縹の手帖

凪澄

【邂逅】



雨だなぁ。個人的には好きだけどなぁ。だるいなぁ。雨宿りだけしてく人多いし、床濡れるから面倒だしなぁ。深夜だからまだいいけどコンビニバイトにしてみたら…いや、どの接客業でもやだよなぁ。

はー、とかため息をつきながら手は止めずに、品出しが終わってすぐフライヤーに向かう。


「おい」

「あっ、はい!」


この人は唯一、僕を「渡邊」でも「直樹」でもなく、おい、なぁ、と呼ぶ人。先輩。

無愛想だけど、正直可愛がられてる、と思いたい。無口で不器用で、でも案外わかりやすいその人は、僕が誘うと「ん」と言って肩を叩いて飲みに付き合ってくれるし、何か相談や愚痴があって誘う時は雰囲気で分かってくれて、「ん」のあとに頭をぽんぽん、と2回叩く。

それが、聞いてやる、いいぞ、の合図。


優しいんだ、あんがい。仕事出来るし、背中広くて。皆からは怖がられてるし、何考えてるかわかんないって煙たがられてるけど、僕から言わせれば先輩は割と分かりやすいひと。僕が入ってきた時からついてくれた先輩で、最初から苦手なんて思わなかったし、むしろその寡黙で真っ直ぐな人間性に惹かれていた。


「あと2分」

「はい、」

「ん」


僕が2分で時間通りに休憩に入れるようにと、フライヤーの前に立って代わってくれる。

名前なんて必要ないと思っているから、僕はずっと先輩、先輩はずっとおい、で通じる。都会での人間付き合いに疲れて仕事を辞めフリーターになった僕には心地よかった。


25の僕に、28の先輩。フリーターにはいろんな事情がある人も多い。小説家をやっているのだと、ただそれだけでは食っていけないのだと、古い騒がしい居酒屋の隅でこぼしてくれた。結構有名なんだと他の人が言っていたのに、どこの業界もそんなものなんだろうか。やりたい事をやっている人は、やりたい事なんて無くただ逃げてばかりの僕には輝いて見える。僕は完成して売られている本を読んだことはないしペンネームも聞かなかった。この人が書くものは売れても売れなくても良いものなんだろうと分かっていたから。

読ませたいと思えば持ってきてくれるだろうし、実際下書きのようなものを見せてくれたことがある。流麗な、神経質で、ただ優しい文字だった。活字になるのがもったいないから、僕はその方が好きだったし、それを貰った。


ん、なんか休憩に入る前にコピー機の前であたふたしてる人いるな。まぁお年寄りなんかは機械弱いしわかりにくいよな、ん?いやわりと若いかも。主婦?でもそれにしてもなんでこの時間に?とか思いながら声をかけた。

今どき珍しい着物のご婦人。今日祭りとかあったか?まだ梅雨よな。しかも夜中。暑くないのか?藤色に縹色の帯をしめた、40代かそこらのとても綺麗な人。育ちの良さそうな人。僕とは縁なさそうな世界だ。お茶や花道の家元かな?

なにやらコピーしたかったらしいが、気を使ったのかやはりいいです、なんてころころ笑いながら小走りで出ていった。

あれ、外雨だぞ、傘は。そう思って振り返った時にはもう居なくて、外に出てみたが雨の中をしばらく探してもその姿はなかった。コピー機の前に黒革の古びた手帖を忘れていった。


「また来るよな、たぶん」


表情がころころかわりよく犬のようだと言われる僕を、どこか母に似ている、と苦笑いしながら先輩は言ってて、さっきの女性もあたふたしたり笑ったりと表情豊かだったな、先輩のお母さんはあんな人かな?

綺麗だったしなぁ。お上品そうなのに意外だ、とか思いながら興味本位でその手帖を開いてみた。表紙の裏にも最後にも名前や連絡先がない。どうしようかなぁ。

ぱら、とめくると、あまりに流麗なその文字に驚いて、驚きすぎて、読み始めてしまった。

ページの割には全然文字数が少ない。短時間の僕の休憩でも読めてしまうほどだった。

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