第18話

 白い椅子に浅く腰かけ、白いテーブルに肘をつき、こぼれ落ちそうな頭を支え、全力で頭を回転させる。

 ああするべきか、こうすべきか、どうするべきか。

 内心、珠菜はわかっていた。これは『ふり』だと。

 考えているふり。試験で難問にぶつかるたびやっているものの、効果も結果も出たためしはない。

 リトライは百回あるはずだった。自分はまだ二十回ほどしかそれをしていないつもりだった。

 ──瘴気に支配されていたとき、あなたは何度も飛び降りた。

 ティーアから聞かされたリトライの回数があと一度の理由。返す言葉もなかった。

 動悸がする。呼吸が乱れる。無意味にまばたきを繰り返す。時間だけがこぼれていく。

 もう後がないとわかった途端、覚悟が生まれるどころか、現実から目を背けていた。

 逃げたい、と思った。

「悲しい、悲しい」

 隣からティーアの声。そして何かが割れる音。

「目指す場所は見えている。そこに手を伸ばす。だけどはずれる。それは悲しい」

 目だけ動かしてティーアを見た。

 いつからそんなものがあったのか、二メートルほど先に白いダーツスタンドが立っており、白いダーツボードが固定されていた。

 そこに向けてティーアはダーツを投げている。それはボードをかすることもなく通り過ぎ、床に落ちて割れた。どうやらダーツはガラス製のようで、実用的ではないなと珠菜は思った。

「それはどうしたの、ティーア」

「地下室にユニークなものがあったので持ってきた。でもあまりユニークではなかった。これは私のいうことをきいてくれない。珠菜もやってみるといい」

 そう言ってダーツを一つわたされる。白くて冷たくて見た目より重い。だけどいいダーツだ。

 珠菜は椅子に座った状態で一瞬だけ構えると、手の中のダーツを羽ばたかせるように指を開き、飛ばす。それは定規ではかったようにボードの中央にたどり着く。

 それを見ていたティーアは、あごに指をあて、不思議そうに首をひねる。

 そしてこう言った。

「私は、もっと遠くから投げていた気がする」

 そう言ってダーツスタンドに近づくと、それを遠くに押しはじめる。スタンドの脚にはキャスターがついているようで、コロコロと離れていく。

 納得のいく距離まで進めることができたのか、ティーアはボードの中心に突き刺さったダーツを抜いて、再びそれを珠菜に手わたす。

「たぶん、このくらいだと難しい」

 珠菜とボードの間には三メートルの距離。珠菜は先ほどと同じ動きで投げて、先ほどと同じ位置にあてた。

 ティーアはまたスタンドを離す。珠菜はまたあてる。ティーアはさらに離す。珠菜はそれをものともしない。

 八メートル以上の距離でも、まるで手前から投げているみたいに中央にあててみせる珠菜に、ティーアはこう言った。

「強く、素早く、まばたきを十回してほしい」と。

 なぜそんなことを、と思ってみたものの、一応、言われた通りのことをする。目にうっすらと涙が滲む。

 するとティーアは腕を伸ばし、指を珠菜の顔にあて、頬を強くつねった。

 痛みと驚きで珠菜の瞳から涙が一つこぼれる。ティーアはそれを指ですくって舐めた。

「これで私は珠菜と同等の力を得たはず」

 ティーアは一メートル先のボードに向けてダーツを投げる。床に刺さる。首をかしげる。

 珠菜は小さく笑って「なんだか、なつかしいな」と言った。

 小学二年生、芹と出会って間もないころ。好きなゲームの話になって、自分はダーツが好きだと言うと、だったらうちで遊びましょうと誘われた。

 大人用で高級なダーツセットを前に、珠菜は目をキラキラさせた。

 芹と遊ぶのは楽しかった。それは別にダーツである必要はなかった。

 一緒にいる、それだけで嬉しい。心からそう思えた、はじめてのともだち。

 彼女を救えるチャンスは、あと一度だけ。

「こんなことしてる場合じゃないのにな」

 テーブルの上にある水時計の残りは一分もないように見える。

 視線の先には白いダーツスタンド。その足下にはティーアのこわしたダーツがある。

「…………」

 それを見て、ふと、思いつく。

「……もしかして、そういうことなのかもしれない」

「どうしたの?」ティーアは訊く。

 珠菜は言う。「こわせばいいのかな、って」

 ティーアは疑問符を浮かべている。

 珠菜は言う。「私が迷ってると、芹はいつも『そんなのこわせばいい』って突拍子もないことをするんだけど、でもそれがけっこう上手くいくときもあるんだ」珠菜は何かを受け取るように、左手を右手で包む。「だから私も最後のリトライで壊してみようと思う。これまでのリトライで一度もやってないこと、不謹慎なのかもしれないけど──楽しんでこようと思う」

 白い椅子から立ち上がり、腕を伸ばし、目の前の少女の頬に指をあてる。

「珠菜が信じるなら、きっとその道は正しい」ティーアは瞳を閉じる。

 白い少女の右目からこぼれる涙が、少女の指にふれた。


【残り時間 一〇〇秒】

 珠菜はまず振り返り、やるべきことをやる。

「おいで、乃愛ちゃん」

 名前を呼ばれ、教卓の中から歩斗家乃愛が顔を出す。

「珠菜? どうして珠菜が──」突然現れた親友の姿に動揺し「その子、誰?」教卓から出てきた少女に困惑している。

「ねえ芹。スマートフォン、見せて」そう言って、右手を差し出す。

「──?」

 目的はわからないけれど、スカートのポケットからそれを取り出して珠菜の手にのせる。

「あのね芹、私、ここに何が入ってるか知ってるよ」

 芹のスマートフォンにつけられた近衛兵のストラップをゆらして見せる。

「え? どうして?」

 その疑問には答えず、珠菜は話を進める。

「あのね芹、私、高校生になるのが楽しみなんだ。高校三年生になったら自動車の免許が取れるでしょ? 学科試験の予習ならもう何回もやってるし、今すぐしても満点取れる自信あるよ」

「…………」

「バイトもして、小さくていいから新車を買って、それでね芹、二人で一緒にいろんなところにいこうよ」

 楽しい話をしているはずなのに、なぜか涙がこみ上げてくる。珠菜はそれを必死に押し殺す。

「それが何かはわからないけど、たぶん芹は今、大きなことで悩んで、苦しんでるんだと思う。私に頼りがいがないから芹をひとりぼっちにしてるのかもしれないけど、でも、言ってくれないと、いつまで経ってもわからないよ。わからないまま終わるのはいやだよ。わからないままお別れは、もういやだよ」

 結局、涙をこらえることはできなかった。

「……だからね、芹。ここから抜け出して、一緒に中学を卒業して、一緒に高校生になろうよ。私はもっとずっと、芹といたいよ」

 このリトライを、楽しむことはできなかった。

 だけど、届けたい想いを届けることはできた。

 そして、想いが伝染したように、芹の目に涙。

「……どうしてもっと、早く気づけなかったんだろう」一歩を踏み出し、芹は珠菜に歩み寄る。「私ね、ずっとバカなこと考えてたの。でもそうじゃなかった……私は間違ってた……」

 芹は、ゆっくりと右手を前にのばす。

 奇妙な感覚が珠菜の胸に入り込む。理由はすぐにわかった。

 はさみだ。

 細く長く鋭利な銀色の美しい鋏が、自分の胸に刺さっていた。芹に刺されていた。

「……せり?」

 御暁芹は親友の胸から鋏を抜いた。

 焼かれるような痛みが遅れてやってくる。

「……芹……どうして?」

 そこで珠菜は見てしまった。

「最初からこうすればよかったんだよ」瘴気に汚された親友の瞳を。「必死にがんばってきた。でもダメだった。私はあいつから珠菜を守れない。このままだと、いつか珠菜はあいつに──」芹の表情は恐怖で歪んでいく。「でも、こうすればよかったんだよ」救われたように芹は笑う。「心配しないで。珠菜をひとりぼっちになんてしないから」

 芹は珠菜を刺した鋏を自分の首に近づけていく。

 やめて芹、お願いだから──のどの奥がげたように、珠菜は声を発せられない。

 そして、御暁芹は鋏でみずからの首をつらぬい


【残り時間 〇秒】


「やめて──」

 声帯ごと切り裂くような叫びが、白の部屋にむなしく吸い込まれていく。

「なんで……どうして?」

「祈りを込めて立ち上がった──」

「どうして芹は私を?」

「全てを賭けて立ち向かった──」

「意味が……」

「それでも──叶わなかった──」

「意味がわからないよ……」

「だから人は──涙をこぼす──」

 珠菜は、そこに崩れた。

「あなたならきっとこの試練をのりこえ、御暁芹に新たな時間を与えられると信じていた……だけど結果として、それはあなたをより深く傷つけてしまうだけだった」

 ティーアは珠菜に背を向け、ダーツスタンドに額をつけて、消えるような声でつぶやいた。

「……ごめんなさい」

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