第3話 綾香乱入


 月曜日の朝、杏子は訳のわからない夢を見た。

 そのせいで、ベッドから抜けだすのがいつもより遅くなったせいか、キッチンの方から悲鳴が聞こえて来た。

「杏子……きょーこ! きょーこちゃーん!」

 リビングから聞こえてくるお母さんの声に、杏子はあわてて飛び起きた。廊下を走ってリビングに飛び込むと、キッチンカウンターの中はめちゃくちゃになっていた。

「ママ、大丈夫?」

「杏子ちゃん、助けて!」

 割れたお皿が床に散らばり、目玉焼きのフライパンからはモクモク煙が立っている。

(またか……)

 杏子は一瞬天を仰ぐと、まずフライパンが乗ったコンロの火を消した。次いで、キッチンカウンターの中からお母さんを連れだす。

「ママ、どうしたの?」

「あのね……ママ、今日ね、朝会議が入ってたのよ! すっかり忘れてて、いま思い出したの!」

 菜箸を持ったままあたふたするお母さんの手から、杏子は菜箸を抜き取った。

「ここは片付けとくから、ママは早く会社に行って」

「ごめんね杏子ちゃん、お願いね!」

 お母さんはコートを羽織ると、慌てて玄関を飛び出していった。

「あれでちゃんと仕事できるのかしら」

 杏子は、床に散らばったお皿の破片を拾い集めながら考えた。

 いつも不思議に思うのだが、杏子のお母さんはキャリアウーマンだ。会社では部下もいるらしいのだが、家ではおっちょこちょいで家事もあまり得意ではない。お父さんも仕事で忙しいから文句を言う人もいないのだが、おかげで一人っ子の杏子が家事を担当することが多い。

「なんで月曜の朝からこんな……」

 思わず愚痴がこぼれてくる。

 掃除機をかけてお皿の細かい破片を吸いとりながら、杏子はさっきまで見ていた夢の内容を思い出そうとしていた。

 時間とともにどんどん薄れていってしまう夢のカケラを、なんとか頭の中につなぎ止めようとしてみたけれど、夢の内容は陽炎のようにゆらめいて消えていってしまう。

 杏子が覚えているのは、昨日おばあさんの家で見た写真の少年と、あの感じの悪い青年が出てきたということだけだった。


        ●                  ●


 月曜日は、いつも登校するのに勇気がいる。

 杏子がゆううつな気分で教室に入ると、なんだか教室の中がどんよりと灰色に見えた。

 いつもと変わらないはずのクラスメイトたちの態度も、なぜだか今日はいつもより冷たく感じる。

(どうしてだろう? 何がちがうんだろう?)

 不思議に思って考えていると、龍吾の顔が浮かんできた。

(そうか……昨日もおとといも、龍吾くんやおばあちゃんと会って、普通に話をしたからだ……)

 あんなふうに、何も気にしないでおしゃべりしたのは本当に久しぶりだった。

 学校では友達ともあんな風にはしゃべれない。綾香たちと遊んでいても、どこかで人の目や耳を気にしている。

 自分の不思議な力に関する話は、ずっとタブーだった。


(あたしは、何も気にしないで話ができる場所が欲しかったんだ)


 そう思うと、杏子はなんだか可笑しくなった。

 みんなの前では強がっている自分。ひとりぼっちでも全然平気なふりをしているけど、本当は強くなんかない。女子たちのおしゃべりの輪に入りたいと思ったことだって、何度もある。

 ずっと前、幼稚園の頃から仲良しだった友達の由美に言われたことがある。

「杏ちゃんは強いね」と。


 三年生になり、クラスメイトたちが陰で杏子の悪口を言ったり、無視したりするいじめが始まったばかりの頃だった。

「でも、あたしはそんなに強くないの。ごめんね……」

 由美はそう言って離れていった。


 今なら杏子にも、由美が離れていった理由がわかる。杏子と友達でいたら、彼女までいじめの対象になってしまうからだ。もしかしたら、その時すでに、由美もいじめられていたのかも知れない。

 杏子は大人しい子ではなかった。良くも悪くも気が強い。

 いじめの理由が自分の〈不思議な力〉のせいだとわかっていたから、よけい負けたくないという気持ちで、なんとか学校に来ることができた。

 でも、楽しい思い出はひとつもなかった。


「杏ちゃん、ちょっといい?」

 昼休みになると、綾香が杏子を校庭に連れだした。

 二人は校庭の端のフェンスによりかかり、校庭で遊ぶ子供たちをながめた。

 雲ひとつない青空からの日差しで、ぽかぽかと暖かい。

「あのね……昨日ね、杏ちゃんと龍吾くんが一緒にいるの見たんだけど……」

 綾香は、じっとのぞき込むように杏子を見つめる。

「昨日? じゃあ、おばあちゃんちの帰りかな?」

「おばあちゃん? 杏ちゃんのおばあちゃんって、長野に住んでるんでしょ?」

「ああ……うん。昨日行ったのは、あたしのおばあちゃんちじゃないの」

 そこまで言ってから、杏子は土曜日からの出来事をぜんぶ綾香に話すことにした。

 スイミングから帰る途中でブローチを拾ったこと。

 龍吾が杏子のウワサ話に興味を持って、偶然拾ったそのブローチの持ち主をさがすことになったこと。

 ブローチはおばあちゃんの物だったけれど、二十二年前に持ち出された物だったこと。翌日お礼に呼ばれて、二枚の写真を見せられたこと。

 おばあちゃんが杏子の力を『神さまの贈り物』と言ってくれたことまで、ぜんぶ話した。


「ふーん」

 聞き終えると、綾香はすこし不機嫌そうな顔をした。

「それで、杏ちゃんと龍吾くんは、またそのおばあちゃんの家に行くの?」

「もう用事はないから行かないと思うよ。龍吾くんとは、ブローチを拾ったときに一緒にいただけで、べつに友達になった訳じゃないし。もしかして綾ちゃん……龍吾くんのこと好きなの?」

「えっ? べっ……べつに好きってわけじゃなくて」

「でも気になるんでしょ? 大丈夫だよ、龍吾くんはあたしじゃなくて、あたしの力に興味があるだけなんだから」

 杏子が笑いかけても、綾香の表情は硬いままだった。

「杏ちゃんが行く時は、あたしも行くから言ってね。ぜったいに教えてよ!」

 綾香はにぎり拳でそう言うと、長いサラサラの髪をなびかせて走っていった。

「綾ちゃん……」

 一人残された杏子は、呆然としたまま綾香が校庭を走ってゆく後ろ姿を見送った。


        ●                  ●


「ただいまー」

 広い前庭を通って、綾香が玄関のドアを開けると、お母さんと兄の雅人まさとが立っていた。広い玄関の中では、ゴールデンレトリバーのカイが嬉しそうにワサワサとしっぽを振っている。

「お兄ちゃん、出かけるの?」

「そうなのよ。試験中だっていうのに、カイのお散歩ですって!」

 兄ではなく、お母さんが返事をする。

「塾の時間までまだあるし、いい気分転換になるんだよ」

 笑いながら雅人が言う。

 雅人は綾香の三歳年上で、中学三年生だ。年明けには高校受験が待っている受験生でもある。

「まあ、雅人は自分で勉強の管理ができる人だから、そんなに心配はしてないけどね。風邪引かないでよ」

 お母さんの自慢げな言葉が鼻につき、綾香はすっと目を細めた。

 雅人は小さい頃から勉強が好きだった。学校ではいつもトップクラスで、生徒会長にもなった。

 つい数カ月前までは、綾香と同じスイミングスクールの育成コースに所属し、数々の大会に記録を残してもいた。

 綾香はそんな兄が自慢だったが、いつも兄と比べられるのは嫌だった。

 綾香だって勉強は嫌いじゃない。特別な勉強をしなくても授業にはついていけるし、スイミングスクールでも同じ頃に入った友達よりも上の級を取っている。そこそこ良い成績だと思う。兄が優秀すぎるのだ。

 お母さんもあからさまに比べはしない。ただ、言葉のはしはしに感じることがある。「どうして綾香はお兄ちゃんとちがうのかしら……」と。

 そんなときにお父さんや雅人が決まって言うのが「綾香は女の子だからいいんだよ」という言葉だ。

 オンナノコ ダカラ イインダヨ……。

 その言葉を聞くと、綾香は家族から仲間はずれにされたような気がした。

 気持ちがイライラ、トゲトゲする。


「そういえば、杏子ちゃんっていったっけ? あの子はまだクラスになじめないの?」

 雅人がスニーカーを履きながら聞いてくる。

「杏ちゃんはダメよ。みんな気味悪がって近寄らないし、杏ちゃんも強がって変に壁つくってるから、いつまでたっても友達できないわ。とっつきにくいしね。一人ぼっちでかわいそうだから、あたしだけは話しかけてあげてるの」

「そうか。綾香はいい子だな」

 雅人が綾香の頭をなでて玄関を出てゆく。

 アヤカ ハ イイコダナ。

(バカじゃないの……あたしはいい子なんかじゃないわ)

 杏子に話しかけたのは、優しさからじゃない。優位にいる自分を感じたかったからだ。

 正直な気持ちをぜんぶ叫んで家族を驚かせてみたかったけれど、綾香は叫ぶかわりに、にっこりと笑った。


        ●                  ●


 この一週間、杏子と綾香の間には、ずっとビミョウな空気が漂っていた。

 土曜日にスイミングスクールで龍吾に会っても、杏子は綾香のことが気になって話をする気分になれなかった。

「おいシーナ!」

 龍吾が話しかけてきたのは、先週と同じ自由時間になってからだった。

「おれ、考えたんだけどさ、二十二年前に持ち出されたあのブローチがさ、今頃になって道に落ちてたのはおかしいと思うんだ。シーナが怪しいって言ってたあの写真の男も気になるし、あのおばあちゃん、なにか事件に巻き込まれてんじゃないのかな?」

「えっ事件? ちょっと考えすぎじゃないの」

「じゃあ、おまえは変だと思わないのか?」

「そりゃあ、ちょっとは思うわよ。あの二枚の写真に写ってた人たちは、おばあちゃんとどんな関係なんだろう、とか」

 夢に見てしまうほど、杏子だって写真の二人が気になっている。でも、綾香のことがあるから、龍吾と一緒になってブローチの謎を追いかける気にはなれない。今だって、隣のレーンにいる綾香の視線が背中に突き刺さっている。


「じゃあさ、帰りにおばあちゃんちに行ってみないか?」

「えっ?」

「おばあちゃんの悩みを解決できるかも知れないじゃないか。いいか、おばあちゃんは、ブローチが二十二年前に『持ち出された』って言ったんだ。『盗まれた』とは言わなかっただろ?」

 龍吾はプールの中で人さし指を振り上げた。

「ここがポイントなんだ。ブローチを持ち出したのは、おばあちゃんの家族だと想像できる」

「なるほど……」

 杏子は龍吾の言葉におどろいた。見かけによらずちゃんと考えているんだとわかって、龍吾のことをちょっと見なおした。


「ブローチを落としたのが、あの怪しい男だと仮定すると、おばあちゃんの家族が事件に巻き込まれている可能性もあるんだ」

「事件って?」

「それは、まだわからないよ。だから、おばあちゃんにもっと話を聞きに行くんだ!」

 そう言ってから、龍吾はヘヘッと笑った。

「わかった。ちょっと待ってて」

 杏子はそう言うと、反対側のレーンでこっちを見ている綾香のところまで泳いで行った。

 龍吾は、杏子と綾香が何を話しているのか気になって仕方がなかった。おばあちゃんの家に行く話をしたのに、どうして綾香と話をするのだろう。耳を澄ましてみても室内プールの中は意外とうるさくて、ちっとも聞こえない。


「綾ちゃんも行きたいって言うから、一緒に行くね」

 戻ってきた杏子がそう言ったとき、龍吾は意味がわからなかった。

「なんで、森沢が一緒に行くんだよ?」

「なんでって……ブローチを拾った話をしたら、綾ちゃんも行きたいって言ってたから」

「えー」

 龍吾はふてくされた。杏子と二人で事件を解明したかったのに。

「なによ、協力者は一人でも多い方がいいでしょ?」

「わかったよ。着替え終わったらロビーに集合だぞ」

 ちょうど自由時間が終わり、龍吾もプールから上がっていった。


「杏ちゃんから話は全部聞いてるから、大丈夫よ」

 ロビーで待っていた龍吾に、綾香が話しかけた。

「おまえ、お母さんが車で迎えに来るんじゃないのか?」

 龍吾が不思議そうに聞くと、綾香はにっこりと笑った。

「今日は自転車で来たの。さぁ、行きましょう!」

 やけにはりきっている綾香を先頭に、三人はスイミングスクールを出発した。

 冷たい風に逆らうように自転車をこぎ、住宅街の奥にある大田家へ向かう。


「こんにちは!」

「あら、今日は新しいお友達を連れてきたの? でもちょっと待っててね、奥さまはいま来客中なのよ」

 お手伝いさんのキヨさんは、玄関先でそう言うと、口元に人さし指を立てた。

「お客さんって、誰なんですか?」

 杏子が聞くと、キヨさんは三人を玄関横の自分の部屋に案内してから

「若い男の子よ。先週も来たんだけどね、なんか感じの悪い子なの」

と、困ったような顔をした。

「あいつだ!」

 龍吾が杏子の顔を見てうなずいた。

 杏子がうなずき返すと、綾香が杏子の両腕をつかんでつめよった。

「あいつって誰? 誰のこと?」

「ああほら、土曜日に門の前で会った人だよ。おばあちゃんに写真で居場所を聞かれたひとで……」

「杏ちゃんも嫌な感じがした人ね?」

「そうそう」


 杏子と綾香の会話には入らず、龍吾はキヨさんに向きなおった。

「あいつとおばあちゃんを二人っきりにしてて大丈夫なの? だいたいさぁ、あいつは何の用でおばあちゃんちに来てるの?」

「くわしいことは分からないんだけどね、どうやらお孫さんらしいのよ。奥さまには駆け落ちしたまま行方知れずになった娘さんがいらしたんだけど、最近お孫さんがいることがわかったのですって」

「ええっ! じゃあ、あいつがおばあちゃんの孫なの?」

「奥さまが雇った探偵会社の人がね、あの子を連れてきたのよ。娘さんはもう病気で亡くなってたみたいでね……ご主人はずっと前に事故で亡くなっていたとかで、あの子も天涯孤独の身の上らしいのよ」

 キヨさんは大きなため息をひとつついた。

「いくらお孫さんでも、これからあの子と暮らすと思うと、ちょっと気が重いわね」

「なるほど……あのブローチを落としたのはあいつだったんだな。ブローチを持ち出したのはおばあちゃんの娘さんで、亡くなったときにあいつが受け継いでたってわけか」

 龍吾は腕組みをして考え込んだ。

「ねぇ、それじゃ、あの写真の男の子はどうなるの? おばあちゃんはあの写真を見せてくれたとき、あの二人が同じ人かどうか確かめたかったって言ってたじゃない!」

 杏子はヒソヒソ声で叫んだ。

「そうだった! そんでシーナは別人だって答えたんだ! ってことは、あいつはニセモノかも知れないって事だッ!」

「しっ! だまって!」

 いきなり綾香が叫んだ。

「誰かがろうかを歩いてくるわ!」

 綾香の言葉で、杏子も龍吾も固まった。おばあさんは車いすだから、歩いてくるとしたらあの男に決まっている。

「あらあら、それじゃ私はお見送りするけど、あなた達はもうちょっとここにいてちょうだいね」

 キヨさんはそう言うと、三人を残して部屋から出ていった。

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