君にも言えない

「先生、好き……!」


 ひよりが抱きついてくる。その柔らかな感触に目眩がした。俺は反射的にひよりの背に腕を回す。もう止まらなかった。そのままきつく抱き締める。心の中が熱くなるような、でも同時に今まで感じたこともないほどの癒しが溢れる。まるで、ひよりを抱き締めるために生まれてきたみたいな、それほどの……


「……」


 目を開けると薄暗い。カーテンの隙間から明かりがこぼれる。そう言えば昨日徹夜で執筆してようやく締切に間に合ったのだ。つーか、どうして俺がこんなに出版社が決めた締切とやらに振り回されなければならないのか。まあそれはいいとして、なんて夢を。

 ひよりはまだこの家にいるだろう。……気まずい。ただ、ものすごく喉が渇いている。意を決してベッドを出た。

 寝室の前に長い廊下がある。ひよりはよくその廊下を雑巾掛けしたり、窓を拭いたりしているのだが、俺が眠っている間はうるさくないようにそこにはいないはずだ。いるとしたらキッチンか、それともリビングでゆっくりしているか。

 探しているわけではない。何か飲むためにキッチンに向かっているだけだ。

 長い廊下の先。右に曲がればキッチン。左に曲がればリビング。俺は右を選択した。ドアを開けた瞬間、胸に何かが飛び込んできた。


『先生、好き……!』


 夢の中の台詞が頭に浮かぶ。反射的に受け止めた体は……、柔らかくなかった。


「失礼しました。まさか開くとは思わず」

「……んだよ、原田かよ……」

「んん?誰をご希望でした?」


 原田の眼鏡が光る。やってしまった。めんどくせぇ。


「希望も何もねぇよ。ひよりは?」

「ひよりさんなら庭で草刈り中です」

「あ?こんなクソ暑いのに?」


 今年の夏は記録的猛暑らしい。草刈りなんて原田にやらしときゃいいのに。チッと舌打ちをして俺は縁側から庭に出た。自分の喉の渇きも忘れて。

 さっきまでクーラーの効いた涼しい部屋の中にいたから、外のうだるような暑さは更に応えた。俺は暑さにも寒さにも弱い。


「ひよりー」


 返事はない。もう一度呼ぶ。が、また返事はない。

 無駄に広い庭は、基本的に業者に手入れをしてもらっている。変な動物や虫が住み着くのは嫌だし、いっそのこと木も花も全部刈り取ってしまおうかと考えたこともあるが、たまに帰ってくる親にぶつぶつ言われそうだしやめた。それにひよりがこの庭を気に入っているようだし。


「ひより?」


 視界の隅に白いものがふわりと見えた。確か今日、アイツは白い服を着ていたような……


「ひより?!」


 ひよりは確かに庭にいた。ただし、倒れていたが。

 抱き上げようと手を伸ばした時、さっとひよりは立ち上がった。目の前にいる俺に気付いて目を丸くしている。


「先生?どうしたんですか?お仕事は?」

「……いや、つーか、お前何してたの」

「あ、あの、これ見てください。そーっとですよ」


 ひよりに促されるまま木のベンチの下を覗きこむ。はぁ、なるほど。ひよりはこれを見ていて地面に寝転ぶような体勢になっていたのか。それを俺が見て倒れていると勘違いしたと。……ふざけんな。


「可愛いですね。シロの家族が増えました」

「……お前さ、こんな暑い日に草刈りなんかすんな。業者に任せろ」

「先生、名前何にします?」

「……」


 聞いちゃいねぇ。また地面に這いつくばるような体勢になってひよりはベンチの下にいる子猫を見ている。また増えんのかよ。ひよりがこの家に来てから、どんどん増えていく気がする。生物が。


「ゆーじろー」

「あ?」

「ふふ、先生じゃないですよ」


 子猫に俺の名前を付けるな。ひよりはなかなか出て来ない子猫にしびれを切らし、いや単純に体勢がキツくなっただけかもしれないが、起き上がった。思った以上に近くにひよりがいてびっくりする。ひよりは全くこっちを意識していないようで、どうしたら出てきてくれるだろうと呟いていた。


『先生、好き……!』


 唐突に夢を思い出す。やめろ、出てくるな。

 妙にリアルな柔らかさ。今、ひよりは手を伸ばさなくてもすぐ近くにいる。きっと、目の前にいるひよりは夢より柔らかくて……


「こんな暗がりでナニをしているんですかいやらしい」

「何もしてねぇよふざけんな!!」


 突然現れた原田に驚いて弾かれるように立ち上がった。こんなもん、自分でやましいと言っているようなものだ。


「あー、先生が大きい声出すからゆーじろーが逃げちゃったじゃないですか」


 ベンチの裏にある木と木の隙間から子猫はどこかへ逃げていってしまったらしい。ひよりは頬を膨らませて俺を見上げる。可愛いとかは別に思ってないけどとりあえず俺以外の男の前でその顔すんのはやめろ。


「ゆーじろー?」

「はい。多分オスじゃないかな。子猫なのにふてぶてしい顔してました」

「ぷふっ。ゆーじろーが。ぷふっ」

「とりあえず原田一回殴る」


 もう猫はいないのだからとひよりに中に入るよう促した。未だに肩を震わせている原田の肩には一回パンチを入れた。

 しばらく俺は煩悩と闘うことになるかもしれない。大きなため息を吐いた俺に気付かないひよりの白いうなじを見て、俺はまた大きな大きなため息を吐いた。

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