【想起】
「ちょっと、とうさん、おとうさん」
おれを咎める声に、背中を向けたままほんの僅かに振り返ると、洗濯物を畳みながら厳しい目をしているであろう事が手に取るように分かる。
「虫が多いと言っておとうさん、桜こないだ切ってくださると仰ったじゃありませんか、おとうさん」
おれは黙ったまま酒を傾け縁側で庭を眺めていた。桜が好きというよりも、春はもちろん花、皐月の頃は若葉の青々と、梅雨は濡れ緑に輝き、この時期なら蝉や甲虫など、秋は毛虫などもそれはそれでまた良く、冬は枯れ、萎び、また蓄え咲き。
一年で人間の一生を表すように貫禄を増していくこの木が、まるで先祖かのような、おれたちの行く末であるかのような気がして、おれはわりと好きだったのだが、洗濯物に虫がつくし掃除が大変だと言い、ながいこと大層嫌がっていたから、ただなんとなく切ってやろうと言ったのは、もうずっとずっと、昔のはずだ。
女はずっと前のこともよく覚えている物だ。おれが覚えていないようなことも、おれと違ってよく喋るこの女はいつもこうして思い出させてきたし、おれはいつもこうして背中だけで返事をしてきた。
感情表現が豊かな故、よく笑い楽しむかわりに時々ヒステリックにおれを咎める。そして泣く。言わなければ良いことも自分で話し出して、そのくせ泣き出すのだからたまらない。
ころころと変わる表情につられることなく、長年おれはずっと静かに横で見聞きしてきた。若い、まだ二十歳のうちに親と親とのやくそくで決められていたこの女と連れ添い、二十余年ほどおれを見ていたこの女とは、普通の夫婦に比べどれほど会話をしていない事だろう。いつもこいつが喋る。おれは背中で返事をする。弾丸のようにいつもいつも、おれだけおいてけぼりをくらうはめになる。
定年退職し暇ができ、よく縁側で酒を飲むようになったおれに、嫁にもらった時よりもむしろよく語りかけてくる。
おとうさん、こないだ楽さんがお祭りにお誘いにいらしたでしょう、暇があるのだからいってらっしゃいな、ご近所の奥様がおとうさんの体のこと心配していたわ、もう少しひとづきあいを大事になさって、お酒もお控えなさいな、たまにはこどもを気にかけてやってください、おとうさん。
「うん」
もうっ、と声をあげ立ち上がる。きっと酒が足りなくなったのを見越して持ってくるのであろうか、この女はそういうところがある。気はよくきいたし、おれと違い人付き合いも良く、そこそこ美人ではあったから、近所でも身内でも評判はよかった。
今はむしろ場違いのような若々しさで、昔よりさらに口うるさいし、小言が増えた。
なんだ、戻ってこない。少し焦って振り向くと、かた、と音がしたので、安堵して向き直るが、いっこうに来ない。耳を済ませてみると、上でドタバタと子供の無邪気に走り回る音がした。あぁ、なるほど。また相撲などやっていたのだろう、しばらく待つとあいつの子供たちを諌める声が聞こえて、おれは黙って立ち上がり酒瓶を取りまた座る。
「まだ飲むんですか、もう、このごろ量が多すぎやしませんか?」
それを何年言われてきたか。
まぁもう口癖のようなものだろう。お前はずっと同じことしか言わないな。
清太は達者であろうか。東京へ出てもうしばらく帰っていないが、あいつはおれに似て便りをよこさないのが便りのような所があるからな。末の子で人見知りの気があるからあれでやっていけるのだろうか、などぼんやり考える。
「おとうさん、清太からは便りは来ないのですか?」
「…」
「おとうさんから文をよこしたらいかがです、私も慶太も直太も、清太が心配なんですから」
「うん、」
そんなことを言うわけにいくか。心配させている、寂しがらせているというだけで重荷だと感じて、あいつは夢を諦めてでも帰ってきかねないのだから。
東京へ出るという時も、何度も振り返り振り返り、心配そうな瞳で、その割には会話のひとつもせず、不器用らしいおれたちなりの別れを交わしたのだから。
ひとりずっと縁側に座り庭を眺めて、長々と酒を飲むことしか、もうおれの人生に残ってなどいやしないと、1番よくわかっているからこそ、あいつはずっとおれを気にかけているのだから。
…歳を食ってから生まれたおれらの末の子、若い頃なりたかったおれの物書きの夢をそのまま受け継いだ子。おれは一度として家族の前でそれを話したことは無かったが、何故かずっと長い間その後悔が胸で燻っていたんだが、あれが物書きの夢を追い東京へ出ると言った日からすっと胸のつかえが下りた気がした。
雑多なこの国の首都を見てみないと、もっと人間に揉まれないと何も書けはしない、だからここを離れて夢を追おうと思うと口にした時は自分の息子ながらなかなかちゃんと意志を持った奴だと感心したものだ。
あの人間不信の無愛想野郎が、おれに似て可愛いやつが、人に揉まれようだなんてな。無事なら便りはない筈だからおれは遠くから見ていることにする。
「もうすぐ夏が来ますねおとうさん、雲が降りてきて、星も近いし、もう月があんなに湿っていますから」
今度は子供たちの頭をそれぞれ頭に乗せ、きっと手で背中を叩き寝かしつけながら、おれにそんなことをぼやいてるんだろう。きっといつものように慶太が右で直太は左で、おれはいつもうんともまぁとも言わず縁側で晩酌し、もう少し暑くなってくれば、子供たちが寝た後は晩酌を続けるおれを団扇で仰ぐ。おれがなにかに悩んでいる時は珍しくこいつも喋らず、なにか理由を詮索してくる事もなく、ただ背をとんとんと二回叩いた。
いつの間に空は焼け終わり、日と月とは向かい合いすれ違い、紺碧は深くなり、酒は尽きかけていた。
きっとあの木が一生を一年で繰り返すように、こうしておれが同じ一日を繰り返し、おれがいつか終わるが、それさえもあの木にしてみたら一年と同じで、また次の一年が始まるのだろう。たったそれだけの事だ。
「百合、」
随分とおい、なぁ、お前、で呼んできたので、名で呼ぶなど数える程しかない。あいつも、ねぇ、あなた、おとうさん、なんて、意外と恥ずかしがりだったのかもしれないな。返事はない。
忘れもしない四十二になり少しの頃、百合と慶太と直太とが出かけた先で火事があったと知らされたのはもう何もかも手遅れになった後だった。実家に預けられていたまだ幼い清太とおれとは、この世に残された。
いつもそうだ、お前ばかり、おれは置いてけぼりをくらう。おれが背で返事をしなければお前についていけただろうか。この背は背負う為にあるのだから、清太はおれに任せるといいが、お前達のことも背負っていたはずだったのにいつの間にすり抜けたか。
男手ひとりで清太を育て、母と兄を失ったがあいつはすれることも無く無事名前通り清く育ち、巣立ち、定年退職してから同じ日々をなぞるようになると、前より一層お前達の声が聴こえる。慶太も直太も二階でどたばた暴れるあの頃の中学生と小学生のまま、百合もずっと喋りころころ笑い表情を変えながらくるくると家事をする若々しい四十二のまま、おれのなかではずっとあのまま。おれはこんなに、言いたかないがしょぼくれて、体も弱って、清太はあれでもう二十を過ぎていくつか、もう忘れてしまった、それなのにお前達はずっとあのまま。
おれは黙ったまま酒を傾け縁側で庭を眺めていた。
この何年かずっとそうだった。
背中で返事をしたくても、本当は返事をする相手もいないと分かっていたが、もうそれでも良かった。
おれは黙ったまま酒を傾け、縁側で庭を眺めていた。
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