猫が泣く日

「あ、雨降ってきた」


 ポツポツと地面に落ちる水滴を縁側に座ってぼんやりと眺める。少しずつ少しずつ染みが大きくなっていって、最後には全部濃いあおになる。空を見上げれば濃紺の空を灰色の雲が覆っていた。

 にゃあ、と。甘えるように猫が手にすり寄ってくる。この子は私が拾ってきた野良猫だ。名前はシロと言う。白い猫だから、と言う安直な理由で先生が付けた。私の家はペット禁止のアパートだから先生の家でお世話させてもらっている。先生はこの子を見た時、「あ?猫?」と盛大に顔をしかめたけれど内心ではとても喜んでいて私が来れない時に餌をあげたり、私が見ていない(フリをして見ている)時にこの子とじゃれているのを私は知っている。私の気配を感じるとすぐに離れてしまうけれど。だからこの子はとても先生に懐いている。先生はやっぱり優しい人だ。


 夜。何故か孤独を感じる時間。人間の体は朝から昼に活動して夜は眠るようにできているらしい。だから皆夜に眠るし、私の世界はとても静かになる。世界中探せば、いや、日本でもどこかに起きている人は必ずいる。そう思わないと私は夜を乗り越えられなかった。

 今夜、先生は出版社のパーティーとやらに行っている。いつもジャージや甚平など楽な服しか着ない先生が、フォーマルな衣装を着てボサボサの髪をワックスでガチガチに固めていた。表情だけはいつもと同じく、いや、それ以上にしかめっ面だったから少しだけ安心したけれど。文句なしに男前な先生はきっと今日もまとわりつくような甘ったるい香水の匂いを体にベットリと付けて帰ってくるのだろう。


「静かだねえ」


 この家はいつも静かだ。広い屋敷に先生一人で住んでいて、その上先生自体があまり音を立てない人なので(あまり動かないとも言う)基本的に無音。私がいる時は家事の音がするけれど、それもきっと先生のところには届いていない。原田さんが来ても、あの人はただ畳の上で正座しているだけだから音を立てない。けれど、人の気配があるだけで違うのだ。

 三角座りをして、膝に顔を埋める。まるで慰めるように立てた脚と床の間に入ってくるシロ。泣きそうな私の手を舐め、すり寄る。その時だった。

 キィ、と門が開く音がして、誰かが来たと警戒して見ていると。姿を現したのはずぶ濡れの先生だった。


「え……」

「……ただいま」

「っ、おかえりなさい!」


 驚きで固まっていた私は先生の言葉に慌てて立ち上がった。そしてタオルを取りに洗面所へと走る。もっと遅いと思っていた。いつもパーティーの時は夜中に帰ってくるから。私はそれをリビングのソファーで寝たフリをして聞いているのに。今日はまだ21時にもなっていない。何かあったのだろうか。疑問に思いながらもとりあえず玄関で上着を脱いだ先生にタオルを渡す。


「クッソが、雨なんて降り出しやがって」


 忌々し気に舌打ちをし、私が渡したタオルで頭を拭いた。


「早かったですね」

「おー」

「シャワー浴びます?」

「いや、いい」

「風邪引きますよ」

「いい。着替え」


 私が何を言ってもシャワーを浴びる気はなさそうだったので、私は大人しく先生がいつも着ている甚平を取りに行った。戻ってくると先生は居間でシャツまで脱いでいて、上半身裸になっていた。


「っ、ごめんなさい!」


 恥ずかしながら、男の人の裸を生で見るのは初めてだ。急いで襖の陰に隠れると、先生の腕がニュッと伸びてきて私の腕の中から甚平を奪った。先生、腹筋割れてた……。わ、私ってば何てハレンチな……!一人真っ赤になっていると、居間からはテレビの音が聞こえてきた。先生がつけたようだ。先生は私に裸を見られたことなど全く気にもしていないらしい。……そりゃそうか。私は意を決して居間に入った。やっぱり先生は長い脚を気だるげに投げ出してソファーにぐったりと座っている。


「何か飲みますか?」

「何か温かいもん欲しい」

「はい」


 ドギマギしたままキッチンに行ってココアを淹れた。私もいただこう。居間に戻ると先生はさっきの体勢のままだった。私は先生の前のローテーブルにカップを置き、先生の座っている大きなソファーの隣の一人用のソファーに座った。

 チラリと先生を見ると、先生の顔は赤くなっていなかった。先生はお酒があまり強くない上にすぐ顔が赤くなる。つまり、今日はあまり飲んでいないということだ。そしていつもの甘ったるい香水の匂い、そういえば今日はしなかった。どういうことだろう。考え込んでいると、先生がゆっくりとこちらに視線を向けた。


「これ何」

「ココアです」

「チッ、甘ったるいもん淹れやがって」


 そんなこと言って、コーヒーや紅茶よりココアのほうが好きなくせに。先生は猫舌だからちゃんと温くしてある。先生はカップを手に取ると恐る恐る口を付けた。子どもみたい。ふふっと笑うと先生に睨まれたので慌てて咳払いで誤魔化した。


「今日パーティーじゃなかったんですか?」

「クッソ怠いパーティーだった」

「もう終わったんですか?」

「知らね。途中で抜けて来た」

「いいんですか?」

「原田が何とかしてんだろ」

「大丈夫ですかね」

「大丈夫だろ」


 原田さんはよく先生の尻拭いをさせられている。出版社のお偉いさん紹介のお見合いを断っているのも全部原田さんだ。編集者も大変なお仕事だ。

 無言だけど、穏やかな時間。誰かがいるだけで安心感がある。それが先生なら尚更。ココアを飲み終えてテーブルに置くと、途端に睡魔が襲ってきた。先生に今日泊まっていいか聞かなきゃ。でも、、眠い……。耐えきれず目を瞑る。


「猫が鳴いてるような気がしたから早く帰ってきたんだ」


 と、先生の声が聞こえた気がした。

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