気付かないはじまり

 先生の家に行くのはお仕事なので、もちろんお休みもある。先生のお仕事の都合にもよるので不定期だけれど、お休みだからと言って特にやることもないから持て余すことが多かった。まぁ、先生の家にいてもテレビを見たりゆっくりしていることも多いからお仕事という感覚はあまりないのだけれど。

 ずっと家にいて掃除をしたり模様替えをしたりするのもいいかと思ったけれど、何だかそれももったいない気がしたから街に出た。いい天気。買い物しなくてもふらっと散歩するだけでもいいかも。

 歩きながら、気になるお店があったら入って。素敵なノートがあったから一冊買った。日記でもつけようかな。きっと今日記なんか書いたら先生のことばかりになるだろうけど。ふふっと微笑みながらお店を出たら、大通りの向こうのカフェに珍しい人を見つけた。先生だ。先生が街に出るのは珍しい。かなりインドアで、いつも家で漫画を読んだりゲームをしたりしているから。お仕事かな。先生はいつも通り不機嫌そうな顔をしているけれど、誰かと話しているようだ。ちょうど木で隠れているその人を見ようと移動して、息が詰まった。

 女性だった。二人ともカジュアルな雰囲気で、もっとも先生はどこに行く時もあんな感じだけど、仕事関係の人だとは思えない。まさか、彼女……?

 さっきまでふわふわとしていた気持ちが急に萎んでしまって、私は先生から目を逸らして家に帰った。



「はぁ……」

「今日は何だか元気がないですね」

「っ、原田さん!来たなら声掛けてください!」

「何度も声を掛けるフリはしましたよ」

「それ結局声掛けてないじゃないですか……」


 次の日、お仕事に行っても昨日の光景ばかりが浮かんでため息を吐いてしまう。先生とは会っていない。同じ家の中にいるのに変な感じ。まぁ、いつものことなんだけど。


「まぁまぁ、ケーキがありますから元気出して」

「それお前が持ってきたんじゃねーだろうが」


 突然現れた先生は原田さんが冷蔵庫から持ってきたケーキの箱を見てため息を吐いた。どきんと心臓が色々な意味で大きく高鳴って、何だか気まずい。ハッと目を逸らした私を先生がチラリと見たことにも気付かないまま、私はキッチンにコーヒーを淹れに立った。

 先生に今まで女の影がなかったことがきっと奇跡なのだろう。売れている作家さんなんてきっとモテるだろうし。パーティーなんかでは自分の本が実写化された映画に出演した女優さんなんかとも会うみたいだし。女優さんなんてきっと綺麗な人ばかりだ。私には遠い世界の話だけれど。

 ぼんやりとしながら椅子に乗り、食器棚の一番上に置いてあるコーヒーの粉に手を伸ばす。あれ、届かない。ていうか何か、この椅子グラグラ……


「っ、きゃ……!」

「……、ぶね……っ」


 ガタンと大きな音がして、椅子が傾いた。次の瞬間浮いた自分の体に焦っていたら。強く腕を引かれ、私は煙草の匂いのする先生の体に受け止められていた。


「っ、ご、ごめんなさ、」

「……いや、別に大丈夫だけど」

「怪我ないですか?!私、どうしよ、あの、怪我……っ」

「ひより」


 焦って起き上がった。先生に怪我なんてさせたら大変だ。どうしよう、どうしよう。なのに、もっと焦ることが起こった。先生が私の手を握って、名前を呼んだのだ。初めてだ。先生に名前を呼ばれるのは。頭が真っ白になる。先生はゆっくりと起き上がって、頭をガリガリと掻いた。


「怪我してないから。ちょっと落ち着け」

「……、は、はい」

「なぁ」

「はい……」

「ケーキ、どれがいい」

「え……」

「昨日会った大学の同期が持ってきたもんだけど、俺だけじゃ食い切れねーし」

「大学の……同期……」


 それって、あの女の人のことですか?そう聞く前に、心の中に安堵が広がっていく。彼女じゃ、ないのか。


「彼女じゃ、ないんですね」

「あ?」

「彼女、いるのかと思った」


 先生は私の言葉に不思議そうな顔をしているけれど、「彼女?いねーけど」と律儀に答えてくれた。そう、なんだ。そうなんだ。


「よかった……」

「……っ」


 思わずニコニコしてしまう。私って何て単純なの。でも、よかった。よかったよかったよかった。


「お前……」

「早くしないとケーキ食べちゃいますよー……おっと、お邪魔でしたね」

「てめ、わざとだろうが!」


 立ち上がった先生がギャーギャーと怒鳴りながら原田さんを追い掛ける。私は先生の言葉に少し引っ掛かりながらも、それ以上考えることはしなかった。


「わざと?どういう意味だろう。まぁいいか」


 その言葉の意味を知るのは、もっともっと先のお話。

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