第179話

「起き……サー……」


 アーサーの耳元で囁かれる男の声。

 意識の混濁に染み込むように、その声が彼の脳髄へと侵入してくる。


「起きろ……アーサー……」


 誰の声か。

 どうして、自分の手足が動かないのか。 

 頭が回らない。

 意味がわからない。


「起きろ、アーサー」


 男の声がはっきりと聞こえた。

 視界が明瞭になり、床板と、革靴が見えた。


「ようやく起きたか」


 目を動かしてみる。

 革靴から足、腹、肩、そしてロイの顔にたどり着く。


 そして思い出した。

 自分がこの男に一服もられたことを。

 ロイが自分を置いて、城を破壊しに行ったこと。


「……終わったのか?」


「ああ。万事、全て終わった。あとは、お前が私を殺すだけだ」


 ロイは椅子に座り、水を飲む。


「私の覚悟は頭にできている。いつでもやってくれ。道具が必要なら、これを使うといい」


 懐に手を入れると、ナイフをテーブルの上に置いた。


「……準備がいいな」


「お前はそれらしいものを持っていないからな」


 ロイが笑う。

 

「さあ、やってくれ。それとも、この体勢ではやり辛いか?」


「……その前に、暖炉に火をつけていいか? 少し、冷える」


「いいとも」


 ロイはうなずいて、手を壁際に差し伸べた。

 茶色のレンガで作られた暖炉。

 壁を伝うように天井に向かって、鉄製の煙突が伸びている。

 

 暖炉の中には白い灰が薄く積もっている。

 薪木の残りらしい消し炭が、暖炉の隅に微かに残っていた。


 アーサーは新たに薪木を暖炉に入れ、火付け用のワラを薪木の間に差し込む。

 それからマッチを擦り、火をつけた。


 火はワラに移り、次第に薪木を飲み込んでいく。

 炎がぼぅと音を立てて燃え上がる。

 煙突を煙が上っていく。


 部屋の中はにわかに暖かくなってきた。

 アーサーは火かき棒を手に取ると、時折薪木をいじり、空気の出入り口を作る。


 火かき棒をその炎の中に置くと、彼は背後を振り向いた。


「覚悟は、いいんだったな」


「ああ。いつでも」


 ロイは体をアーサーに向ける。

 その顔には恐怖はなかった。

 人殺しの表情もしていなかった。

 

 そこには見慣れた兄の姿が。

 ロイ・コンラッドの姿があるだけだった。


 アーサーはテーブルに歩み寄る。

 ナイフの柄を握りしめ、構える。


「別れの挨拶は、いらないか?」


「お前がしたいなら、するといいさ」


「お前の犯した罪について、告白するつもりはないのか」


「私の口からはない。だが、証明するための文書なら、ここに」


 ロイはポケットから一通の封筒を取り出した。

 赤い朱印によって封印され、ロイの使用する刻印が刻まれていた。


「ドミティウスと接点を持ったこと。帝都の民を誘拐していたこと。彼と魔族たちをこの帝都に招き入れたこと。そして、この帝国を滅ぼそうとしたこと。すべてをこの中で告白している。私の直筆でな。これを、お前が陛下の家族に渡せばいい」


 封筒をテーブルの上に投げる。

 

「……もう、終わりか」


「ああ。そうだ。お前が終わらせるんだ」


 アーサーはナイフを握りしめる。

 そして、ゆっくりと足を踏み出した。


 

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