【菫】
なんだこれ。先輩、の文字みたいだ。
そこに書いてある人物は空想なのか、それにしては先輩に似ている。凄く似ている。文字も、ところどころ滲んでいるのは涙のあと?優しさが溢れてくる、不器用で、人を寄せつけなそうに見えて、どこか暖かい。そんな文字。何回もめくったように、古ぼけて黄色くなって、なんか古風な良い香りがふわってして、でも表紙は嘘みたいに綺麗で、きっと大事にしていたんだということがひとめで分かった。
先輩のお母さん?にしては若いよな、あの人は…お姉さん?でもそんな話聞いたことない、地方から出てきたって話は聞いたけど家族はいない、天涯孤独だと聞かされていたし。
てかなんで先輩の名前覚えてないんだ、必要ないなんておこがましすぎる…ちゃんと覚えておけば。
他人かもしれない、全く無関係かも、でも…関係ないはずがないって、根拠もないのに僕の中のなにかかが確信していた。
「先輩」
「ん?」
「今日も行きましょう、いつもの所でいいですか?」
「ん」
努めてなんでもないように誘ったのに、先輩はぽんぽん、と頭を2回叩くから、なにか感じ取ったのかもしれない。
先輩は頼まれたら断れない人だと思う。お人好しだよな。僕が打ち解けようと勇気を出してはじめて飲みに誘った時から、いちどだって断られたことはなかったし。
深夜バイトって言っても早めに上がる時は真夜中に上がるし、ここは昼間以外だいたいやってるから助かるんだよな。今日も常連で賑わうくたびれた居酒屋で、先輩と僕はいつものカウンターに座ったけど、どうしてもさっきの手帖事件が気になりすぎてそわそわする僕に、先輩はにっと笑うと頭をぽんぽん2回叩いた。
「今日頭ぽんぽんしすぎですって、先輩」
僕今そんな悩んだりとかないです。誤魔化すように笑って茶化すと、先輩は真顔になった。ん、と言って水を飲み、僕を見て、やはり何かあると思ったんだろう、薄いくちびるを開いた。
「なぁ、」
「直樹です」
「ん?」
「僕の名前、」
直樹です。もう一度呟いて下を向く。先輩がどうとったかは分からないけど、どうしてもさっきのこと伝えないといけない気がした。
「先輩は、きよたさんですか、」
「…ぷっ」
くくく、と先輩が笑い出して、ニヤつく事は有れど先輩が声出して笑うなんてめったにないから、もうそれはそれは心配になる。たしかに今更名前言うとか聞くとかおかしいよな、
「えっ、いや、あのどこで知ったかっていうと、いや、別に今まで覚えてなかったとかいう訳じゃないんですけど、今日その、手帖が」
「せいた」
「…へっ」
「せいた、清太、」
「…あっ、せいたって読むんですね、清太さん、」
清太さん。先輩は口数が少ない代わりに目で語る、落ち着かせようとしてる時は頭ポンポンしてくれるし、やっぱりあの清太さんなんだ、僕が持っている、あの、手帖の清太さんなんだきっと。すっと腑に落ちたし、何故か確信があった。間違っていなかったんだ。じゃああれは先輩の、お父さん、てこと…だよな。
「んで?」
「え、」
「や、なんかあったかと思った」
穏やかに笑う。僕は息を吸いこんで、手帖を先輩の、清太さんの前に置いた。
「今日、女の人が、あのコピー機の前で、忘れてって。いや、声かけたら帰っちゃったんですけど、雨だったし着物で、これ」
なんて言えばいいんだ。慌てすぎて支離滅裂な僕の言葉を、清太さんは穏やかな笑みのまま聞いている。
「で…あの」
「ん?」
「名前とか…ないかなって開いて、すみません、忘れ物なのに、いや本当にそんなつもりじゃ…でも字、先輩に凄く似てて、僕びっくりして、つい…読んじゃって」
「…?」
「先輩の、あの、」
お母さんとかかもしれません。と言いかけた時、清太さんは手を伸ばして手帖を開き、真面目な顔で日本酒を飲みながらそれを読み始めた。
下戸な僕も、気まずくてそわそわしながらつい時々酒に手を伸ばし、清太さんが読み終えるのを待った。全て読み終えてこちらを見ると、一息ついて酒を煽った。その顔は読み始める前と変わらないように見えて、表情からは何も読み取れなかった。
「これ読んで」
「はい」
「お前は清太って俺のことかと思ったんだよな」
俺自己紹介した事なかったなそう言えば、なんて笑う。僕はなんて言えばいいかわからなくて、困ったような顔で先輩を見た。
「…親父な、ついこないだ亡くなってな」
「…へっ」
「これ探してた。」
ありがとな。ぽんぽん。僕は自分が何故か、清太さんのお父さんの不幸を予想していた、そんな気がしていたって事に、たった今気付いた。
先輩の幼い頃、まだ3歳くらいの頃、先輩のお母さんとお兄さん2人はデパートの火災に巻き込まれ、遠い所へ行ってしまった。記憶の中にある先輩の家族は悪戯好きな中学生と小学生のお兄ちゃんたちと、同じく悪戯好きなお母さん、寡黙でいつも見守ってくれるお父さんで結構賑やかだったようだ。
2人になってからお父さんは男手一人で先輩を育て、先輩のやりたい事をやりたいようにやらせてくれて、東京へ出てくる時も黙って見送ってくれたと。互いに不器用だからこそ何も言わなくても通じるものがあったお父さんと先輩は、それから連絡を取ることはなかった。お父さんの亡くなる夜、先輩はデビュー作を書き終えたという。
「探してもさ、無いんだよ、手帖がな」
「…そうだったんですね、」
「お袋がよく褒めてた気がする。親父の字は綺麗で優しい、世に出なくてもおとうさんは私たちだけの物書きだって」
あんま覚えてないけどな。先輩はぽつぽつ話す。
あの着物、藤色で裾にすみれの入った着物、百合の文様の縹色の帯。あれは結婚してお父さんがお母さんに贈った唯一の着物だったらしく、家を整理してもお父さんはそれだけは捨てなかったと教えてくれた。
お父さんはずっと、子供の成長や家族のことを色々な手帳に記していたようだが、お母さんたちが居なくなって、ほかは全部燃やしてしまったから、今はこの手帖にしかお父さんの文字は遺っていない。
「お袋が持っていたかったから、見つからなかったのかもなぁ、手帖」
「…綺麗な人でした」
「返しに来るなら直接来いよな、俺はっきりお袋の顔覚えてないんだしさぁ。それか、忘れていっただけなら…いつか、取りに来いよなぁ。濡れんだから今度は雨の降っていない日にさ、」
「先輩」
「ん?」
「清太先輩」
「どうした」
「僕先輩の本買ってないんですけど、でも応援してますから、」
「知ってるよ、」
「また下書きください。」
「あぁ、」
先輩は笑って手帖で僕の頭をはたき、ありがとなと呟いた。
それ以来、名前を知ってもなお、先輩、なぁ、で通じる仲だけど、前よりさらに僕は先輩に懐いて、先輩も時々僕に次の小説のテーマをぼそって話してくれたりなんかして。
先輩はお父さんほど不器用ではないけれど、前より少し社交的になって、飲み会なんかでも他の人と話すようになって、僕はその代わりに前より少し大人しくなって、本が好きになった。
ただひとつだけ、雨の夜は、特に初夏のじめっとした雨の夜は、僕も先輩も余分に傘を用意して、あれからずっと誰かを待っている。
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