置き去りの夏

髙嵜流介

置き去りの夏

記憶からどうしても消えない風景がある。一人の、女の子。麦わら帽子を右手で押さえ、純白のワンピースを風になびかせ、風に揺れる長い髪に見え隠れする、その小さな口は笑っているようで。

周りは星だ。つま先からあたまの頂まですべてを、満天の星に包み込まれた彼女の足は、地についていない。そもそも地面と空がつながっているのだ。広がるのはこの世の物とは思えない、星空。あまたの星屑が、光りの集積が伝えるのは、この世の終わりか、始まりか。

君はいったいだれなのか、ここはどこなのか、無数に揺蕩う問いかけは、記憶の中の住人の彼女には、いつも、届かない。彼女に伸ばした手は、星の光を遮るだけで届かない。何も届かない僕に彼女は初めて振り返り、目が麦わら帽子で隠れた顔を僕に向け、優しい、慈愛に満ちた笑みを浮かべて口をひらき―


目覚める。いつも通りだ。彼女は一体何を言いたいのか、何を、伝えようとしているのか。顔も名前も、もちろん誰かも分からない彼女の声は、いつも僕には届かない。最近よく見るこの夢は、僕の記憶に深く、根をはっている。昔からこの夢を見ていたような、そんな気がする。確信があるわけではない。ただ、妙に懐かしさを感じるこの夢は、寝ていない間でも、鮮明に脳裏に写る。日が経つにつれ、より鮮明になっているような、そんな気も、する。ただわかるのは、自分が彼女を探していること、それだけだ。

 汗ばんだ、乱れたシャツを脱ぎ捨てる。昨日は飲み会から帰ってきて、そのままぐっすりだったのだろう。まだお酒は飲みなれない。鈍い、酔いの痛みが頭を突き刺す。服を着替え、朝食の準備をして、いつも通りの朝を迎える。そのときふと、ズボンにかすかな重みを感じる。落ちたのは涙だった。乱暴に目元を拭い、支度を続ける。これも、いつも通りだ。

 

いつものカバンに道具を乱雑に投げ込み、たった一人の住人は家を暗転させる。人のいない家から主人を見送るのは、たくさんの、絵。

 

アトリエに着いた僕は、お気に入りの場所で準備を始める。台を組み立て、書きかけのキャンパスを置いて、筆を握る。目の前に広がるのは、あの星空と少女だ。

「きれいな絵だな、どこだ?」

後ろから絵を覗き込み、声をかけてきたのは、先生だった。先生は自宅をアトリエとして開放してくれていた。僕以外にも何人かの人たちが、絵を描きにやってくる。かなり格安な値段で場所を提供してくれているので、かなりの頻度で訪れては自由に絵を描き上げる。先生は定年後の人生を、好きな絵に捧げたと言っていた。たまに絵を覗き込んでは、一言残していく。頼めば、軽く指導をしてくれたりもする。僕は先生のおおらかな人柄をとても気に入っていた。悩み相談なんてことをしているときもある。絵以外でも頼りになる、人格者だった。

「どこ、というわけではないんです」

「空想上、といったところか?」

 確かに空想といえるのかもしれないが、少し違うような気もする。空想というには少し、鮮明だというか、かすかな違和感が鼻につく。

「ええ、まあ。そういったところでしょうか…」

 すこし濁した言葉で受け答えをする。どう答えるべきか、よくわからなかった。

 先生は目を細めて、星空を見つめる。首を傾け、腕を組みながら。

「なんだかこの絵、安いな。意思が伝わってこないというか…綺麗なだけで、何も思わない、そんな絵だ。」

 先生は訝しげな視線を僕に送る。

「君はこの絵の帰着点を、見出せていないように感じる。目的地のないまま、書き進めた絵は、なにも伝えてくれないぞ」

 ま、がんばれ、と先生は僕の肩に手を置き、他の人の絵を見に行った。肩に残った手の重みを、頭を振って忘れる。あまりにも言われたとおりだった。どう描いても夢の中の風景はキャンパスに現れてくれない。この絵も所詮まがい物でしかない。それでも、もし描いてみたなら、現実世界にあの星空を、少女を、産み落とすことができたのなら、何かが分かる気がしたのだ。僕が心惹かれ続けるあの風景を。

「おー綺麗な絵だな。ただなんとなく、意味が分からない?なんか惜しい絵だな、これ」

 アトリエに来ていた大学生ぐらいの青年二人組が、僕が席を離れたキャンバスの前で批評を始めている。

「何が悪いんだろうな、これ」

「色か?塗り方?それとも…才能なんかね」

 足りていないのは、色でもない。塗り方でもない。技術でも、やる気でも、才能でもない。僕にはなんとなくわかっていた。そんなことではないのだ、僕が描けないのはそんな理由ではない。

「すみません、それ僕の絵なんですけど」

「あ、すいません。どうぞどうぞ。いやー綺麗な絵ですね、これ」

「いえいえ、ありがとうございます」

先ほどの会話が聞かれたと思ったのか、少し焦りながら二人組は自らの場所に帰っていった。

キャンバスに向き合い自らに問いかける。何がいけない、何をどうすれば、この場所へたどり着けるのか。食い入るように星空を見つめる。記憶の中の星空と重ねて、確認する。景色自体はかなり酷似している。ただなにか、圧倒的に足りない何かが。

 この時初めて気が付いた。いつものこの夢の、記憶中の自分は、彼女と同じくらい。そうそれは、小学生ぐらいの子供だったのだ。


 麦わら帽子は、今日も斜めに彼女の顔を隠す。途方もなく綺麗な星の世界は、一体どこなのだろうか。日を追うほどに濃くなり続けるこの風景の中で、今日も僕は彼女を見つける。いつもの距離の彼女に、やはり僕は届かないのか。揺れる光は、底抜けの闇をとうとうと照らしながら、僕の心をつかんで離さない少女を嫋やかに輝かす。彼女が振り返り始める。穏やかに揺れ出す彼女の髪が、この夢の終わりがすぐ近くに来ていることを告げる。このまま、いつも通り終わるのか。振り返る彼女の口元が開き、そして―

  ―私を忘れないで―

 目が、覚める。


 子どもというのが、あの景色を、彼女を突き止める、カギになるような       気がする。徐々に確信へと近づくその思いは、声となって自らの脳に響く。僕の心は決まっていた。 

あの星空を見つけ出す。彼女を探し出す。日に日に鮮明になる切ない夢は、僕の心をより一層、掻き立てていた。書き終わらない絵はきっと、今のままでは書き終わらない。彼女と出会わなければ。君は一体誰なのか。きっとそれがわかったとき、あの絵は、何かを生み出すのではないだろうか。

 子供の、小学生のころを思い出そうとするにつれ、ある不思議なことに気付いた。どうも小学五、六年のころの記憶が圧倒的に少ない。覚えていない、というより何か不自然に穴が開いているような、そんな感覚がある。なぜ今まで気付かなかったのだろうか。

 僕は小学五、六年を新潟の、小さな、山奥の村で過ごしていた。親が転勤となり、一時的に祖母の家に預けられていたのだ。祖母にはしばらく会っていない。お正月などに手紙はたびたびくる。どうも元気ではあるみたいなので、祖母を訪ねることにした。遂に糸口が見えてきた。僕の心はひどく高鳴っている。やっと彼女を、見つけ出せるかもしれない。空想の中の彼女に少し手が届いたような気が、した。

 久々に来たこの村は、懐かしい香りと、やっぱり懐かしい景観で、僕を迎えた。この時、僕は確信した。夢と同じ懐かしさ。ここだ。ここに違いない。最後のピースがはまったパズルのような感覚。もう一歩、二歩、彼女に近づく。あと、少しだ。

 「あら、久しぶりね…よくきたわねえ」

突然の孫の訪問に祖母は目を丸くした。が、すぐにその顔は明るくなり、来るなら一言くれればいいのにねえ、とぼやきながら、僕を家の中へ通し、いそいそと家の中を歩き回っていた。

「なにもないのだけれど…来てくれてうれしいわあ、ありがとうねえ」

祖母は標準語を話す。どうも祖父の影響らしいが、詳しいことは知らない。

「突然おしかけちゃってごめんね」

「全然いいわよ。今日はいったいどうしたんだい?」

僕は息を整える。自然と上がった心拍数。これはなんだろうか、不安か、期待か、はたまた別の。僕は一枚の絵を取り出した。あの夢を必死に書き表した、この世に産み落としきれなかった、絵を。この絵が唯一の手がかりだ。

「ばあちゃん、この絵、わかるかな」

「どれどれ…」

祖母は絵を見て、声を止めた。そうして僕を見つめる。その顔は、驚きと、他にも何か複雑な、憐れむような、慈しむようなそんな色が混ざっていて。祖母はすっと立ち上がり、部屋を出ていく。複雑なその表情はなにをあらわしているのだろう。残された僕は手に余る不安を、古い畳に転がす。

 祖母はしばらくして戻ってきた。手にしているのは、アルバムか。祖母は何かに取りつかれたように、すさまじい速さでページをめくる。通り過ぎていくページにいるのは、ちいさな僕だ。これは、僕のアルバムみたいだ。

 待て。脳に響く声。体中から一斉に噴き出す汗は、体温を奪い、鼓動を早める。これ以上は、進んじゃいけない、見てはいけない、知ってはいけないのだ。何が、何があるのだ。ただ、もう、だめだ。体が、自分が、拒絶する。これ以上は、見ちゃいけない。

「やめてく」

遅かった。

「翔…この子、わかるかい…?」

白。真っ白だ。上がりきった呼吸は意識を刈り取り、目の前を一思いに白く塗りあげる。急激に傾いていく世界の中で、驚きに目を丸くする祖母の前で、かすかに残る意識の中で頭に浮かぶのは君の顔で、声で、思い出で、

 佳織―

暗転する。一筋の涙が、終わりの合図に、きらめいた。


「はい、みんなー。翔君分からないことばっかりだから、優しくしてあげてね」

無難な先生の言葉を背に、一つ空いた、自分を待つ席に僕は向かう。突然の転校に沈んだ気持ちは、そう簡単にはもりあがらない。小学五年生の内に、進級を間近にしての転校は、さすがにこたえた。親とも離れ、祖母との二人きりの生活は、寂しさがこたえる。友達との急な別れも、僕の心を凍りつかせるには、十分だった。

 しばらくして少しは友達ができたが、やはり、ここまでにできあがった輪の中にぽっとでの人が割り込むのは難しく、次第に、一人になっていった。その中で、彼女だけはいつも近くに居てくれた。

「翔、おはよう!」

トレードマークの麦わら帽子をおさえ、駆け寄ってくる。

「あぁ、おはよう。佳織」

僕が一人になりだしたころから、彼女はいつも僕の近くに居た。学校でも、外でも、ずっと一緒だった。

「今日も、あそこ、行く?」

「うん。また、いつものどおり、ね」

別れた僕たちは、それぞれの家に帰り、すぐにあわただしく支度をし、家を飛び出す。目指すのは、僕たちのいつもの場所だ。

 村の目の前に広がる山々の、その中の一つ。二番目に近く見えるその山のふもと。手が付けられず身勝手に生い茂った木々をかき分け、くぐりぬけたところに、そこはある。

「やあ、佳織。待ったかな?」

「ぜんぜん。また私が先に来ちゃった。早く来なきゃダメだぞ!」

頬をぐりぐりと、指で刺される。目の前に広がるのは、おおきな池。どうも山に溜まった雨水が豊かな土壌を通り抜けるうちに、ろ過され、湧水となり、この池をつくったみたいなのだ。空をも鮮明に映し出す、まるで鏡のような水面は、僕たちの心をつかんで離さなかった。たまたま遊んでいた時に見つけて以来、ほぼ毎日、二人で通い続けている。

 

小学六年生の夏、僕たちは学校の図書館である本を、見つけた。

「ペルセウス座、流星群?」

聞きなれない単語に、佳織は小さな首を傾げる。興奮に鼻息を荒くしながら、僕はページを開く。

「流星群が来るんだ!星が、たくさんの星が降ってくるんだよ!」

疑問に埋められていた佳織の目に、だんだんと光輝く星が映っていく、そんなような気がした

 ペルセウス座流星群、八月に落ちてくるあまたの星を、僕たちは目指した。テレビを食い入るようにみつめ、村では珍しかったパソコンを学校で借りて、あふれ出る情熱、こぼれ出す期待そのまま、追い求め続けた。目標の日はどんどん、近くなっていく。

 

星が降るその日、僕の体は心とともに跳ね上がる。おばあちゃんへの行ってきますもそこそこに、いつもの場所めがけて、飛び出す。空が大きく開けたそこは観測にもってこいの場所だった。

 待ち合わせよりかなり早くついた池に、僕一人の足音が響く。深く吸い込んだ息に、共鳴しているかのように、森がざわめく。佳織より先に来たのは久しぶりだった。今思うと佳織はいつも先にいた。

 佳織を待つ間、今日までの日々を何気無く回想する。ずっと一人ぼっちだった僕にとって、彼女は救い、そのものだった。いつも一緒に居てくれた彼女は、いつも僕の隣で…。ふと、思う。彼女以外に一緒にいる相手がいない僕と、佳織はずっと一緒にいた。    

彼女に他に友達は、一緒にいる相手はいなかったのだろうか。なんとなく首の後ろがちりちりする。この考えは、あまりよくないのかもしれない。まだ落ちてこない星を眺めながら、もやもやと、考えをめぐらす。では彼女は僕が来る前は一体どうしていたのだろうか。

「わ!今日は早いね。初めて負けちゃった…」

悔しそうな顔で佳織は木の陰から出てくる。さっきまでの考えを一度忘れ、佳織に笑いかける。

「楽しみでね、いてもたってもいられなかったんだ」

決して佳織は遅れてきたわけではない。むしろ待ち合わせ時間よりも少し早いくらいだ。ただ、それよりも僕が早かったのだ。それだけ興奮していたし、待ちきれなかった。二人ともまだ見ぬ流星群に、心はもう、奪われている。

「そろそろかな」

佳織は足元の草を一撫でして、僕の隣に腰掛ける。顔を上げ、二人で見つめる先は、星空。

「もうすぐだよ、翔、もうすぐでやっと…」

佳織のいつもより数倍早い鼓動が聞こえるような気がする。佳織の鼓動が、僕の鼓動と重なる。光り輝く星々と月は水面を煌々と輝かせ、僕たちは光に包まれる。静かに騒ぐ木々の声、そのすべてが暗闇に溶けだしたみたいで、そして

「「あ」」

見逃さない、見逃すわけない。一つ星が、落ちた。

「翔!見た?ねえ!見た?星、今!」

見た、間違いなく星が一つ、今、流れていった。

「見た!見えたよ!佳織!流れ星だ、今僕たちの上を、通り過ぎた!」

僕らは顔を見合わせる、佳織の目は歓喜に満ち溢れ、その顔には隠し切れない興奮の色が見える。佳織の目に映る僕も、きっと、同じ顔をしている。

 先頭をきった一つの星が、まるで道を開いたかのように、数々の星が流れ出す。いつも見ていた星空は、今は見たことない世界を僕たちに見せている。落ち続ける無数の星は、まるで世界の終わりを告げているみたいだ。落ち続けても消えない光は、より一層闇夜を輝かせ、もはや光に満ちた星のセカイに僕たちは、居る。

「ね、翔!見て見て!ほら!」

落ちてくる星に圧倒され、すっかり口が開いていた僕の肩を佳織が、慌ただしく叩く。

叩く掌から高くなっている体温を感じ、佳織が指をさす方へ目を向ける。その先にあるのは何度も見た、いつもの池があるはずだった。そして、いつものように、星空を鏡のように映している、そんな見慣れた景色が広がっているはずだった。

 圧巻だった。水面を揺らし星が湧き出てくる。流れた星が、水面からかえってくる。空の流れ星が世界の終わりを告げるなら、足元から湧き出る流れ星は、始まりの合図だ。                身体を包み込む光が、下を、上を、絶え間なく流れていく星々が、空と地の境目をあいまいにしていく。

「ね、翔」

「ん?なに?佳織」

佳織はワンピースの裾で芝生を撫でながら、腰を上げ、星空へ駆け出す。水面とはもうわからないそこの前で、星に包まれた佳織は振り返る。

「綺麗だね。見てよ、翔。私が空にいるみたい」

くるくる楽しそうに回って見せる彼女はもうこの星空のものだ。落ちそうになる麦わら帽子も、黒く艶やかに光る長い髪も、全部。

「ん、どうしたの?翔。もしかして見とれちゃった?」

「そ、そんなわけないじゃないか!からかうのはやめてくれよ!」

嘘だ。笑いながらからかってくる君に、心を奪われていた。そんなことは、言えない僕は、なんだか悔しくて、目をそらす。にやにや笑う君から目をそらすために、ひたすら星を追いかける。今まで生きてきた中で、最高の時間だと、子供ながらに、そう、思った。

 夢中な時間というものはすぐに過ぎるものだった。僕が帰らなければならない時間に、いつの間にか、なっていた。まだ流星群は終わらない。

「佳織、そろそろ帰らなきゃ」

相変わらず、池の近くを、飛び跳ねたり、くるくる回りながら、歩き回っている佳織に声を掛ける。星のセカイに佳織はまだ、居るみたいだ。

「もう、そんな時間か…」

佳織はまだ帰ってこない。どこか浮世離れした彼女の声に、手の届かない距離を感じる。

「翔、私まだちょっとだけここにいるから、先に帰ってて?心配しなくて大丈夫だから、ね?お願い」

「うーん…」

さすがに夜も遅いのに、佳織を置いていくわけにはいかない。しかし門限を破ってしまう。帰らなきゃ。

「お願いごと…したくて、あんまり見られたくないの!恥ずかしいもん…大丈夫だから!気を付けるから平気!」

そこまでお願いされると困ってしまう。時間は刻々と迫っている。佳織の意思を尊重するという理由ができてしまった僕の心は、傾いてしまう。

「わかったよ、そのかわり気を付けてね!」

本人も大丈夫だと言っている。こんな田舎に不審者なんてでない。見られたくないことは誰にだってある。仕方ないことだ。

「やった!気を付けて帰ります」

かわいく敬礼付きで僕を佳織は見送る。

「じゃあね、佳織。また明日」

なにか少し不安が残る。佳織はまだ星のセカイのものだ。

「じゃあね!翔。また明日!ちゃんと気を付けるから!大丈夫!」

こんなに思いっきりの笑顔で念を押されたらもう何も言えない。時間もまずい。鬱陶しいもやもやは全部喉の奥にしまいこむ。

 手を振る佳織に見送られ、僕はいつもの場所を後にする。まだ流星を眺めたい、名残惜しい気持ちは押さえ、駆け足で家に向かいだす。

「翔、」

 少しいったところで佳織の声が呼び止める。

焦る気持ちのまま、振り向く。佳織がなにか言っているが、よく聞こえない。笑顔で手を大きく振りまた帰り道を駆け出す。今、佳織の表情がおかしくなかっただろうか。いつもと違う。いや、気のせいだろう。頭を振って考えるのを終わりにして走り出す。結局、何と言っていたかは、わからなかった。佳織の声は森に吸い込まれ、流星に運ばれていった。


 「翔、ありがとう」

 佳織は泣いていた。



 祖母が、佳織ちゃんが亡くなった、と泣きながら伝えてきたのは、その翌日だった。



 全部、思い出した。目が覚める。覚醒した脳に記憶が一気に流れこみ、流れ込んだ記憶とは反対に涙は外へ流れていく。祖母の心配そうな顔が見える。どうも、写真をみたまま気を失ってしまったらしい。自分の体は記憶の奔流に流され、たえることができなかったみたいだ。

 やっと分かった。あの少女は、佳織だった。そしてあの場所は―

「いかなきゃ―」

身体を跳ね上げ走り出す。あの場所へ、いつもの場所へいかなきゃ。彼女はきっと待っている。僕は逃げ続けて、忘れてきた。加速する脳、鼓動、脈、全てが僕をあの場所へ、あの時に導こうとしている。

「ばあちゃん、ごめん、ありがとう。いってくる」

祖母は少し心配そうな顔をしていたが、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。

「いっておいで、翔。佳織ちゃんによろしくね」

手を振る祖母を背に、駆け出す。あの日の星に向かって、僕は佳織に会いに行く。

 昔と同じ道を走る。思い出したその道は、景色が変わっても分かる。大きく伸びた身長が、子供のころの巨大な木を、ひどく小さなものにしている。昔はくぐれた森の木も、今はかき分けなければならない。草をはらい、木を避け、ひたすら、走る。

 あの日佳織は、家に帰ってこなかった。かえってこない佳織を心配した親が警察に届け、捜索が行われた。夜通しで行われた捜索の結果、佳織は息絶えた状態で見つかった。溺死だった。星を見に来て、足を滑らせたのだろう、というのが警察の見立てだった。佳織の死を告げられた僕は、気を失い、倒れてしまったらしい。そして目を覚ました後、ショックからか、佳織の記憶を完全に無くしてしまったのだという。ここにおいておいてはいけないと、祖母が両親に連絡し、そのまま引き取られ、転校という運びとなった。卒業式をまたずの卒業に、当時の僕はかなり疑問を呈していたが、そういう経緯だったのだ。

 近い。記憶が、体の全神経がそう告げる。もうすぐだ。前より数倍茂った木の枝をかき分け、やっと森を抜けきると、そこは、いつもの場所だ。

 すっかり暗くなった空を見上げる。星空だけは変わらず、僕を見下ろす。あたりを見回す。やっと来れた。久しぶりの星空は、変わった僕を許してくれるのだろうか。

 何かにひきつけられるように、水面に近づく。飛んできた一片の葉は、水面に輪を生み、その輪は広がりながら、星を、揺らす。すると、さらに落ちてきた葉がまた新たな輪を作り出す。その輪が、さっきの輪とぶつかりまた新たに星を揺らし。輪はどこかで必ずぶつかる。二つの輪がぶつからないことはない。必ずどこで交錯して、触れ合って。

 水面へ近づき、手を、伸ばす。もし君の輪があるなら、僕の輪は、君と出会えるだろうか。叩く、指先。輪は広がっていく。止まるな、消えるな。君が揺らし続けた星を、僕が揺らす。

   「翔」

 振り向く。聞こえた、聞き逃さない、聞き間違えるわけない。振り向いた先に、佳織はいない。どこだ、君は。

「翔、こっちだよ」

 水面を伝って、輪をつくって、その声は僕の心を揺らす。泣きながら水鏡の星空へ、体を向ける。

「翔、久しぶり」

揺れる白のワンピース、長い髪は光を帯びて、麦わら帽子は飛んでいってしまいそうで。

「佳織―」

水面に立った君は、僕に幸せそうに、少しはにかんだその顔で僕に笑いかける。

「ありが、とう」

 向かい合わせの涙が同時に輪をつくって、そして、星が、落ちだす。

「大きくなったね、翔」

 落ちだした星が佳織の、泣きそうな笑顔を鮮明に、照らす。佳織は何も変わっていない。別れた時のまま、星が落ちたあの日のまま。それが、ひどく胸を締め付ける。

「前までは、ほっとんど一緒だったのになあ。それとも私の方が少し大きかった?」

 必死な元気は、余計に僕の胸を、締め付ける。落ち続ける星は佳織の涙なのか。あの、

時と同じ流星が、切ない。

「佳織…ごめん、ごめん…」

止まらない涙。謝っても、謝っても、足りない。佳織の笑顔はもう崩れ去り、幼い、小さな体から勝手に流れ出そうとする涙を、必死にこらえる。

「君を忘れていた、僕は、君を忘れたんだ。怖くて、受け止められなくて、全部忘れたんだ…」

 もう僕の口も頭も、ろくに回っていない。子供のころに戻ったみたいな喋り方で、言っていることもめちゃくちゃなのに、佳織はずっと、必死にうなずいている。佳織も、もう我慢できていない。手の届く距離にいる佳織に手は伸ばさず、溢れる思いは口からこぼれ続ける。

「俺が、あの時君を置いていかなければ、そのせいで君は」

「ちがう、ちがうよ」

 佳織がぐちゃぐちゃの顔で必死に頭を横に振る。

「私が、わがまま言ったの…私がお願い、したくて…ごめんね。足、滑らしちゃった」

 まるで、ドジを踏んだみたいに、佳織はてへへ、と、笑う。佳織は涙を拭うのも忘れ、あのときのことを、語る。

「私ね、翔と一緒に居られますように、ってお願いしたくて」

 佳織は少し、恥ずかしそうに、赤い目で話す。

「私、翔がこっちに来るまで。ずっと一人ぼっちだったから」

 少し、謎が解けたような気がした。

「だから、翔が来てから、ほんとに毎日が楽しくて、幸せで。だから…ありがとうって、いいたくて。翔が走って行ってからにしか言えなかったから、聞こえなかったかもなあ」

 とうとうと流れ続ける佳織の気持ちが僕の体を通り抜け、心に直接響く。

「ねえ、翔?」

 佳織は一歩水面をすすみ、僕の顔を覗き込む。

「辛いおもいさせて、ごめんね?」

 一番、辛かったのは君なのに、そうやって君は僕を心配する。昔の子供のころに戻ったみたいに、悔しいくらいに、涙は止まらない。

「翔!泣き止みなさい!なんでおっきいのに泣いてるの!」

 泣きじゃくりながらのかわいいお説教が僕に降りかかる。雑に目を拭い、佳織を正面から見つめる。

「もう謝っちゃダメ、翔は何にも悪くない!だから責任なんて感じなくていいの」

佳織は僕に前を向けと、そういう。

「翔はこれからまだまだ生きていくの、私の分まで、ね。だからいつまでも私にごめんって思わないで。翔のこれからを邪魔したくないの」

 胸をはって、いいことを言ってやったと言わんばかりの佳織の態度に、少し笑ってしまう。

「翔、最後に一つだけ、お願い」

「なんでも。なんだい?」 

 佳織その顔は、今まで見たことないほど、今にも消えてしまいそうなほど、脆く、儚い。

「私、さびしがり屋だからさ、すっごくごめんなんだけど…」

 この時間の終わりの近さをなんとなく、ただ、確かに感じる中、消えてしまいそうなあの日の流星の中、佳織は言葉を紡ぐ。

「ずっと、忘れないで、ね?翔の心の中で、思い出の中で、ずっと一緒にいさせて、ね」

 一度止めた涙は、向かい合わせで、また、水面を叩く。

 もう終わる。この時間は終わりだ。二人ともわかっている、気付いている。最後にいいたいことは、二人とも、もちろん。

「翔」

「佳織」

 僕たちはお別れするのではない。一度別れるわけでもない。だから別れのあいさつじゃなくて。

「今までありがとう、そして―


  「「これからもよろしく、ね」」


 空にとどまって落ちてこない星、葉がひらひらと落ちる静かな水面。もうここに佳織はいない。

「一緒、だもんな」

振り返り、立ち去る。白いワンピースの裾がふわりと、翻ったような気がした。

「また、来ような」


「おかえり、翔」

祖母は僕の顔を見て、とても優しい笑みを浮かべる。鏡なんか見なくても、自分の顔は想像がつく。

「ただいま、ばあちゃん」

荷物を置いて、家の中に入っていく。まだ、玄関で笑みを浮かべたままの祖母に、不意に振り向き、話しかける。

「ね。ばあちゃん」

なんだい?と首を少し、傾げる。

「明日、お墓参りに行こうか」

「―そうね」

祖母は、優しい微笑みそのまま、頬を光らせていた。



「うわ、なんだこの絵、やばいな」

「すっげえなあ、大賞だぜ。やっぱ引き込まれるものが違うわ…」

 前と同じように、二人に声を掛ける。

「すみません、それ僕の絵です」

アトリエの壁に額縁に入れて飾られた一枚の絵。帰ってきた僕が描いた、一枚の絵。男二人は、目をくるくる左右に転がし、絵と僕を交互に見て。何かを思い出したみたいだ。

「「やっぱ才能があるって思ってたっす!」」

 

先生と二人で絵を前にする。

「やっと、描けたな、翔」

先生は絵を優しい手つきで、愛おしそうに、撫でる。僕自身この絵の出来には、正直驚いた。まさかコンテストで自分が大賞を獲れるなんて、夢にも思っていなかった。

「なあ、翔、結局この女の子はだ誰なんだ?あと、ここどこだ?」

あたり一面の星空、落ちてくる星と、昇る星の間に、女の子が、一人。

「あと、こいつ。お前だろう」

そして、その隣には男の子が、一人。

「さあ。どうでしょうね」

このやろう。と先生は僕の頭をぐしゃぐしゃにして、他の絵を見に行く。きっと先生に探る気なんてもともと無いのだろう。帰ってきた僕が描きだした絵を見た先生は、「よかったな」と言って、さっきみたいに頭を痛いぐらい、撫でまわしていた。先生には頭が上がらないな、と思う。

「どうかな、佳織」

 一人になって、絵を眺める。佳織の笑顔が、見えるような気がする。

―やるじゃん!翔!―

「なんで偉そうなんだよ」

 くすりと、笑みがこぼれてしまう。

 これでずっと一緒だ。

 次の絵を描きだそう。絵の前を離れ、また、真っ白なキャンパスを手に取る。

「俺がこれからどんな絵をかくか、見てろよ、佳織」

 

 アトリエに飾られた一枚の絵。忘れない、忘れられない、記憶の絵。少し自嘲気味な、それでも、誰が見ても、なぜか心にぴったりと合わさるその絵のタイトルは

                         

              ―おきざりの夏―

                             


                                    完

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置き去りの夏 髙嵜流介 @ryu0827

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