恋情

「先生、お花見に行きませんか?」


 そう言うと先生はあからさまに顔をしかめた。

 最近先生は執筆中の小説が上手く進んでいないようでかなり機嫌が悪かった。機嫌が悪いからと言って私や原田さんに当たるようなことは全くしない先生だけれど、舌打ちがとにかく多い。

 今も縁側でシロと遊んでいたら先生がやってきてゴロンと寝転んだ。かと思えば30秒に1回舌打ち。もちろん機嫌が悪くて怖いということはない。でも気分を変えてほしいなと思うのだ。


「たまには出かけたら気分も変わりますよ」

「……人多いだろうが。逆にストレスだ」

「まぁそうですけど」


 確かに、何より人混みが嫌いな先生だ。この季節のお花見なんて人を見に行くようなものだ。


「行きたいのか」

「そうですね。最近はゆっくり桜も見られないから」


 時間がないのか、それとも桜を見ると色々思い出すから無意識に避けているのか。分からないけれど、先生の家の庭に咲いている桜を見て綺麗だと思うのだから過去と桜は私の頭の中で切り離すことができているのだろうと思う。


「……じゃあ、行くか」

「えっ」

「パッと行ってパッと帰ってこようぜ」


 私が戸惑っているうちに先生は立ち上がってスタスタと玄関のほうへ行ってしまう。まさか本当に先生が行くと言うとは思わなかった。私は慌てて先生を追ったのだった。


***


 甚平にサンダルというラフな格好の先生は気怠そうに前を歩く。スーツを着て髪型もピシッと決めている時は振り向く人もいるほど格好いいのに、今の先生には誰も振り向かない。黒縁眼鏡にボサボサの髪に無精髭。そして確か3日前から着ている甚平。正直言ってちょっと不潔だ。


「ゲッ、ここ行くの」


 先生を冷静に観察して、それでもそんな先生が好き、キャッなんて1人で考えていたら先生が立ち止まった。先生の視線の先には人で溢れた公園。でも桜はとっても綺麗で、私は思わず「うわあ」と感嘆の声を上げた。


「……。はぁー。行くか」

「えっ、あ、はい」

「逸れんなよ」


 先生はそう言って公園に足を踏み入れた。


「先生、綺麗ですね」

「おー」


 先生は普段からとても無口だ。無駄なことは喋らないし、私の話にも相槌を打つだけ。それでも、何故か。先生といると私はとても穏やかな気持ちになる。

 桜の花びらが1つ、降ってくる。それはひらひらと舞って、先生の髪について。先生に触れられるそれが羨ましい、なんて。そばにいられるだけでいいとか、先生が誰かのものにならなくて安心しているとか、もうそんな次元を私の気持ちは超えてしまっている。


「ひより?」


 ボーっとしていたからか、先生が立ち止まって振り返った。そうやって、振り向いてほしい。私を見てほしい。先生に、触れたい。


「っ、あの……」


 何を言いかけたのか、口を開いてから困る。先生はいつも、無口なくせに私の言葉をちゃんと聞こうとしてくれる。今だって、私の言葉を聞こうとじっと私の顔を見て次の言葉を待っている。私の中に渦巻くこの重すぎる恋情を口に出したらどうするだろう。


「あ、……っ!」

「あ、ごめん!」


 私がまた口を開いた時、後ろから来た男性にぶつかられた。私が邪魔なところに立っていたから私も謝っていたら、先生が隣に来た。


「大丈夫か」

「あ、はい、すみません、ボーっとして」

「やっぱり人混みなんか来るもんじゃねーな」


 先生は怠そうに言ったあと、なんと私の手を握った。行くぞ、と言った先生はそのまま手を繋いだままで。初めて触れる先生の手は少し冷たくてゴツゴツしている。どうしよう。ドキドキしすぎて心臓が皮膚を突き破りそう。


「もう来ねーからな」


 そしてようやく、先生が私の希望を聞いてくれたことに気付くのだ。私が先生の気分を変えたいと誘ったのに。


「……先生は、優しいですね」

「あ?」

「私、これからもお仕事頑張ります」


 先生と一緒にいられるように、どんな形でも。

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