第5話

 男の怒号、女の悲鳴、母を呼ぶ子供の叫び。生々しい音色が、まどろんでいた私の意識を徐々に覚醒へと導いて行く。


 どう猛な何かの気配を感じ、私は寝床から飛び起きた。窓辺に近寄り、体を隠しながら外を見る。


 そこから見えたのは、横たわるいくつもの死体だった。


 腹を裂かれたもの、首を切られたもの、顔が陥没し原型をとどめていないもの。


 死が村を覆い、異様な空気が村に漂っている。


 目の端に動く影を捉える。

 頭を引っ込めて一度隠れた後、もう一度窓の外を見た。


 そこには、一匹の獣がいた。

 体色は緑色。禿げ上がった頭。長い耳。汚らしいボロ布を身につけている。


 額からは小さなツノが一つ二つと生えており、カエルのような黄色い瞳を闇に光っていた。


 異形は私のことなど気にも留めず、抱えもったエルフの子供を貪っていた。


 はらわたを食い破り、中に含まれていた内臓を音を立てて噛みしめている。恍惚とした表情を浮かべ、口の周りについた血も入念に舐めとっていた。


 子供の首がこちらを向いた。

 もの言わぬ、生気を失った濁った緑色の瞳。


 生きていたならその瞳は爛々と輝いていただろうが、今は見る影もなかった。


「お逃げ、ください」


 扉が開け放たれ、クルセルが現れた。

 衣服は血に染まり、腕や足、首、肌が露出している所には多くの傷がついている。

 息も絶え絶え、やっとの思いでここへとたどり着いたのだろう。


 クルセルは家へ入ると膝から崩れるように倒れてしまう。


「何があった」


 私はクルセルに歩み寄り、その身体を抱き起してやる。


「どこからか、魔物共が押し寄せてきたのです。あまり時間がありません。とにかくここから一刻も早く、逃げ、て……」


 その言葉を最後にクルセルの目は濁る。

 手に乗った背中が一段と重くなった。


 クルセルの口に手をのばしてみるが、血にまみれた喉から、暖かな息は感じられなかった。


 ふいに気配を感じ、扉の先に目をやる。

 暗闇を背に何かの影がこちらをじっと見つめていた。


 暗い体毛。

 赤々と光る双眸は私をにらみ、鋭い牙は血に染まっている。

 額の両脇から、牡羊のような二つの角が伸びている。


 おそらくあの黒い獣と緑色の獣が、クルセルの言う魔物という存在なのだろう。


 クルセルをその場に寝かせ、暖炉のそばにある火かき棒を手に魔物へと駆け迫る。


 それを待っていたかのように、黒い獣は口角をつり上げ、雄叫びを上げた。


 「オォォゥァァアアアアア!!」


 狼とも獅子とも、人間の絶叫とも違う。

 絶叫は空気を振るわせ無遠慮に私の鼓膜を揺さぶる。


 獣の得物は大剣だ。

 ノコギリの様に剣の背と腹が波打っている。


 獣が大剣を振り下ろす。

 私は飛び退く。大地を深々えぐってみせる。


 土ぼこりが舞い上がり、煙の中から獣の顔が現れた


 獣は剣を悠然と引き抜き、私に向き構える。

 それからの私への攻撃は苛烈を極めた。

 私のすぐ近くを、轟音のような風切り音と共に獣の剣が走る。

 右へ。左へ。跳んで。しゃがんで。転がって。

 己の命を守るために動き続ける。


 攻撃を避けしのいでいるうちに、次第に獣の表情が変わっていくのが見てとれた。

 凶悪な笑みを浮かべていた顔は渋面に代わり、眉間にしわが寄る。

 硬く噛み締める口からは、ぎりぎりと歯ぎしりが聞こえてきそうだ。


 本能と感情に正直な獣は、怒りを押さえることの出来ないまま。

 鋭さを持っていた太刀筋が鈍くなり、だんだんと大振りになっていく。


 いよいよ苛立が頂点に達したのだろう。

 その雄叫びの後に慢心の力を込めて大剣を私の胴めがけて振り抜く。

 体を低くして攻撃をやり過ごし、獣の懐へ入り込む。


 ひねられた上半身は、力任せに振り回したことで無防備になる。

 体勢を整える隙など与えない。

 手に握る火かき棒に力を込め、下から突き上げる。

 狙うのは体毛の薄くなっている獣の脇。

 皮膚から浮き出る肋骨と肋骨の間を狙いすます。


 刺す。

 獣の悲鳴が私の鼓膜を揺らす。

 獣の肉壁を貫き、さらに奥へ、奥へと突き入れる。

 火かき棒が心の臓腑にたどり着いた。

 鼓動が、生暖かい血液とともに私の手に伝わってくる。

 

 鼓動が止まり、振り上げた拳が下される。

 棒を引き抜き、数歩後ろへ下がる。

 獣の身体に穿たれた小さな穴から止めどなく血が流れていく。

 獣が倒れる。起き上がることはなかった。 


 いくつもの気配を感じ、辺りに目をやる。

 そこでようやく、化け物どもの目が私を囲んでいたことに気がついた。

 闘争本能に火がついたのか、仲間の仇討ちでもと思っているのか。

 血に飢えた化け物は目をぎらつかせ、じりじりと輪を狭めて私に詰め寄ってくる。


 数えられるだけで二十はいる。

 この数を相手にするのは少々骨が折れそうだ。

 だが、やらなければ骨が折れるどころではなくなる。


 火搔き棒を捨て、獣の大剣を持ち上げる。

 柄を握るとずしりと重みを感じる。

 扱えない重さではない。


 化け物の一匹が、辛抱たまらず飛びかかる。

 その鋭い牙をもってのどを食いちぎろうと言うのだろう。

 下から上へすくい上げるように。大剣を振り抜く。


 一瞬の手応え。

 異形の身体は大剣に吸い寄せられ、避けることも出来ずに左右に切りさかれる。

 肉片と臓物。そして黒々とした血が私に降り掛かってくる。

 血なまぐさい匂いが鼻を塞ぐ。


 先ほどの一匹に続けと言わんばかりに、前後左右すべてから化け物が押し寄せてきた。


 「かかれぇ!!」


 突然聞こえてきた声に私も魔物も一瞬動きが止まる。

 そして、その直後。


 「ギャヒッ!?」


 何とも奇妙な声が聞こえてきた。

 それは化け物の発した悲鳴だった。


 何事かと化け物どもは背後を振り返る。

 板金鎧に身を固めた男達がそこにはいた。

 馬上からボウガンを構え、魔物どもに狙いを定め、矢を射かけていく。


 一匹、二匹、三匹。

 ボウガンの射線上に立つ魔物が次々に倒れていく。

 味方か。それとも新たな敵か。

 化け物たちが弓に戦々恐々としている間に、私も彼らを狩ることに専念した。


 斬る。斬る。斬る。殺す。

 首を刈り、腹を切り裂き、手足を薙ぐ。

 剣の届く限り、私の身体が壊れてしまわない限り。

 休むことなく、止まることなく。

 大剣を振るい、群がる化け物どもを殺し続ける。


 このままでは敵わないと見て、化け物たちは散り散りになって森の中へと逃げ去っていった。

 兵士達の中から何人かがその後を追っていく。

 大剣を投げ捨てて、地面に腰を下ろす。

 疲労と痛み。

 安全だとわかった瞬間。今まで感じなかったそれらが、どっと押し寄せてきた。


 牙と爪による裂傷。軽傷ではあったが、それでも痛みであることに変わりはない。

 手の届くところを、衣服の布を使って血を拭い、止血を施していく。


 「おい、そこの人」


 声のする方を見ると、一人の男がこちらに歩み寄ってきていた。

 黒髪の坊主頭。他の男達と同様に鎧を身につけ、手には剣を握っている。


 「無事か。どこか怪我はしていないか」


 どうやら私の身を案じてくれているらしい。

 何でもない、そう言いかけたとき、男の胸に刻まれている紋章に目を奪われた。


 己の尾を噛む大いなる蛇の環。

 その内側に上向き、下向きの三角が交わる紋章が刻まれている。

 永遠の繁栄と不朽の営みを表すその紋章。帝国の紋章だった。

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