったんです。それで、もしかしてここにいるんじゃないかと思って、来てしまったみたいなんです」

「なんだって? いくら友達が誘拐されたからって、子供が警察のマネごとをしちゃいかん! 自分がどんなに危ないことをしているのか分かってるのか? もしここに犯人がいたらどうするんだ!」

 刑事は怒りだした。

「刑事さん、そんなことおれたちだって分かってるよ。だからちゃんと保護者を連れて来てるんだ」

 いつの間に来たのか、杏子の隣りで龍吾が反論した。その後ろで陽介おじさんがぺこりと頭を下げる。

「すみません、保護者です。すぐに帰りますから、状況だけでも教えてもらえませんか?」

「状況もなにも、もぬけのカラだよ。人がいた形跡はない。あとで詳しく調べるが、今は何も言えない」

 刑事はぶっきらぼうに答える。その言い方からは、慎二の証言そのものを疑っているような感じがした。


「本当だよ! 今朝おれが来たときには、子供が監禁されてたんだ!」

 刑事が疑っているのを感じたのか、慎二がわめきだす。

「いまごろ別の場所で、外国の組織に売り飛ばされてるかも知れないんだぞ! 早くさがしてくれよぉ!」

 朝から緊張の連続だった慎二は、粉雪がうっすらとかぶったジャリ石の地面に座りこんだ。

「刑事さん、白い車……白い車をさがしてください! 細長いワゴン車で、工事用具なんかを乗せてるような車です!」

 杏子は必死で刑事の濃紺のジャンパーをつかんだ。こんな所でグズグズしている暇はないのだ。早く綾香をさがさないと、もう二度と会えなくなるかもしれない。そんなのは耐えられない。

「えっ、ワゴン車? おまえ何か知っているのか? その車のナンバーは?」

「……ナンバーはわかりません。でも、その車で綾ちゃんはここに連れて来られたはずです。早くさがしてください!」

「おまえ、友達が誘拐されるのを見たのか? その車に乗せられるのを見たんだな?」

 刑事の言葉に、杏子はジャンパーから手を放した。


「見た……わけじゃ、ありません」

 そう、この目で見たわけではない。杏子の《視》たものは、たぶん何の証拠にもならない。信じてもらえる可能性も限りなく低いだろう。

「見てない? 警察をからかうのはやめてくれないか」

 刑事は呆れたように、大きなため息をついた。そして先輩刑事の方へ行ってしまう。

 悔しかった。悔しくて叫び出しそうになって、ぎゅと唇をかんだ。

 綾香を助ける手がかりになるかも知れないのに、警察は杏子の言葉を信じてくれない。わかっていたことだけれど、悔しかった。

 ぎゅっと両手を握りしめたとき、右手だけが暖かくなった。見ると、龍吾の左手が杏子の手を包んでいる。


「おれは、シーナのこと信じてるから」

 ニッと笑った龍吾の顔を見たとたん、杏子の瞳から涙がこぼれ落ちそうになった。

「……ありがとう」

 涙をこらえるように目を閉じると、ふいに、映像が浮かんだ。

 ほんの一瞬だけ、夕暮れの川の映像が。

 杏子は目を開いた。

「このへんに川はある?」

「えっ、さっき通ってきた荒川とか?」

「もっと小さいけど、船もたくさん通る川」

「えっ……船?」

「この向こうの通りぞいに、旧江戸川があるよ」

 こまった龍吾のかわりに、そばにいた圭太が答える。

「それだ、行こう龍吾くん!」

「わかった!」

 杏子と龍吾は、資材置き場からかけ出した。


「こらぁ、おまえら!」

 あわてて陽介おじさんが追ってくる。二人はかまわず走り続けた。

 通りひとつ向こうに行くだけで、まるで景色が変わった。道路に沿って背の高い壁があり、その壁の上が遊歩道になっていた。

「階段があるぞ。登ってみるか?」

「うん」

 龍吾が見つけた急な石段を登ると、粉雪まじりの冷たい風が吹きつけてきた。

「ううっ、さむっ」

 龍吾は思わず身を縮ませたが、杏子はすぐに反対側の壁から身を乗りだした。

「川よ! 船もある! 岸に下りられるみたいよ」

 杏子の言うとおり、遊歩道の反対側にも階段があり、そこから川岸に下りられるようになっていた。川との境には高いフェンスがあって、小さな船着き場があるところには扉がついている。

「ほんとだ、船があるな」

「この川を下って行けば、右側に葛西臨海公園、左側には東京ディズニーランドがある」

 後ろから陽介おじさんが追いついてきた。


「で、どっちに行く?」

「わかんないけど、じゃあ、右に」

 杏子はきれいに舗装された川岸の道を、川上に向かって走り出した。

 雪雲のせいなのか、まだ四時前だと言うのにずいぶん薄暗くなっている。雪もだんだん強くなってきて、寒さも増したような感じだ。

(何をさがせばいいんだろう……)

 杏子は自分でもわかっていなかった。手がかりといえば、一瞬の川の映像だけだ。

 自分の力をどこまで信じていいのだろう。そう思ったとき、杏子は足を止めた。ちょうどすれ違うように船が通りすぎてゆく。小さな漁船のような船だ。

 ズキン、と頭が痛んだ。

 通りすぎてゆく漁船を目で追う。


(あの船を追いかけなくちゃ……)

 なぜだかわからない衝動にかられて、杏子は来た道を戻るように走りだした。川下に向かって。

「シーナ! あの船なのか?」

「わかんない。でもあの船を追いかけなきゃいけない気がするの!」

 杏子と龍吾は必死に走り続けた。でも、船はどんどん小さくなってゆく。

「おじさん! なんとかしてくれよ!」

「なんとかって……」

 陽介おじさんは立ち止まって、遠ざかってゆく船と子供たちを見比べた。

 犯人が乗ってるって確証があれば、いくらでも追いかけるけれど、追いかけたあげくに犯人じゃなかったら、えらいことになる。

 困ったように視線をさまよわせた陽介おじさんの目に、釣り船の上で片付けをしているおじいさんの姿が映った。

「すみません、船を出してもらえませんか?」

 陽介おじさんは高いフェンスにかじりつくようにして、船の上のおじいさんに話しかけた。

「ええっ、今からかい?」

「はい、今すぐです!」

「まあうちは、予約してた釣り客がキャンセルしてきたとこだからよぉ、いいっちゃいいんだけどよ。お客さん、こんな天気に釣りかい? 道具はなんにも持ってないみたいだけど」

「甥っ子たちに雪の東京湾を見せてやりたくて、お願いしますよ!」

 陽介おじさんはそう言うと、少し先に行ってしまった杏子と龍吾を呼び止めた。

「おーい、この船に乗せてもらえるぞ! 早く来い!」

 杏子と龍吾はすぐに戻ってきた。二人とも息を切らせている。

「さあ乗った乗った。それから、そこにあるライフジャケットをつけてくれよ」

 おじいさん船長に船着き場にあるフェンスの扉を開けてもらい、三人は白い船体に〈あやめ丸〉と書いてある小さな釣り船に乗り込んだ。


「東京湾のどのへんに行くんだい?」

「とりあえず、ディズニーランドが見えるとこまで行ってください」

「はいよ。じゃ出発するよ」

 船長は慣れた手つきで釣り船の操縦をはじめた。

〈あやめ丸〉は中央に操舵室と一緒になった四席ほどの小さなキャビンがある。あとは甲板に釣りをするためのイスがあるだけだ。

 船が走りだすと、急激に寒さが増してきた。

 横から降ってくる雪が、ときおり目に入りそうになる。それでも杏子は船首の近くに立ったまま、さっきの漁船をさがしている。

「大丈夫か? おまえ震えてるじゃないか。キャビンの中に入ってようよ」

 龍吾が心配そうに話しかけてくる。

「あたしは大丈夫。見てないと心配なの」

 杏子は前を見たまま答える。


「お客さん、外にいるなら毛布でもかぶってたらどうだい?」

 船長が陽介おじさんに毛布を投げてよこした。

「ありがとうございます!」

 寒さにまいっていた陽介おじさんはすぐに頭から毛布をかぶり、船首にいる二人の子供にも毛布をかけてやった。

「いいか、さっきの船に近づいたら、二人ともキャビンに入ってるんだぞ」

「でも……」

 反論しかける杏子を手で制し、

「これだけは守ってもらわないと困る。もしあの船に犯人が乗っているとしたら、おまえたちの命はもちろん、この船の船長さんだって危険に巻き込んでしまうかもしれないんだ。おれは警察の人間として、全員を守る責任がある。約束してくれるな?」

 陽介おじさんは厳しい口調でそう言った。

「わかりました」

 杏子と龍吾はしぶしぶうなずいた。


 本当は、さっきの船に追いついたら、すぐにでも乗り込んでいきたい気持ちだったけれど、ずっと文句も言わずに付き合ってくれている陽介おじさんのことを考えたら、とても嫌だとは言えなかった。

「信頼してるからな」

 二人の頭を毛布の上からポンポンとたたいて、陽介おじさんはキャビンに戻ろうとした。そのとき、ふいに船がスピードをゆるめた。

「どっかのバカが失敗しやがったな」

「どうしたんですか?」

 陽介おじさんが聞くと、船長は前方を指さした。

「座礁しちまってる船があるんだよ」

「えっ?」

 船長の指さす方を見ると、さっきの漁船が海上で止まっている。葛西臨海公園のなぎさを大きく迂回して東京湾に出ようと思ったのだろうが、浅瀬に乗り上げたみたいに動かない。

「ここいらは荒川と旧江戸川に挟まれてるから、すぐに土砂が堆積しちまうんだ」

 船長のつぶやきを聞きながら、陽介おじさんはスマホを取り出して電話をかけた。

「ああ鮫島か? おれいま東京湾にいるんだけど、葛西臨海公園の近くで座礁してる船がいるんだ。すぐに警備艇をだしてくれないか? すぐにだよすぐ。ああ、もしかしたらただの漁船じゃないかもしれないから、用心して来てくれよ」

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