第6話 真実
杏子と龍吾がハンバーガーショップの中に駆け込んだとき、青年は買ったばかりのハンバーガーを持ったまま、席をさがしていた。
店の入り口で息を弾ませた二人を見て、彼は驚きのあまり、フリーズしたように立ちつくしている。
「ずるいよ、公園の中にいるのかと思ったのに!」
龍吾が文句を言うと、ようやく青年は笑顔を見せた。
「ぼくは公園から出ないとは言ってないよ。お腹が空いたからね」
「節約生活してるんじゃなかったのかよ」
「龍吾くん、いいから座ろう」
杏子は疲れたようにイスに座りこんだ。
「岩田さん、時間は何分たちましたか?」
「ああ、ジャスト十五分ってとこだ。すごいな」
青年は腕時計を見てから、自分だけ立っている事に気がついて、イスに座った。
「杏子ちゃんだっけ? 本当なんだ、きみの力」
「はい。約束どおり、本当のことを話してくれますよね。あなたは、志麻崎圭太さんですか?」
杏子がそう聞いても、青年は何も答えずにハンバーガーにかぶりついた。
「……そのおばあさん、なんで今頃になって孫をさがしてるんだろう? 病気かなんかで、余命宣告受けてるとか?」
杏子と龍吾は顔を見合わせた。
「おばあちゃん車いすだけど、元気そうだよな?」
「うん……」
「ぼくは、きみたちが言うとおり、志麻崎圭太だよ。でも今は、岩田慎二なんだ」
「どーゆーこと?」
「ぼくは名前を売ったんだ。いや、名前だけじゃないな。志麻崎圭太っていう人間の過去も未来も、全部まとめて売り払ったんだ。だから、例えそのおばあさんにすごい遺産があるとしても、ぼくにはもう関係ないんだ」
青年の告白に、龍吾が目をぱちくりしている。
「岩田慎二っていう人に、売ったんですか?」
「そうだよ。ぼくだって、生きてるからね。戸籍のない幽霊になっちゃったら、家を借りることも仕事をすることもできないだろ?」
「ってことは、あの男が本当の岩田慎二なんだ!」
「たぶんね。探偵がぼくをさがして昔のバイト先に来たことを知った彼が、ぼくに名前を売らないかって言ってきたんだ。その時のぼくは、バイト先をクビになって、アパートからも追い出されて、ネットカフェに寝泊まりしてたんだ。どっちみち母の実家には関わりたくなかったからね、彼に名前を売ったんだ。きみたちには正直に話したけど、ぼくは今さら志麻崎圭太に戻るつもりはないんだ。悪いけど、おばあさんには見つからなかったって言うしかないね」
「それじゃ、あの男がおばあちゃんの孫になるのを黙って見てろって言うの?」
「そうだよ」
「そんなのダメだよ! あいつ、おばあちゃんを泣かせたんだぞ。あんな奴が孫になったって、おばあちゃん全然うれしくないよ!」
龍吾は青年のジャンパーをつかんで引っぱった。
「ぼくには関係ないんだ」
「あの……あなたは、自分の過去も売ったって言いましたよね? あなたのお母さんが、おばあちゃんのことを恨んでたって、本当なんですか?」
杏子はおばあちゃんの涙を思い出した。ぽろぽろと涙をこぼす姿は儚げで、今にも消えてしまいそうだった。
「おばあちゃん、娘さんが自分のことを恨みながら死んでいったって、あの人に言われて泣いてました。とても悲しそうだった。あなたのお母さんは、本当におばあちゃんのことを恨んでたの? だからあなたもおばあちゃんを恨んでて、自分の名前を売ったんですか?」
それだけはどうしても確かめたくて、杏子はぐいっと身を乗りだした。
「……あいつ、そんなこと言ったんだ」
青年は、一瞬だけ遠くを見つめた。
「ぼくが、そのおばあさんの事をよく思ってないのは事実だよ。でも母さんは、一度もおばあさんを恨むようなことは言わなかった。むしろ、いつも謝ってたよ……ぼくにね。ちゃんと結婚を許してもらってたら、おまえにもおばあちゃんがいたのにねって」
そう言って杏子に微笑みかけた青年の顔は、とても悲しげだった。
「それなら、お母さんのことだけでも、おばあちゃんに教えてあげてください! あのままじゃ、おばあちゃんが可哀想よ」
「そうだよ!」
「おいおい、ぼくが本当のことを話しに行ったりしたら、孫がニセモノだってばらすようなもんじゃないか。ぼくは慎二と約束したんだ。あいつの邪魔はできないよ」
「おばあちゃんより、友達のほうを優先するんだ?」
「そりゃあね。会ったこともない人よりは、友達のほうが大事だろ?」
そのとき杏子の携帯が鳴った。ディスプレイに表示されたのは「キヨさん」の文字。
「もしもし……」
杏子が電話に出ると、キヨさんのあわてた声が聞こえてきた。
「杏子ちゃん? じつは奥さまが入院してね、心臓がねあんまり良くないのよ。もし時間があったら来てもらえないかしら。きっと奥さまも元気づけられると思うの。あのお孫さんを呼ぶより、杏子ちゃんたちが来てくれたほうが奥さまも嬉しいと思うのよ。龍吾くんと綾香ちゃんにも連絡してくれないかしら? 病院は近くの医療センターだから。じゃあね」
キヨさんは、言いたいことだけ言って電話を切った。
「シーナ、キヨさん何だって?」
「おばあちゃん、入院したんだって。心臓がよくないって。あたし、病院に行く!」
「おれも行くよ。そうだ、あんたも一緒に来いよ。もしもおばあちゃんがこのまま死んじゃったら、あんた絶対に後悔するぜ!」
「えっ?」
龍吾の言葉に、青年は呆然とした。
「そんな……ちょっと考えさせてくれよ」
「ちょっとってどれくらいだよ? のんびりしてたら……」
「いいよ龍吾くん」
杏子は立ち上がって、青年にメモを渡した。
「これ、あたしの電話番号です。もし来る気になったら電話してください」
「ぜったい来いよ!」
杏子と龍吾が走ってゆくのを、青年はしばらくのあいだ見送っていた。
心の中で揺れている気持ちと向かい合うには、まだまだ時間が足りなかった。
● ●
電車を降りてすぐ、杏子は綾香に電話した。キヨさんに言われていたのを思い出したからだ。
「すぐに行くわ」という綾香の返事を聞いて、杏子は龍吾に向きなおった。
「あのさ、龍吾くんに、お願いがあるんだけど」
「えっ、なに?」
「今日さ、あたしたちは会ってないことにしてくれないかな。新宿にはあたし一人で行ったことにしてほしいの」
「なんだよそれ?」
龍吾は口をとがらせた。
「とにかく約束して。一緒に行った訳じゃないけど、二人で圭太さんをさがしてたことを知ったら、綾ちゃんが気を悪くするのよ」
「なんで森沢が気を悪くするんだよ? 仲間はずれにされたとでも思うってのか?」
「龍吾くんてほんとニブイよね。全然ちがうけど、そんな感じよ」
杏子がそう言うと、龍吾は口をとがらせたまま眉を寄せた。
「なんだよ、おれがニブイってんなら、おまえなんかチョー鈍感だろ!」
「なんであたしが鈍感なのよ?」
「いいから急ごうぜ」
龍吾は杏子の手をぐいっとつかんで走りだした。
杏子は驚いて龍吾の手をふり払おうとしたが、龍吾の足は速くて、杏子は手を引っぱられたまま医療センターまで走り続けた。
駅から五分の距離にある医療センターは、市内でいちばん大きな病院だ。
受付のおねえさんに病室を聞いて、三階にあるおばあさんの病室に向かった。
病室に入ると、白い部屋のベッドの中で、おばあさんが眠っているのが見えた。酸素を送るチューブと点滴のほかに、ドラマで見るような医療機器に囲まれている。
狭い個室には、おばあさんの他には誰もいなかった。
まだ昼間だというのに、病室の中は青白い闇に包まれているようで、杏子はまるで昨日見た夢のつづきを見ているような気がした。
「おばあちゃん……」
言葉が続かない。口にした言葉も、青白い病室の中に消えていってしまう。
ふいに不安になって、杏子は龍吾の腕をつかんだ。
「どうしよう、もしこのまま……おばあちゃんが死んじゃったら」
「だっ、だいじょうぶだよ。おばあちゃんは死んだりしないさ。圭太さんだって、きっと会いに来るよ」
「でも、もし間に合わなかったら……」
杏子は龍吾の腕から手をはなし、ベッドの傍らに座りこんだ。
「シーナ」
龍吾が杏子の肩に手を伸ばしたとき、うしろから声がした。
「あら、杏子ちゃんに龍吾くん、来てくれたのね!」
キヨさんだった。大きなかばんを抱えている。
「ごめんね。奥さまの着替えを取りに帰ってたのよ」
キヨさんはそう言うと、かばんの中からベッドわきの引きだしに荷物を入れはじめた。てきぱきしたその様子からは、おばあさんの命が危ないというような危機感は感じられない。
「あの、おばあちゃんの具合はどうなんですか?」
杏子がおそるおそる聞くと、キヨさんは笑顔を見せた。
「大丈夫よ。かなり心臓は弱ってるけど、このままゆっくり入院してれば大丈夫だって。前から心臓がお悪かったのだけど、このところ色々あったからね。奥さまも疲れてしまったんだと思うのよ」
「よかった……」
杏子がホッと息をついたとき、綾香が部屋に入ってきた。ちらっと杏子たちを見たあと、キヨさんに話しかける。
「こんにちは。おばあちゃんの具合どうですか?」
「綾香ちゃんも来てくれてありがとう。いま杏子ちゃんたちにも言ったんだけど、奥さまはすこし心臓が弱っているけど、しばらく入院して安静にすれば大丈夫だって」
「そうですか。よかった」
「私もあわてて杏子ちゃんに電話しちゃったんだけど、奥さまが起きてるときに来てもらえばよかったわね。ごめんなさいね」
キヨさんはそう言ってから、ちょっと待っててねと言って部屋を出ていった。
「……龍吾くん、ずいぶん早かったのね。杏ちゃんて、龍吾くんの電話番号知ってるんだっけ?」
綾香が聞いてきた。
「ううん、知らない。龍吾くんには駅の近くで会ったの」
事実とはちがう言葉が、するりと口から出てきた。
「そうそう、おれ本屋にいてさ、出て来たとこでシーナに会ったんだ」
「ふーん」
それきり、沈黙があたりを支配する。
青白い病室の中で、三人はすこしずつ離れて丸椅子に腰かけた。
ポタリ、ポタリと音もなく落ちてゆく点滴のしずくを目で追いながら、杏子はこの部屋全体が水の底に沈んでいるような気がした。
(圭太さんは、来てくれるかしら……)
青白い闇。青白い病室。きのう見た病院の夢がもしも本当にあったことなら、圭太は今の自分のように、お母さんを見ていたのだろうか。
死がお母さんを連れていってしまうのではないかと、恐れながら。
「遅くなってごめんね。飲み物買ってきたんだけど、好きなの取ってちょうだい!」
キヨさんが戻ってきて、杏子は闇の中から引き戻された。
病室の中はもとの明るさを取り戻していた。
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